32 : 死なずの魂
これほど望まれていたことを知り、後悔がノイの胸を刺す。
痛みに顔を歪めないよう、必死に笑いながら、ノイはカルディアに返事をした。
「……すまなかった。お前をずっと、一人にして」
夢で会いたいと望むほど、孤独だったのだろうか。カルディアは少し考えた後、小さく首を横に振った。
「……一人じゃ、ありませんでした」
苦しいだろうに、喉からひゅうひゅうと音をさせながらも、カルディアは必死にノイと話そうとする。
「……この百年で、貴方に倣って、弟子を取ったんですよ」
ぽつりぽつりと、乾いた唇でカルディアが紡ぐ。
「色々あって……こんな辺境に飛ばされもしましたが、でも、貴方が言う通り……世界が、俺を愛してくれる日を、フェンガローのクソ爺と、待ちました」
掠れ掠れのカルディアの声は、一瞬でも気を抜くと聞き漏らしてしまうほどに小さく、頼りなく揺れている。
そんな声を胸で受け止めながら、ノイは涙で前が見えなかった。必死に口を閉じていなければ、嗚咽が漏れ出て、しょうもない声を出してしまいそうだった。
(カルディアは、立派になった)
知っていたつもりだった。けれどそれは、見た目や、称号や、魔法の凄さにばかり着目したものであった。
そうではなく、そうではなく。
カルディアは本当に、色んなことを経験して、色んな挫折を知り、色んな人と触れ合って、大人になったのだ。――ノイの導きに、従って。
「……お師様」
ノイが何も言えずにいると、カルディアは小さな声でノイを呼んだ。
「怖い」
「――ッ、大丈夫。大丈夫だ! 私が傍にいる!」
堪えきれず、震える声で答えた。涙は止めどなく溢れていて、止めることなど出来なかった。
カルディアの抱える事情も、恐怖も、今のノイは何も知らない。けれど、弟子が――カルディアが怖いと泣くのなら、それを取り除いてやるのが、師匠の、ノイの役目であってほしかった。
「……いなくなるくせに」
「いなくならない!」
ノイは、カルディアの手を両手で握りしめた。
ノイのことを夢だと思っているカルディアは、ノイの言葉を本気と捉えていないようだった。
「――お師様。あの世で、幸せですか? あのクソ爺と、結婚しましたか?」
呆気にとられて、ノイは笑った。怖いと言ったその口で、そんなしょうもないことを聞いてくるカルディアがおかしかった。クソ爺とは、先ほどの台詞からすると、フェンガローのことだろう。
「してない」
「よかった」
一体、何をしたんだとフェンガローにも笑いがこみ上げてきた。ノイの笑った声を聞いたカルディアが、ホッと息を吐く。
「お師様」
月明かりでなければ、きっと溶けてしまっていただろう。それほど細やかな声だった。
「あの頃、貴方が俺に言ってくれてたことが、少しずつわかるようになりました。……お師様、どうか、幸せでいて。俺は楽しく、生きてますから」
ノイは口に手を当てると、体を大きく震わせて泣き始めた。
(――百年、百年だ)
ノイを知る者は、カルディア以外には誰もおらず、ノイを語る者は、まるでおとぎ話のように話す。それほどに長く、永い。永劫のような時の中。
『楽しいことをしよう、カルディア』
街で肩を震わせていた小さな少年に言った、あんな一言を――
(ずっと、守ろうとしてくれていたのか)
人は、誰も思い出すものがいなくなったら、死ぬのだと言う。
(朝方見た、あの霊廟は――間違い無く、私のものなんだろう)
百年間、きっと亡骸さえ見つからない中、ノイを知る者が誰一人いなくなってもずっと――カルディアはああして、花が枯れる間もないほどに頻繁に、参ってくれていたに違いない。
(ああ、私は、百年……)
決して、死んではいなかったのだ。生きていたのだ。
ずっと、彼の中で。そして彼が紡ぐ、絆の中で――ずっと。
何も言葉に出来なかった。涙が流れ、嗚咽を殺すのに必死だったから。
だからノイは、涙を拭うと必死に笑った。
