23 : 星明かりでダンスを
「うわあああ――!!」
カルディアに促されて外に出たノイは、彼と手を繋いでいたことも忘れ、思わず駆けだした。
「すごい! 星が、こんなに近くにっ!」
ノイは空とカルディアを交互に見た。
カルディアは星と同じほどに輝いているノイを見て、目を細める。
辺り一面、星が浮かんでいた。幾千という数え切れないほどの星々が、視界の隅から隅まで広がっている。
一つ一つの星が、地上よりもうんと近い。そんなわけがないのに手が届きそうで、思わず手を伸ばした。
墨色の空の所々が、明るい水色や黄色のインクを垂らしたように光っている。その周囲の星は一際美しく、神秘的だった。
それはおよそ、神が作り出した完璧な夜空。
「見てみろ! カルディア! 手で掴めそうだ!」
年甲斐も無くはしゃぐノイを、優しい笑みで見下ろしていたカルディアが、微かに手を引く。
「こっちにおいで」
ノイはカルディアに手を引かれながらも、後ろ髪を引かれる思いで空を見上げる。南の空から西の空へとぐるりと回って、また南の空まで。何処を見ても美しい。ため息すら出ない。
風が湖面をすり抜ける。ひんやりと冷たいのに穏やかで、ただ静かに夜の美しさを運んだ。
「ちょっとごめんよ」
カルディアはノイの足下にしゃがみ込み、魔力を撚った。
そして、ノイの靴と、自分の靴に魔法を掛ける。
「行こう」
まだ空を見上げていたノイの手を引っ張って、カルディアは足を踏み出した。呆けていたノイは「あっ」と声を漏らす。
カルディアが向かった先は、湖だったからだ。
「落ち――!」
ることはなかった。カルディアのかけた浮遊の魔法によって、二人の靴は水面の上を歩けるようになっていたからだ。
「う、うわ、うわああ……!!」
星を吸い込んだ湖の上を、二人が歩く。ノイが湖面に足を着ける度に、波紋が広がった。水に飲み込まれた星が揺らぎ、燦めく。
静寂の中で聞こえるのは、遠くから微かに聞こえる虫の声と、森で寝床を探す鳥の囀りだけ。キラキラと星が瞬く音までも、聞こえてきそうだった。
「凄い! カルディア、綺麗だっ!」
足下には、夜空が広がっていた。
ノイがはしゃぐ。まるで、星の上を歩いているようだった。
咲いたばかりのタンポポのような、満面の笑顔で走り回るノイに引っ張られながら、カルディアは穏やかな笑みを浮かべる。
星の灯で影が出来る。湖面に映る二人は、まるでダンスを踊っているかのようだった。
靴にかけた魔法は一時的なものだったので、あまり長くは保たなかった。湖の真ん中にいた二人は逃げ遅れ、ドボンと水に落ちることとなる。
顔を見合わせて笑い合い、二人は岸へ泳ぐ。
「ご機嫌、直してくれたかな?」
すでに拗ねていたことなど忘れていたノイは、ハッとする。
「そうだな。多少は。私は寛大だからな」
「ありがとう。素敵な花嫁さん」
先に上がったカルディアが、ノイの手を引っ張る。
自然の摂理に逆らって水の上を歩く魔法陣など、当然だが難解だ。細やかな配慮を必要とする魔法の手腕に関しては、もしかしたらカルディアはノイよりもずっと上達しているかもしれない。
岸へ上がったノイは、上衣の生地をむんずと掴むと、洗濯物のようにぎゅっと絞り上げる。だばだばと水が大量に落ちていく。似たようなことを昼にもしていたな、と笑う。
(でも今は夜で、二人だ)
それがなんだか楽しくて、ノイがふふふと笑っていると、カルディアの指がノイの髪に触れた。
「髪、解いちゃったんだね」
残念そうに呟くカルディアに、ノイは居心地が悪くなる。
(悪いのは、忘れていたカルディアだ)
けれど、可愛くして待っていてと言われたのに、約束を守れなかったことが、負い目のようにも、残念なようにも感じる。
「……本当に、忘れていたのか? 何か外せない用事があったとかじゃなくて?」
じっとノイがペパーミント色の瞳で見上げると、カルディアは苦笑を浮かべた。
「君に嘘をつきたくないから、本当のことを言うよ。――ごめん、忘れていたのは本当」
言い訳は一切なかった。だからこそ、胡散臭いと思っていたカルディアの、本心だとわかった。
だからノイは、こくんと一つ頷く。
「でも、喜んでほしいと思っていたのも、本当だよ」
カルディアはきっと今日、この夜空を見せてくれるつもりだったのだろう。ノイが喜ぶと思って、ノイのことを考えて、あんなに夜には寝たがるくせに、夜のデートを提案してくれたのだ。
もしかしたら、今も眠気ギリギリなのかもしれない。そう考えると、ノイはふっと笑っていた。
「なら、許す」
ノイの言葉に、カルディアはホッとしたように笑った。
二連のほくろが持ち上がり、目を細め、犬歯を覗かせて――天使のように。
