31 : 死なずの魂
カルディアはそれから、十時間経っても目を覚まさなかった。
心配したオルニスが、地上に降りて医者を呼びに行くという。
「何かあったら水幻站で――……ああ、あんたは、機動すら出来ないんだったな」
失望に濡れたオルニスの声に、ノイはぎゅっと拳を握りしめた。
ノイ一人では、水幻站どころか、この家にある魔法道具の何一つ使えない。
「とにかく、見守ってて。……こんなこと、初めてだ」
敬語も忘れたオルニスはそう言うと、目眩ましの外套を羽織る。
「な、なあ!」
ノイは居ても立ってもいられずに、声をかけた。
「カルディアのこの症状は、さっきの。魔力の暴走によるものじゃないか?」
「……」
オルニスは無言でノイを見下ろす。
「さっき、変な火花が立っていただろう? あんなもの、私は見たこと――じゃなくって、本で読んだこともない。でもあれは、魔力だった!」
追い縋るノイを、外套の隙間からオルニスがじっと見つめる。
「魔力を持った人間が激しく怒った時に、あんなに火花がバチバチしていたら、街はいつも火事だらけだ。なら、何か他に原因があって、あんな風になったと考えるべきだろう?」
「……」
「きっとそれは、医者じゃ無理だ。魔力ナシの私なんかの言うことじゃ、納得出来ないかもしれないが……」
医者は体調の管理はしてくれるが、魔法となると門外漢である。人間は魔力を持っているため、魔法で治せないからだ。
幼い頃、ノイも自らが抱える膨大な魔力に苦しんでいた。
だがそれは、コントロールが出来なかっただけで、魔法を使う意思もないのに溢れ出たりすることはなかった。
更には溢れ出た魔力が、火花のように燃えるなど――
ノイはいつしか、オルニスの外套を握りしめていた。オルニスはため息をつく。
「わかっている」
何を馬鹿なことを、と一蹴されるとばかり思っていたノイは、がばりと顔を上げた。
「あんなの、僕も初めて見た。先生は少し特殊な体だから――元々、相談出来る場所に、相談に行くつもりだった。魔法を知らないあんたにも通じるように、簡単に医者って言っただけだ」
オルニスは美しい顔を顰めっ面にして、自分の髪をくしゃくしゃと掻く。
「信頼できる人を連れてくるから――だから、そんな風に泣かなくていい」
オルニスに言われて初めて、ノイは自分が泣いていることに気付いた。頬を伝う涙をぐいっと手の甲で拭う。
特殊な体というのは、百年も生きていることを指しているのだろう。その辺りの事情に明るい魔法使いに相談に行ってくれるのだとわかり、ほっとする。
「ありがとう。オルニス。お前がいてくれて、本当によかった」
カルディアの傍に、オルニスのように師匠を第一に考え、心配してくれる者がいる。その心強さにノイは感極まった。
「……――そんな、ご立派なもんでもないさ」
だがオルニスは、嘲るように吐き捨てた。
その顔はひどく歪んでいて、ノイは息を呑む。
ノイの反応にハッとしたオルニスは、取り繕うように早口になった。
「じゃあ、行ってくるから」
「……気を付けて」
舟を操作するのも、下るのも、以前出かけた折りにはカルディアがやっていた。彼の弟子とは言え、オルニスが簡単に御せるものではないだろう。
けれどオルニスは「当然」と口の端を釣り上げると、一人地上へ降りて行った。
オルニスが地上に降りて、半日――夜半過ぎに、カルディアは目を覚ました。
「ううっ……」
しかし起き上がるのは難しく、苦しそうにベッドの中で呻き声を上げている。
月明かりだけが照らす暗い室内で、ノイはカルディアの隣に張り付いていた。
うつらうつらとしていたノイはすぐに気付き、椅子から飛び降りてベッドに膝を突く。水を張った桶がノイの足に当たり、波紋を浮かべる。
「カルディア、わかるか? カルディア」
呼びかけるも、返事はなかった。ただ、これまで安らかに眠っていた時と違い、明らかに呼吸が浅くなり、苦しそうに呻いている。寝苦しいのかもしれない。
最近は随分と涼しくなっていたが、まだ暑い日もある。今日も夜にかけてどんどんと室温が上がっていっている。涼しくしてやりたいと、窓を開けはしたものの、空調を管理している魔法道具は切れたままだった。
(どうしよう、どうすれば……)
こんな時、魔力があればと――何度思ったかしれない。魔力があれば、魔法道具を発動して部屋を涼しくすることも、オルニスに便りを送ることも、原因を追及することも出来たかもしれないのに。
(私は魔法が使えなければ、こんなに、無力なんだな……)
歯がゆさに拳を握る。
泣きたいほどに何も出来ない。
「うっ……ううっ……」
痛いのか、苦しいのか、呻き声を上げながらカルディアは身じろぎを繰り返す。ノイは頼りない細い手で、カルディアの背中を必死にさする。
「……一体、何を背負っているんだ」
尋常じゃないうなされ方は、やはり相応の理由がある気がした。
表面で見せる胡散臭い姿だけではないと、もうとうにわかっている。
「この手が――」
もっと大きければ。
(たとえ魔力を失っていても――お前を簡単に受け止めてしまえるような……大人だったら……)
今のノイには、こんなにも何もない。
(一体私は、なんのために、こんなところにまで来たんだ……)
滲みそうになる涙を、ぐっと呑み込む。そして、ふうとため息を吐き出すと、ゆっくりと口を開いた。
「糸巻く、糸巻く~。くるくると~」
幼い頃、カルディアと共によく歌った歌を口ずさむと、カルディアの体の強ばりが、少しずつ解けていく。
三周歌った頃には、カルディアの呻き声は止まっていた。ほっとしたノイはカルディアを見て、いつも通り体をぴたりと覆う服に気付いた。
「そうだ、帯を――」
緩めてやろうとノイが帯に手を掛けると、ガシッっと大きな手に掴まれた。
ノイは驚いて、勢いよくカルディアの顔を見た。
カルディアはうっすらと目を開き、ノイを見ていた。
暗いために、上手く見えないのだろう。薄目でぼんやりとしている。
「カル――!」
「……お師様?」
ぽつりと、カルディアから溢れた声に、ノイはハッとした。
カルディアの手は茹だったように熱かった。深紅の瞳は、熱に揺れている。
迷子になった子どものように頼りない声に、誰が「違う」と言えただろうか。
「……そうだ、私だ。国一番の魔法使い、ノイ・ガレネーだ。わかるか? カルディア」
魔力を撚るどころか、魔法道具さえ発動することも出来ない身で、国一番とはとんだお笑い種だ。
けれどノイは、カルディアを安心させるために虚勢を張った。
すると、目の前のノイが見えているのかすらもわからない、虚ろな目をしたカルディアの顔が、くしゃりと歪む。
「……やっと。やっと、夢に、来てくれたんですね」
その顔は、どれほどノイを望んでいたのか、一瞬でわかるものだった。