22 : 星明かりでダンスを
――と言っていたはずのカルディアは、夜遅くになっても帰ってこなかった。
窓枠に肘をつき、ノイはずっと外を見ていた。窓辺から離れないノイに、食事の用意を終えたオルニスが呆れ顔を向ける。
「さっきから何やってんですか」
カルディアから、ノイには仕事をさせないように言われてしまったオルニスは、敬語を使うようになった。かなり雑な敬語だが、一応カルディアの婚約者としての扱いをしているつもりらしい。
「今日の夜、カルディアが遊びに連れて行ってくれると言っていたんだ」
厳密には違ったが、ノイにとっては暇を潰すことが一番の目的だった。カルディアのオーダー通り、クローゼットの中で一番上等な生地で作られていた服に着替えて、ノイはずっと待っていたのだ。
「この時間まで帰ってきてないってことは、下での用事が終わらなかったってことです。元々、貴方になんて係ってるほど、暇なお方じゃないんです」
やはりカルディアは下に降りていたのか。ノイは窓から視線を剥がし、オルニスを見た。
「だが、カルディアから――!」
「では、確認してきましょう」
全く、何で僕が。とぼやきながら、オルニスは台所の奥へ向かった。どう確認するのかと、ノイもとことことついていく。
パントリーに貯蔵している豆や干し野菜の瓶の奥から、オルニスは一つの水瓶を取り出した。両手で抱えられるぐらいの小さな水瓶を調理台に置き、蓋を解く。
同じ所に保管されていた鍋敷きのようなかたちの物体の上に、皿を乗せる。先ほどの水瓶の中の水を柄杓で一杯、とても大事そうに掬って、皿に流し入れた。
不思議そうに見つめるノイに、オルニスは面倒臭がりながらも、得意そうに言った。
「これは先生が作られた転移魔法の装置、水幻站です」
「て、転移魔法!?」
ノイは目を見開いた。それに気をよくしたオルニスが、ふふんと鼻を鳴らす。
「凄いでしょう。同じ時、同じ所に生まれた水を媒体に、物質を転移させます。僕はこの皿から。先生は携帯している水鏡から。まだ世に発表していないので、これを使える人間は限られてますけどね」
「そ、それでカルディアを呼び出すのか?」
「まさか」
何を馬鹿なことを言っているんだ、とでも言いたげに、オルニスがノイを見下ろした。けれどすぐに「ああ」と頷く。
「そうか。貴方には、魔力がないんでしたね」
勝ち誇ったような、憐憫の表情でオルニスはノイに教えた。
「知らないかもですが、魔法使いは万能じゃありません。魔力を持つものに、魔法は介入出来ないんですよ」
「そう、なのか。なんだ、そうか」
なるほど。とノイは頷いた。ノイが納得しても、しなくても、オルニスはどちらでも良かったのだろう。粛々と魔法の準備を再開する。
――ノイは驚いていた。
(転移魔法……完成させたのか)
これは、ノイが遺した研究途中の魔法だった。
ただノイは、「魔力を有したもの」にも干渉できる魔法を開発していたため、難航を極めていた。それをカルディアは目標を「魔力を有さないもの」に絞り、魔法陣を完成させたのだろう。
ノイは、まだ二十六歳だ。
国一番の魔法使いであっても、弟子を取るには若く、また、弟子の成長を見届けるにも、短すぎる人生だった。
自らが遺した物を、誰かが大切に扱う――そんな経験を、ノイはしたことがなかった。
(……むずむずする)
ノイは心臓の辺りをぎゅっと掴んだ。しっかり押さえていなければ、何処かに飛び出て行ってしまいそうだった。
「あ、返事が着た」
慌ててノイは顔を上げた。絶対に新しい魔法を見たかったのに、見るのも忘れていたなんて。
どうやら、鍋敷きは魔法道具のようだ。既にカルディアが組んだ魔法陣を、オルニスは稼働させただけなのだろう。是非とも中を改めさせてほしかったが、大事に仕舞っていた状況を見るに、解体は許されないだろう。
さざ波を打つ皿の上に、一枚の紙がひらりと浮かんでいる。
新しい魔法にどきどきふわふわしていた気持ちが、一瞬で萎びる。
「【すまない、予定を忘れていたと伝えてくれ】――とのことです」
オルニスに読まれずとも、ノイも皿を覗き込んでいたので、わかっていた。
(こういう時に、思う)
今のカルディアはきっと、ノイが期待するほどあたたかくないのだと。
意地悪くも口に出して読んだオルニスは、チラリとノイを見てため息を吐く。
「だから言ったでしょう。あの方は、貴方になんて構っている暇はないと」
(そうか)
オルニスは返事をしないノイの横で、片付けを始める。今にして思えば、こんなことで、そんなに大事な魔法道具を使ってもらったことさえ、申し訳なく感じる。
(それだけ、か)