カルディアはノイの笑顔を見ると、安堵の息をつく。
ノイは自然と体を動かしていた。彼女の唇が、カルディアの額に触れる。
カルディアはゆっくりと目を細めた。柔らかな熱を帯びた目尻が愛しさに染まり、真っ赤な目でノイを必死に見つめている。そしてそのまま、再び眠りについた。
大きな窓から、月明かりが差し込む。
ノイは遠い星を眺めながら、彼が百年歩いて来た道を思い、その努力と覚悟に、ただただ胸を打たれていた。
***
カルディアが目を覚ました時、部屋は蒸し風呂のように暑かった。
汗をびっしょりとかいたカルディアが起き上がると、額の上から濡れた布巾がずり落ちる。すぐ横を見ると、ノイが地面に座り、ベッドに上体をうつ伏せて眠っていた。その横には、水桶がある。
カーテンがそよぎ、開け放たれた窓から、鳥の鳴き声が入り込む。
カルディアは腕を一振りさせて窓を閉めると、部屋の空調を整える魔法道具を発動させた。
ハッとして自身の服を確認したが、帯が多少緩んでいること以外は、何も変わっていなかった。
(……脱がされた形跡はない)
大丈夫だと自分に言い聞かせると、カルディアはノイを見た。
ずっと自分を看病していたのだろう。疲れ果てて眠っているノイは、小さな口を開けて呼吸している。
倒れた時のことは、うっすらと記憶にある。
朝、眩しくて目が覚めるのは本当に久しぶりのことだった。もう、忘れていた感覚ですらあった。
カーテンが開いていることに驚いて、自分の隣にノイがいないことに、それ以上に驚いて――全てが、自分の見ていた長く、優しい幻だったのかと、動揺してしまった。
そうして動揺したカルディアの不意を狙い、アレが目を覚まそうとした。
カルディアは、自分の腹を撫でる。服の下には、到底人の肌とは思えない硬い感触がある。
ノイがいない――その衝動と共鳴し、カルディアの意思に反してアレが内部から魔力を高めようとした結果、魔力が暴発した。
撚らずに漏れ出た魔力は火花となり、体内で留まった魔力は捻れてしまった。寝ている間に収まったのか、魔法をいつも通りに使えるまで回復していたが――こんなことになるとは、夢にも思っていなかった。
(いいや……何かあっては遅いからと、空に来たんだっけな)
自身すら信じられない恐怖を抱え、カルディアは空へ渡った。人がいなければ何処でも良かった。
なのに、海の底よりも空を選んだのは、少しでも天に昇った師の傍に行きたかったからなのかもしれない。
ノイの顔を見ると、ふっくらとした柔らかな頬に、涙の跡が残っていた。
(……泣いていたのか)
心配させたことに気付き、カルディアはノイの体を抱え、隣に横たわらせる。
そして、優しく頬を親指で撫でた。焼く前のパンのように柔らかな肌は、カルディアの硬い指に押されて形を変える。
カルディアは唇を噛んだ。
(……誰かの涙を拭いたいだなんて思ったのは、百年ぶりだ)
心地よさよりも、苦しさを感じる。
心を強く動かされることに、カルディアは慣れていなかった。自分から切り離した感情だとすら思っていた。
(こんなの、もう二度と、必要ないと……)
大切なものは皆、カルディアを置いていってしまう。
父母も、師匠も、クソ爺も、育てた多くの弟子達も――カルディアを置いて、先に逝った。
(けど、君といると……もしかしてまだ、魔法使いとして生きられるんじゃないかと、希望が湧く)
カルディアを魔法使いと言い張った、ノイ・ガレネーはもういない。
けれど、この小さなノイといる時のカルディアは、己が望む魔法使いのままでいられる気がした。
(……でも)
カルディアはノイの頬を撫でる。自分がどれほど、優しい目をして彼女を見ているのか、気付きもしないで。
(それでも俺は――)
白い髪が、太陽の陽に当たって輝く。その内に開く瞼の先はペパーミント色。
全ての感傷を取り払って、カルディアは冷えた目をしてノイを見下ろした。
(――必ず殺すと、そう決めたんだ)