24 : 見上げるは、星の川
眠い。
眠いの。
眠いのよ。
――ああ、どうしてこんなに、乾いてるの。
***
ヒュエトス魔法伯爵領はさほど広くもない平凡な領土だ。特徴らしい特徴と言えば、四方が海に囲まれた島になっていることくらいだろうか。
温かい日差しと、清々しい海の風が穏やかな季節を生み出している。
緑豊かな地では畑に精を出す人々、沿岸部では漁業に駆り出す人々の姿が見える。ノイは浮島から螺旋状に流れる水を、魔法の舟で下りながら、地上の景色を楽しんでいた。
「本、私も選びに行きたい!」
デートの遅刻への詫びに取り付けた蔵書の件を、ノイは忘れていなかった。
デート翌日の、朝ご飯の時間。遅寝のせいか、目をしょぼしょぼさせていたカルディアに、ノイはせがんだ。
「ええー……執事のラインナップが心配なら、俺が選びに行くから、花嫁さんはここで遊んでなよ」
「遊ぶものがここにあると思うな! 私は暇で退屈で死にそうなんだ!」
「面倒だなぁ」
寝不足だからか、いつもは笑顔で取り繕えている本音がダダ漏れだ。
いつもだったらショックを受けていたかもしれないが、本の魅力の前にはカルディアの多少の悪態など、気にもならなかった。
「本! 本!」
「先生はお忙しいと言っているでしょう!」
小姑が小うるさいが、ノイは婚約者を見習って無視した。
「本!」
「だから――」
「わかったわかった。じゃあ、今日でも取りに行く?」
「先生!?」
オルニスがショックを受けるのと反対に、ノイは両手を挙げて喜んだ。
「やったー!」
フォークも置いて、カルディアに飛びつけば、カルディアは「おっと」と言いつつもノイを受け止めた。
「ありがとう! カルディア! お前は本当にいい奴だ!」
「はは。キスの一つでもプレゼントしてくれる?」
よほどノイの有頂天さが面白かったのか、カルディアがいつもの調子を取り戻す。いつもなら狼狽えるノイも、今はテンションが最高潮である。そのため、二つ返事だった。
「いいだろう!」
え、とカルディアが驚きの声をあげる。ノイはカルディアに首を伸ばした。カルディアの身が強張る寸前に、ノイの唇がカルディアの額に触れる。
額の硬い皮膚にふにりと唇を押し付けると、ノイはすぐに離れた。
「ありがとう! とても感謝している!」
にこにこにこ、と満面の笑みのノイに、カルディアは呆気に取られたように「……はは」と笑った。
そんなこんなで、ノイは百年後に渡ってから初めて、地上にやってきた。
螺旋状の水流の終着点は、地上の湖になっていた。オルニスが舟を漕ぎ、岸まで移動する。
「最高だった! 次は、水流を凍らせて、更に速度を速めてはどうだ!?」
「絶対に嫌です」
「初日に地上を見て、目を回してた子とは思えないね……」
魔法の舟から下りるノイの目は輝いている。カルディアによって可愛く髪を結ばれたノイの髪が、彼女が動く度にぴょこぴょこと跳ねる。
目を輝かせるノイを抱き上げるカルディアは、反対にげっそりとしていた。オルニスも同様である。
「なんだ二人とも。あんまり好きじゃないのか?」
「大人になるとね……こういうの全般、苦手になっていくものなんだよ……」
「オルニスはまだ子どもじゃないか」
「僕は貴方と違って、精神が大人なんです」
ノイも精神は大人のはずだった。なのに何故か仲間はずれを食らってしまい、ガーンとショックを受ける。カルディアに編み込まれた髪の毛がぴょこりと揺れた。
「それに俺、痛いの嫌いだから。絶対に怪我したくないにだよね」
カルディアは痛めてしまったのか、ノイを片腕で抱き上げた状態のまま、首元に手をやって、右や左に振っている。その仕草は大変年寄りっぽかった。
全員服が濡れていた。しかし、カルディアがさっと指を振ると、服は瞬時に乾く。夏の暖かな日差しの中だ。少しくらい濡れていてもその内乾いただろうが、カルディアはぴったりとした服を着ているため、濡れていると気持ちが悪いのだろう。
日常の些細な動作であれば、魔法使いとはいえ、魔法よりも腕を動かす方が楽だ。髪についた水気を魔法で飛ばすよりも、布で拭く方が簡単な上に、安全だ。