ノイは髪の毛に手をやった。昼にカルディアがしてくれたままの髪は、今日一日、解けないように、ほつれないように、頑張って維持した。服も、なんだかんだで部屋中に敷き詰めてあれこれと選んだし、何をするのだろうとわくわくして窓の向こうの色が変わっていくのを眺めていた。
(なんだ、そっか)
そっか。ともう一度、ノイは心の中で呟いた。
(私、そんなに楽しみにしていたんだな)
オルニスに怒られながらも、カルディアの分の晩ご飯までぺろりと平らげたノイは、髪を解き、服の帯も外した状態でリビングにいた。
大きな一人がけ用のソファーは小柄なノイには大きく、肘掛けに両手を投げ出し、だらしない格好で座っていても、まだ余裕があった。
足をぶらぶらさせながら、ノイはすることもなく部屋を見回していた。二階に続く階段の手すり、透明なガラスの窓、オルニスが毎日水を換える花瓶、そして、だらだらとしているノイを、小姑のような目で見るオルニス。
カルディアの服に三角火斗をかけているオルニスは、心底嫌そうにため息を吐いた。
「そんなにすることがないなら、もう寝たらどうです?」
「そうする……」
ノイがずるずるとソファーから滑り落ちる。
行儀の悪いノイにもう注意する気力すら沸かないのか、オルニスは額に青筋を浮かべながら好きにさせていた。
(自分の機嫌も自分で取れないなんて)
ノイはこの急降下した機嫌を、きっとカルディアにとってもらおうとして、いつまでもリビングにいたのだ。弟子におだててもらわないとご機嫌でいられないなんて、駄目な師匠だ。
(カルディアはもう、師匠だとは思っていないだろうけど……)
心の中だけでも、まだ彼の師匠でいたかった。
だぼっとした服を着たノイが、裾をひらひらさせながら階段を上っていると、オルニスがぴくりと反応し、立ち上がった。
――バンッ!
「ごめん! ただいま!」
勢いよく玄関ドアを開けるけたたましい音と共に、人が転がり込んできた。
長い髪をぐしゃぐしゃにして、汗だくで帰ってきたのはカルディアだった。
ただいまよりも先にごめんと言った彼は、階段を上ろうとしているノイを見つけると、大きな歩幅で一目散に駆け寄ってくる。
「本当にごめんね」
三段階段を上ったノイを見上げながら、カルディアはノイの手を取った。小さなノイの手は、カルディアの大きな手にすっぽりと包まれる。
――約束を忘れてしまったことも、弟子に断りを入れさせたことも、昔の彼からはきっと変わってしまった。
けれど、変わっていないところも、きっとある。
「お詫びに、君の願いをなんでも聞こう。俺の花嫁さん」
そして勿論、変わったところも。
子どもの頃の彼では、婚約者の機嫌を取るための交渉なんて、きっと出来なかった。
ぽかんとしていたノイは、仕方ないなと一つ息を吐いてカルディアの額にひっついた髪を指先で退けてやった。
「じゃあ、本が読みたい。ここは暇で仕方がないんだ」
「わかった。俺の蔵書を全て、すぐに持って来させる」
「えっ――ちょ! 僕が頼んだ時は、日に焼けるから駄目って即答だったじゃないですか!」
「あとは?」
オルニスはいつも通りスルーして、カルディアはノイの瞳を覗き込んだ。ノイはつんと唇を尖らせた。
「それから、暇だと言ったろう? 仮にも婚約者だと言うなら、もう少しかまってはどうなんだ。私はまるで用済みの置物の気分だ」
「だから先生はっ――!」
「わかった。君との時間を見直そう。それと?」
「先生?!」
「それと……」
ノイは眉根に皺を寄せた。こんなこと、とても師匠だった頃には言えなかったに違いない。
「……今日のデートは、中止なのか?」
「行こう。今すぐ!」
カルディアは即答して、ノイの両脇に手を入れた。そしていつも通り片手で抱き上げた後――ノイをゆっくりと床に下ろした。
「デートなら、こちらかな」
カルディアは跪き、手を差し出した。
ノイは一瞬ドキリとする。何故かはわからないが、体が一瞬だけ強張った。
(……これはカルディアなんだぞ。手なんて、繋ぎ慣れている)
一瞬怯んだように感じた自分に負けぬよう、ノイはぎゅっとカルディアの手に自分の手を押し付けた。叩き付けるように握られた手にカルディアは笑い、そっとノイの手を繋ぎ直す。貝殻のように。
ただ、カルディアの手は、ノイの指には大きすぎた。そのため、カルディアの第一関節くらいの位置で、引っかけるように絡める。
手を繋いだカルディアは、ノイを見下ろしてにっこりと笑う。
「厳格な弟子に、夜遅くの外出は禁止されていてね。けど、君の願いだ。きっと目を盗んで連れ出そう」
「目を盗むつもりだったなら、いっそのこと耳も盗んではくれませんかね」
オルニスははあ、と息を吐くと、しっしと手を振った。
「そこの干物、辛気くさいったらないんですから。さっさと外干ししてきてください」
「干物を干しに行くデートか?」
「うん。お外に行こうね、花嫁さん」