30 : 死なずの魂
――エスリア王国暦 482年 晩夏
朝起きて、カーテンを開ける。
窓の向こうの明るさに目を細めたノイは、家を出た。
たったそれだけのことが、まさかあれほどの大騒ぎになるとは、この時のノイは思ってもいなかった。
その日は何故か、いつもよりスッキリと目が覚めた。
ヒュエトス魔法伯爵邸から持ってきた十冊の本を、ひと月掛けてじっくりと読み、人心地ついたからかもしれない。
相変わらず早寝のカルディアに付き合って、月が昇るよりも早く床についたノイは、日が昇るよりも早く目が覚めた。
カーテンを開け、暁闇の空を見る。空の上に浮かんでいる浮島には、まだ朝日の姿も見えない。
せっかくなら外で日の出を拝もうと、寝静まった家の中、足音を殺して、ノイはひっそりと家を出た。
当てもなく、ノイはぶらりと散歩をすることにした。浮島の中は危険な動物も、不審人物もいないため、魔力ナシの娘一人の外出でも安心だ。
朝の風は身震いするほど冷たくて、何か羽織を持って来ればよかったと考えさせられた。
鳥さえもまだ起きていない静寂が、徐々に薄らいでいく。
遠くの、雲が描く地平線には、払暁の兆しが見え隠れし始めた。静かに雲間から覗くのは、穏やかな朝の光。その光が辺りの雲を彩り、優しい紫色に染めていく。瞬く間に、淡い紫は薄紅へと変わり、その裏で星々は灯りを消す。
ノイの隣で揺れる植物の葉には、宝石のような朝露が垂れ、朝日を受けて微かな光を放っていた。眠りについた空の星が、地上で輝き始めたようだった。風がそっと吹く度に朝露は風に踊り、軽やかに落ちる。
そうして花影が揺れる頃には、空に浮かぶ島は、朝の美しい光景に包まれていた。
心地よい風に吹かれながら、ノイは新たな朝の幕開けを感じていた。寝起きのままの髪が風に吹かれる。口はいつの間にか歌を口ずさみ、足は軽やかなステップを踏む。
周りの景色が、空から新緑に変わっていっていることに気付いたのは、それから随分と後のことだった。
「――あれ? どこだ。ここは……」
くるりと辺りを見渡すと、見覚えのない景色に包まれていた。浮島はそう広くない。ここに住み始めてからおよそ二月。屋敷の周りの景色は、すでにノイも覚えていた。
唯一、ノイが覚えていない場所といえば――
「……ああ、森に入ってしまったか」
ここに来てすぐの頃、オルニスに「森には入るな」と言われていた。そのため気を付けていたのだが、今日はうっかり入ってしまったようだ。
「うっかり入ってしまったなら、仕方がないな」
魔法使いは、縦社会。弟子の弟子の命令は、まあ「お願い」程度だ。
ノイは気にせずずんずんと前に進んだ。もしカルディアが何か秘密を抱えているのなら、暴いてやりたい気持ちもあった。
(禁忌の魔法でも研究しているのか、竜でも飼っているのか……)
何にせよ、カルディアが今みたいになった秘密の一端が垣間見られるに違いないと、ノイは足を進める。
そうしてしばらく歩いていると、空気が切り替わった気配がした。キンッと耳鳴りがするほど清らかな空気となったことに、ノイは知らず背筋を伸ばす。
森の木々が、まるでアーチのように道を作っている。
ノイは顎を引き、歩を進める。そうして幾ばくも経たない内に、ノイは森が包み隠していた秘密に触れた。
そこは厳かで、壮麗な場所だった。
到底、森の中とは思えない。王都の一番立派な神殿の最奥と言われても、ノイは信じただろう。
その場所は明らかに人工的に整えられていた。足下に薄く張った水には木漏れ日と空が反射し、両脇に咲く色とりどりの花は満開だ。森の木々をすり抜けて差す太陽の光は、この場の中心を照らしている。全てが、計算された美しさだった。