しかしカルディアは、まるで息をするかのように魔法を使う。ノイを片手でひょいと抱き上げる時も、注意深く観察すると、彼の腕と、ノイの尻の間に魔法がかかっている。布か装飾品に浮遊の魔法をかけて、ノイの体をふんわりと浮かせているのだ。
ノイを抱き上げる時にかける浮遊の魔法といい、髪の毛の水気を飛ばす魔法といい――こういう、日常の細かなことに魔法を使うカルディアを見る度に、ノイのいない間、彼がどれほど真剣に魔法と向き合ってきたのかを知る。
言うまでもないことだが、ノイとて魔法で服を乾かすことくらい出来た。だが、小さな魔法は繊細に魔法を編む必要がある。
大がかりで大雑把で斬新な魔法は得意だが、緻密な魔法は、必要最小限しか編みたくない派であった。
ノイが考え事をしている間に、オルニスが舟を岸に固定した。舟には、目眩ましの魔法がかけられていて、普通の人の目には映りにくくなっている。どうやらカルディアは、浮島と地上を行き来する姿を人に見られたくないようだ。
目眩ましの魔法が編み込まれた外套も羽織らされていたが、地上では必要なくなるため、鞄の中に仕舞う。
「最初は何処へ行くんだ?」
わくわくとして、ノイはカルディアを見上げた。
「領主邸」
「え!? もう?! もうなのか!?」
領主邸には、本を取りに行く予定だ。つまり、本を取ってしまえば、もう地上に用は無くなってしまう。
しょぼくれた顔をしてカルディアの顔を覗き込むノイを、カルディアは口元に手を当てて笑った。またからかわれたのだと気付いたノイはふて腐れて、カルディアの腕から地面に飛び降りる。
「あっ」
「今日は歩く」
つーん、と不機嫌な表情を作ると、カルディアは無理強いまではしないようだった。
歩いていると、ノイはふと気になるものを見つけた。それは、小さな虫だった。魔法生物でもあるその虫は、集団で行動することが多く、単体でいることは少ない。珍しいこともあるものだと目で追っていると、カルディアがノイの機嫌を取りなすように提案する。
「じゃあ、雑貨屋へ行こうか。本も少しなら置いてる」
「本を売っているのか!? こんな田舎で?!」
ノイは生まれも育ちも王都だった。王都には人が集まる。王族も貴族も魔法使いもいる王都には、当たり前だが国の富が集まった。そのため、本屋も当たり前のようにあったのだが、ここは辺鄙な田舎の領土である。
牧歌的な生活を送るこのような土地に、まさか本を売っている場所があるとは思ってもいなかった。百年前の知識では、エスリア王国の識字率はそこまで高くない。
「こら! 馬鹿! 大きな声で!」
口をオルニスの手で塞がれる。ノイはこくこくこくと首を建てに振った。今のは、自分が悪い。
しかし、ノイの高い声はよく通ってしまった。道行く人がジロリとこちらを睨み付け――そして、目をハートにした。
「あら! ディアス様じゃないですか!」
「いつこっちにいらしてたんです?」
女性の一部がワッと沸き立ち、カルディアに声をかけてきた。駆け寄ってくる女性らは、ノイとオルニスなど目に入っていないらしく、カルディアを取り囲む。
「ディアス様、今日の宿はもう決めました? うち、今夜、丁度亭主がいなくって」
「黙んなさいよこのあばずれ」
「何よ。あんたこそ黙ってなさい」
どう見ても、彼女達の行動はこの地の領主に向けたものではない。先ほどから呼んでいる「ディアス」という名も含め、どうやらカルディアは地上に降りる際には、身分を偽っているようだ。
(まあ、そうか……この見た目ではな)
浮島に上っているのも、変わらない見た目が関係しているのかもしれない。何しろカルディアは、二十六・七歳で成長が止まっているのだ。
領主としてこの地に留まり続ける限り、人との交流は避けられない。それならばと空に身を隠したと言われれば、納得がいく。
「ごめんね、皆」
のけ者にされていたノイを、大きな手のひらが持ち上げる。そして、いつもの定位置にノイを抱えると、群がってきた女性陣に笑顔を向けた。
「今日は花嫁さんと一緒だから」