何故か胸がまたぎゅっとなって、ノイは濡れた服を握った。ぽたぽた、と水が滴り落ちる。服についていた水草を、ぺっと指で払った。
「……それにしても、あの時のお前ときたら。孫娘との約束を忘れていて、慌てて帰宅した祖父のようだったぞ」
百年も生きるカルディアは祖父よりもずっと年上だが、あながち間違っていないだろう。笑うノイに、カルディアは涼しい顔で言った。
「それだけじゃないよ」
虫の鳴き声が響く夜空の下で、カルディアが振り返り、見下ろす。
「それだけじゃないよ。花嫁さん」
星空を従えたカルディアは、ノイに染み込ませるようにもう一度言う。
ぽかんとしてカルディアを見つめることしか、ノイには出来なかった。
そんなノイから視線を外し、濡れた髪を掻き上げると、カルディアにぱっと笑って家を指さした。
「さあ――お風呂に入る前に、オルニスに叱られようか」
***
果たして、ノイとカルディアは盛大に叱られた。
ギャンギャンと怒鳴るオルニスに追い立てられ、二人は順番に風呂に入ることになった。先鋒はノイ。ハンモック式浴舟を用意したダイニングから、ノイがリビングに顔を出す。
「本当に私が先でいいのか?」
心配そうに眉を下げて尋ねる花嫁に、カルディアは笑う。
「勿論。俺は魔法ですぐに乾かせるし。ほら」
そう言ってカルディアは、ひょいと指を動かした。その瞬間に彼の衣服についていた水分が瞬時に気化する。
「頭を冷やすには丁度良かったんですけどね」
ホッとしたノイが風呂に入るためにダイニングの扉を閉めると、オルニスがムッスリとして言った。弟子の言い様がおかしくてカルディアが笑っていると、オルニスの目が険しくなる。
「……先生。こんなこと、聞きたくはないんですが――」
「ん?」
「まさか、手なんか、出してはいませんよね?」
手? とカルディアは自分の手のひらを見た。それほどに、一瞬オルニスが何を言っているのかわからなかった。
「――手、って、手かい? 俺が? あの子に? オルニスでも冗談を言うんだね」
この冗談は、オルニスがこの浮島に来て以来最上級の面白さだった。手を叩いて彼の成長を褒めるカルディアに、オルニスは額に青筋を浮かべる。
「だって夜のデートだとか言って、そんな……濡れて帰ってくるから……何かあったんじゃと思うじゃないですか。全く、変な気は起こさないでくださいよ」
ぶちぶちと言いながら、オルニスはカルディアの上衣を広げた。
「あーあ。水草の汁って落ちにくいんですよね……」
よく出来た妻のようなことを呟きながら、オルニスが汚れ落としの薬を試す横で、ぴっちりとした下衣だけになったカルディアは呆れた顔をしている。
「君ね……俺と彼女、いくつ離れてると思ってるの」
(何かなんて、あるはずがない)
ましてやそれが、恋だ愛だと呼ばれるものなら、尚更。
百年以上も生きているカルディアにとって、既に人類の中に同年代の者はいない。年下が無理と言うわけではないのだろうが、限度はある。
それにこの百年、彼が心を動かされた人間は存在しなかった。
オルニスも、まさか本気でカルディアがノイに惚れたのだとは思っていないに違いない。なのに、わざわざそんな確認をしてくると言うことは――
(そんな空気が、俺か彼女から、出ていたとでも?)
もしくは、その両方からか――カルディアが眉間に皺を寄せるのにも気付かず、オルニスは染み消しに必死だ。
「そうですよね。まだ十四・五の子どもですし」
オルニスがカルディアの上衣も持ち上げて、よし、と頷く。カルディアの服から、水草を擦った際に付いた染みは綺麗に消えていた。
それと同時に、カルディアの脳みそからも、今まで考えていた事が全て消え去っていた。
「……は?」
「え?」
「……あの子は、そんなに幼いの?」
唖然として、カルディアはダイニングの扉を見た。その奥では、目下話題の少女が風呂に入っている。
「そうですね。身長は小さめですけど、そのくらいだと思います――って。今更、何言ってるんですか」
今年十九歳になるオルニスは、浮島に来る前は大所帯で暮らしていた。その時に、年下に囲まれて育ったため、子どもの些細な年の差もわかるのだろう。
すでに人の営みから外れて久しいカルディアには、子犬の年を当てるほど難しくなっていた。
「いくつだと思ってたんです?」
「……気にしてもいなかった」
「え?」
「前にも言っただろう。十も二十も変わらないって。でもまさかそんなに幼かったなんて……」
カルディアはため息をついた。年齢を聞いただけなのに、ノイという人間の輪郭が何故かしっかりしてくる。
そのことに、妙に胸がざわついた。
「……まあ、いくつにせよ。手を出すことなんて、あり得ないから」
「安心しました」
オルニスはにこっっと笑って上衣をカルディアに渡すと、ゆっくりとお辞儀をした。







