37 : 布団に包んだ秘密
「ノイ様、先ほどは失礼いたしました。アイドニと申します。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
折り目正しく礼をとったアイドニに、カルディアは目を細める。
「やあ、アイドニ。大きくなったね」
「カルディア様――アイドニのことを忘れていなかったようで、安心いたしましたわ」
「おや、ご無沙汰だから拗ねているのかな? 許しておくれ。可愛い子」
カルディアはそう言うと、アイドニの頭をぽんぽんと二回叩いた。ノイの胸が、ノイの意思を無視して、勝手にきゅっと縮む。先程アイドニがカルディアと仲が良いと言っていたのは、本当だったようだ。
アイドニは女神さえも嫉妬するような美しい笑顔で、にこりと笑う。
「ふふ、仕方がないから、許して差し上げますわ。カルディア様」
挨拶を終えたアイドニは二人を大広間へと連れて行った。
カブやトウモロコシに齧り付くノイが腹を空かせていると感じ取った郷の人々が、大慌てで夕食の用意を進めたのだ。あれから炊事場は大忙しだったはずだ。
豪華な食事だったが、ククヴァイアは同席しなかった。活動の限界だったのだろう。部屋で休むことになったらしい。
代わりに、次期当主と名高いツェーラという女性が、ノイらを歓待した。
この屋敷に足を踏み入れた時からノイはずっと思っていたのだが、このつむぎの郷はどうやら、男性が少ないようだ。女性五人に対して、男性が一人。といった具合だった。
ノイが育った、祖父のつむぎの郷はどちらかと言えば男の方が多かったので、不思議に感じる。
カルディアがゆで卵を美味しそうに食べ終えた頃、風呂へと誘導された。一日をかけて地上を移動してきたため、ノイはありがたく湯を貰うことにした。
大きな郷に相応しい、大浴場だった。それも、露天である。
女湯と書かれていた湯船は、まるで池のように大きい。ずらりと柱に囲まれた湯船は大人が何人でも入れそうなほど大きく、上から滝のように次々と湯が流れている。
丸くて大きな石のテーブルも気になっていると、石を温めて寝転がるのだと、アイドニが教えてくれた。
「他の人は?」
「まずはお客様に入って頂くのが、当郷の習わしですの」
脱衣所で真っ裸になったノイの後ろに、下衣姿のアイドニが続く。
浴場に入ってすぐに、アイドニはノイに声をかけた。
「先ほどは、礼を欠いた真似を致しました。改めて謝罪いたしますわ」
アイドニが両手を広げ、指と指を交差させると、頭を下げる。
昼間とは真逆の対応を見せるアイドニに、ノイはぽかんとした。
「何故、謝りたくなったんだ?」
人は基本的に、謝りたい時にしか謝らない。そしてそれは、反省している時に限らない。
ノイは彼女の瞳をじっと見つめて尋ねた。アイドニは、そんなノイに一瞬たじろぐも、声を低くして理由を言った。
「……貴方様が、カルディア様の花嫁だったからですわ」
ノイに後ろ盾が出来たから、すり寄っておきたいということだろうか。しかしそれにしては、潔い礼だった。
「私が花嫁だったから?」
「――これ以上はどうぞ、ご容赦くださいませ」
アイドニはノイの目から逃げると、低く視線を落とした。
よほど言いたくないのか、自分でも言語化出来ないのか、もしくはその両方なのかもしれない。
(アイドニはまだ、少女だ)
十七歳というアイドニ。見た目はノイの方が幼くとも、ノイはこう見えて、中身は成人した女性である。未熟な女の子の成長を見守ることは、苦ではない。
「……わかった。なら、言いたくなったら言うといい」
ふっと微笑を浮かべたノイは、アイドニの頭に手を伸ばして、ぽんぽんと叩いた。アイドニは目を見開き、ほけっと小さく口を開ける。
「さあ。世話をしてくれるつもりで来たんだろう? せっかくだ。よろしく頼む」
こんな機会でも無ければ、貴族のような待遇を受けることもないだろう。一体どんな風にもてなしてくれるのか、ノイはわくわくした。
「せっかくだと言われましても……わたくし、普通の洗い方しか存じ上げませんわ」
「なら、普通に洗ってくれ!」
「変に大人びていると思ったら……そんなところは、郷の子達と変わらないんですのね」
アイドニはノイを椅子に座らせると、椅子の側に積まれていた手のひらサイズの二枚合わせの貝殻を、ぐるりと回して両手で引き剥がした。貝殻が引き剥がれると同時に、真ん中に水が生まれる。アイドニは貝殻をノイの頭の両端に合わせて、水で髪を濡らした。
