02 : 伸ばした手の先
「で。魔王はいつ、どこに現れるんだ?」
星詠みの魔法使いにそこまで占ってもらっているはずだ。尋ねたノイに、フェンガローは気乗りしない表情で答えた。
「そこだ」
ノイはぱちくりと瞬きをして、フェンガローが指さした先を見た。そこには、玄関ドアがある。
「……ん?」
「そこに、連れてきている」
「なんだと?!」
目を見開いたノイは慌ててドアに駆け寄り、勢いよく開けた。
――するとそこには、護衛に見張られ、拘束された一人の子どもがいた。
痩せ細った体。汚れて擦れた簡素な麻の服。だらりと垂れ下がった首からは、女か男かもわからないほど髪が伸びていた。
両の手足は、斧でも切れなさそうな分厚い拘束具で縛られ、獰猛な獣のように、頑丈な檻に入れられている。
「フェンガロー!」
ノイが低い声で怒鳴りつけた。
「子どもに――なんてことを!」
しかし、彼女の後ろからやってきたフェンガローは、先ほどまでの情けない姿からは一変して、冷ややかな声を出した。
「それは、違う。最早、人ではない」
「人だ!」
「違う。いずれ魔王を生みだし、殺さば魔王と化す。魔の王をその身に宿す器――言うなれば魔王の卵だ」
「だからと言って、こんなこと――! 私が許すと思うなよ」
ノイは両手を開くと、指を細かく動かした。目にも留まらぬ速さで動いた指が魔法陣を生み出した瞬間、子どもを覆っていた拘束具と檻がパキンと音を立てて崩れ落ちた。
凄まじい魔法だった。人の持つ刃では歯が立たない分厚い鉄を、いとも簡単に壊してしまったノイに、護衛らがどよめく。
しかし、ノイの手腕に驚きもしないフェンガローは、冷たく言い放つ。
「命を受けたからには、私に従ってもらう」
「冗談じゃない。私が引き受けたからには、私のしたいようにする」
「ノイ!」
ノイは子どもに駆け寄った。子どもは解放されたと言うのに、その場から微動だにしなかった。心を折られているのだ。
虚ろな赤い目は、目の前で話をするノイとフェンガローを全く映そうともせず、ただ地面を見つめている。魔王とはほど遠い――吹けば飛びそうな不安定で微弱の魔力が、子どもの身に流れていた。
その事実が痛々しく、ノイは小さな子どもをぎゅっと抱き締めた。
痛ましい表情を浮かべるノイを見たフェンガローが、堪らずに叫ぶ。
「それは魔王だぞ!」
「違う! 人だ! ――そして……これからは、私の弟子でもある!」
腕の中の子どもを強く抱き締め、ノイはフェンガローを睨み付けた。彼はよたりと一歩下がると、小さく横に首を振る。
「私が命じたのは征伐だ! それを、弟子だと? 我々が師から受けた愛を――それに与えるとでも? あまりにも浅慮ではないか?!」
語気を荒らげたフェンガローが、額に手を当てて項垂れる。
「とても正気とは思えない」
子どもを抱き締める腕に、ノイは力を込めた。
「……この子が人で無ければ、私とて――化け物だ」
フェンガローがはっと息を呑む。
かつて――ノイがまだ、国一番の魔法使いと言われる前――彼女は爪弾き者だった。
まだ年若いノイが国一番の魔法使いと畏れられる理由の一つでもある、莫大な魔力をコントロール出来ずにいたためだ。
コントロール出来ない魔力は、時に畑を、時に家を、時に人を危険に晒した。
そのため、小さな頃のノイにとっての味方は師匠と、兄弟子のフェンガローだけだった。
「――ノイ」
幼い頃からずっとノイの傍にいたフェンガローは、すぐに思い当たったようだった。しかしノイには、彼の殊勝な声色に優しく返すだけの余裕がなかった。
「フェンガロー、今日は帰ってくれ」
「……」
「大丈夫。命は必ず果たそう」
苦しそうに俯いたフェンガローが、自嘲の笑みを浮かべる。
「――無論だ。誰よりも、信用している」
フェンガローはノイに背を向け、護衛と一緒に家を後にした。
――そうして、魔王を宿した子どもはノイの弟子となった。