ノイは通路と思われる、水の張られた床を渡った。水はほんの僅かに張られているだけで、歩行には問題ない。
天から神が見守っているかのごとく神聖な場所の中心部に、ノイは辿り着いた。
「……これは、まさか、墓?」
真ん中にあったのは、墓石と思われる石だった。今のノイがちょうど丸まった程の、大きな石の前に、花が添えられている。
誰かの霊廟と言われれば、この荘厳さにも納得がいく。
(だとすれば、誰の――)
一人考えたその問いの答えを、ノイは知っている気がした。
――ヒュガァッン
静寂を切り裂く爆発音に驚き、ノイは振り返った。
「……ありません! 僕は何も――!」
「――げるんじゃ……! ――ス!」
「逃げて……――! いるとすれば――しか――!」
「――ら、彼女が逃げ出……と!?」
「先生ッ! まずは落ち……っ――!」
「――れとも……ただの、……ろし……とでも――!」
オルニスが走り、霊廟に逃げ込んでくる。その後ろから、怒りを漂わせたカルディアがゆっくりとした足取りで追いかけていた。
離れているせいで途切れ途切れしか会話は聞こえなかったが、何かを言い争っていことは見て取れた。
カルディアの怒りに呼応するように、彼の周りに火花が起きる。魔力を撚っている様子はない。激しい感情に心が乱れ、魔力が暴走しているのだ。
「カルディア!」
ノイは大きな声で呼ぶと、転びそうになりながらも駆けだした。
激しい怒りに駆られていたカルディアがこちらをギロリと睨み付け、目を見開く。
水に足を取られ、バランスを崩しながら駆け寄るノイを迎えるため、カルディアが両手を広げる。
転がるように抱きついたノイを、カルディアが全身で受け止めた。
「どうした! 何を怒っている! 駄目だろう。弟子を指導する時に、頭ごなしに叱りつけてはならん」
カルディアは返事をしない。呆然としたまま、ノイを抱き締める。
「どうしたんだ。このノイに言ってみなさい。オルニスが何をした? 芋を取られたのか?」
よしよし、とカルディアの大きな背を、ノイの小さな手が撫でた。
何故かカルディアが驚いているように、ノイもまた驚いていた。あんな風に激昂したカルディアを、ノイは初めて見たのだ。
「あんたはっ――こんな時間から、何処ほっつき歩いてたんです! ここには入るなと言っておいたでしょうがッ!!」
前髪を焦がしたオルニスが、眉をつり上げてノイに叫ぶ。
「すまない……朝早く、目が覚めて。日の出を見ていたんだ」
「日の出?! 寝ぼすけのあんたが!? っとに、あんたがふらっと消えてるから、こっちは散々ですよ! 更に、こんな所にまで来て!」
ノイはしゅんとして顔を伏せた。
「ここに入って、無事だった人間は一人もいないんです。さあ、地上に降りる準備を始めてください」
驚き、ショックを受けるノイに、追い打ちのようにオルニスが微笑む。
「まあ、準備も何も、貴方は持ち物一つ無かったんでしたね」
さあほら、今すぐ島から飛び降りろ。そんなオルニスの心の声が聞こえてくるようで、ノイはぷるぷると震えた。
「……オルニス、すまなかったね」
ノイを抱き締めたまま、カルディアがオルニスの方を向いて謝った。オルニスはぽかんとして、カルディアを見る。
「いるなら、いいんだ」
「……――ええ?!」
美人な顔が台無しなほど目を見開いて、オルニスが喉の奥から声を出す。しかしノイは、オルニスにかまっていられなかった。
ノイを抱えるカルディアが、どんどんとノイに体重を掛けてきていたからだ。
「……よかった、いた」
そう呟くと、カルディアはそのまま崩れ落ちた。ノイの小さな腕で支えられるわけもなく、地面にカルディアの体が横たわる。
「……先生ッ!?」
「カルディア!?」
唖然とするオルニスとノイの目の前で、カルディアは目を閉じ、意識を失っていた。