アイドニの細い指がノイの地肌を這い、髪を手繰り寄せる。ノイの髪は、アイドニが浮かせた水の中にすっぽりと入り込んでしまった。アイドニは水の中に手を突っ込んで、ノイの頭を洗う。
「すごいなこれは……湯を掬わなくていいのか」
「まあ。何十年前の話をなさってるんですの?」
山奥でも浮島でも入浴時には浴舟を使っていたため、こんな最新の魔法道具には触れたことがなかった。
「撚るのが上手いな」
「まあ、魔力ナシでも――失礼致しました。貴方様にも、わかるものなんですの?」
「ははっ。今更かしこまらなくていい。ああ。なんとなくだが、わかる」
普及している魔法道具は、魔法を使えない一般の人々が使いやすいように作られている。一定量の魔力を注ぐだけで発動するものがほとんどだ。
だが魔法使いの家にしかないような魔法道具は、些か扱いが繊細になる。アイドニが使った貝殻のように、水をそのまま浮かすような魔法道具は、使用中も魔力の制御が必要になる。
この魔法道具はきっと、便利だから使っているのではない。
幼い頃から、郷の子ども達に魔力のコントロールを練習させるため、特訓を日常に落とし込んでいるのだ。
「……このくらい、出来て当然ですわ。本当は、わたくしがカルディア様の弟子になるはずだったんですもの」
ノイの髪を洗いながら、アイドニが呟いた。
『カルディア様のお慈悲で弟子にしていただいた、オルニスさんじゃないですか』
出会い頭に彼女が、オルニスにぶつけた言葉。気になっていなかったと言えば、嘘になる。ただ、ノイはその事実関係を知らないため、下手に叱咤も擁護も出来なかった。
アイドニは呟き以上のことは口にせず、ノイの髪を洗い続けた。
髪や体は魔法道具を使わずに洗えたため、ノイが自分で行った。全身綺麗になると、ノイは満足して湯船に浸かる。
「アイドニもおいで」
「ですが……」
「黙っておけばいいのだろう? 大丈夫だ。口は堅い」
湯船の縁に肘をついたノイは口を一文字に引き結ぶと、右から左に指を動かした。その動きを見て、アイドニも渋々湯船に浸かる。
膝を突き、下衣の裾を手で押さえ、そっと指先でお湯の温度を確かめる仕草さえ、アイドニは絵になった。薄い衣は水に濡れ、扇情的だ。天使にさえ、邪な気を起こさせるだろう。
「よく下の子の世話をしているのか?」
「え?」
ゆっくりと足から湯に浸かっていったアイドニが、ノイを見る。
「髪、すごく洗うのが上手かったから」
「……子ども達が、勝手に懐いてくるんですの」
自ら子どもの世話をしていると告げるのが面はゆいのか、アイドニはそっぽを向いて答えた。
ノイを世話する彼女の手つきは、優しかった。人に触れ慣れた触り方は、触れる相手のことを考えた力加減だった。
「アイドニは優しい子なんだな」
「……わたくしが、優しい?」
空色の瞳が見開かれる。小さく開いた唇は、風呂の蒸気で赤く熟れていた。
ぽかんとしていたアイドニだったが、やがて慌てて視線を逸らす。
「や、優しいはともかく、子とはなんなんですの。子とは。わたくしの方が、年上ですのよ」
「優しいお姉さんなんだな」
「べ、別に、言い換えてほしかったわけでは……」
アイドニは肩まで湯に浸かって、もごもごと口にする。
触れれば棘に刺さりそうな冷ややかな笑顔も、冷静でしとやかな仮面も、全てお湯に流れていったらしい。
彼女の着ている下衣の裾が水面に広がり、ひらひら揺れる。
「……わたくしは、しなければならないことをしているだけですわ。下の子達の年長者として、ククヴァイアの曾孫として」
ククヴァイアの血筋の者だったのかと、ノイは瞬きをした。道理で、アイドニから気品を感じられたわけだ。彼女は遠くはあるものの、王族の血を通わせているのだから。
波打つ湯の表面に、柔らかな月明かりが落ち、アイドニを照らす。
「そうしていれば、いつかきっと……お母様も……」
立てた両膝に顔を埋めるようにして、アイドニは言葉を漏らした。お湯に消えていった言葉は最後まで聞こえなかったが、横顔からは切実な祈りにも似たものを感じ取れた。
自分にハッとしたアイドニは、姿勢を正して背筋を伸ばすと、取り繕うように話題を変える。
「――そ、それよりもっ。いつも、あれほど近いんですの?」
「カルディアとか? まあ、そうだな。大抵は――」
「オルニスとです」
「へ?」