ノイの腕から逃げ出し、テーブルの下に籠城している弟子に、彼女は頬を床に引っ付け、這いつくばりながら、辛抱強く語りかけている。
「夕飯は何にするか。そうだ。先日行商人から、魚の塩漬けを貰ったんだった。蒸かした芋に載せて食べると美味いらしい。いいなあ。酒にも合うだろうなあ」
自分で言っておきながら、まさかの自分が我慢出来なくなってきた。
本当にペコペコになった腹を手で押さえていると、テーブルの下からぽそぽそと掠れた声がした。
「――当に?」
「うん?」
首をありったけ伸ばしていても、虫が鳴くような小さい声を聞き取れずに、ノイは聞き返した。
子どもは身じろぎ一つせずに、もう一度口を開いた。
「本当に……僕は。――人なの?」
全神経を集中していなければ聞き取れないほど、小さな声だった。それにその声は、可哀想な程に震えていた。
この一言だけで、この子がここに来るまでどんな風に扱われてきたのかがわかる。
ノイはぎゅっと唇を噛みしめると、渾身の笑みを浮かべた。
「勿論だ!」
明るい口調でノイはテーブルの下に語りかけた。
「このノイを知っているか? 国一番の魔法使いと言われている。そんな魔法使いが言うんだから、まず間違いない!」
黒い髪から覗く、赤い瞳が暗闇の中で微かに揺れた。
ノイは小さな弟子の顔を見つめ、この子が話し始めるのを待つ。
やがて、子どもはおずおずと口を開いた。
「――じゃあ」
「うん」
「じゃあ……貴方は、死なない?」
「え?」
「貴方は、僕が横にいても……魔王がいても、死なない?」
ノイは目を見開き、ぶるりと体を震わせた。
(この子はっ……!)
この小さな子どもは、魔王を宿した自分が傍にいることで、誰かを傷つけると言われたのだ。そして、それを酷く恐れている。自分の身よりも、他人を案じているのだ。
いじらしさと、そんな風に思い詰めてしまうほど追い詰めた自分達大人の不甲斐なさに、ノイは涙が出そうだった。
「――私は、とっても強い魔法使いなんだ!」
ノイは努めて、明るい声を出す。
「お前の中に仮住まいしている魔王なんて、私が引っ張り出して、ちょちょいのちょいと、けちょんけちょんにやっつけて、追い出してやる!」
ノイは両手をバタバタと動かして、魔王を倒すふりをした。そして、くしゃりと顔を歪めると、出来る限り笑顔に見えるよう――この子が心から安心出来るよう、ペパーミント色の目を細めた。
「だから……私の傍にいろ」
ノイが言い終わるよりも早く、テーブルの下から、ガタガタと大きな音を立てて子どもが飛び出してきた。
小さな子どもは体が小刻みに揺れている。しゃくり上げる様子から、泣いているのだとわかった。
(……こんなに。ただ、いとけない子が)
たとえ魔王をその身に宿していようとも、ただの子どもが全てを背負う責任など、あるはずがない。
しがみついてきた子どもを、ノイは全身の力でぎゅっと抱き締める。そして、子どもの両頬を両手で掴むと、目を覗き込んだ。
「お前、名は?」
二連のほくろの上にある、赤い瞳がどんよりと曇る。
目線を下げ、俯こうとする子どもの頬を、ノイは強く包み込んで上を向かせた。
「――では、私が授けてやろう。私の可愛い弟子ならば、この程度の幸運は当然だ」
ノイはしなやかな腕で少年の顔を持ち上げたまま、うーん、と悩み始めた。
「何がいいか。――リュール、シエテ、ルノー、オルトゥス……」
いくつか口にしてみたものの、どれもしっくりと来なかった。
ノイは少年の目を覗き込む。先ほどまで曇っていた瞳は、希望を探すように煌めいている。
赤い瞳を見つめながら、ノイは神妙に口を開いた。
「――カルディア」
驚くほどに、ぴったりだった。彼の魂の中に刻まれた記憶をなぞったのかと思うほどに、馴染んでいた。
「カルディア。お前は今から、カルディアだ」
その瞬間の、カルディアの顔を、ノイは一生忘れることはないだろう。
――天使と言えども、これほど美しい顔で笑うことはないに違いない。
それは、全身の喜びを込めた、柔らかい笑みだった。