20 : 夜のとばりの間で
月が浮島に濃い影を生み出す、夜。
寝台の上で、ノイはクッションを抱えて胡座をかいていた。楕円型のクッションで、両端に金色のふさふさが着いている。
「どうした? 花嫁さん」
難しい顔をして座り込んでいるノイに気付いたカルディアが、ベッドの縁に腰掛けた。
寝支度は済ませているようだが、昨日と同様ぴっちりとした肌着を着込んでいる。だが肌着の几帳面さとは裏腹に、上衣を随分なはだけ具合だった。身を屈めるだけで、襟元に曲線が描かれる。
昨夜と同じ見た目だ。けれどノイは何故か、今夜は焦ってしまった。
昨日なかった寝床が、今日突然増えるはずもない。
結局、これからもこの部屋で寝ることになったノイは、クッションをパッと離し、もう一度握り、抱き締める。
そして、クッションを盾のようにしながら、ノイはカルディアを見上げた。
「な、なあ」
「うん?」
「変なこと、しないよな?」
ノイを見下ろしていたカルディアは、にまーっと口の端を上げる。
「どんなことされたいの?」
「ど、どんなって!」
しないということを確認したのに、されたいことになっていることにも気付かず、ノイは顔を真っ赤にした。
昼間に手を握られてから、何だかおかしい。
(だって、昼間、手を。ま、まあ、私はこう見えても大人だから、あの程度、なんてことないが……)
「だから、その――」
「うんうん」
顔をよく熟れた林檎のように赤くしたノイが、ああでもない、こうでもないと、手をばたつかせるのを、カルディアは楽しそうににこにことして見ている。
恋の経験などないノイがそんな言葉を自分の口から言えるはずもなく、困り果ててカルディアを見た。すっかり眉を下げていたノイだったが、ベッドの淵に座ったカルディアが腰帯を尻で踏んづけていることに気付いた。あと少し動けば、腰帯が解けてしまう。
(あ、脱げてしまう)
きちんと着ないと、お腹を壊す。
一瞬で師匠の思考に切り替わったノイは、カルディアの帯に手を伸ばそうとした。
しかしノイの指が帯に触れる前に、ひらりと身を捩ったカルディアに逃げられる。
「えっち」
「な!?」
何故そうなる、と抗議しようとして、ノイは更に顔を赤らめた。
「ち、違うんだ! お前の紐が、緩んでたから! お腹を冷やすと思って!」
「え~?」
「本当なんだ! 信じてくれ!」
涙目でノイがカルディアを見上げると、カルディアは笑っていた。またおちょくられたのだとわかったノイは、カルディアをドン! と押した。カルディアの体が、ことんとベッドに横になる。
その顔がまだ笑っていて、ノイは悔しくなってカルディアに馬乗りになった。
「カルディア!」
「あーあ、またそんなことして。意味もわかってないくせに」
カルディアのお腹に乗ったのは、ノイのはずだ。動物にとって腹を見せる行為は絶対的な服従で有り、腹は急所でもあった。
なのにこの男は、目線ひとつ、言葉ひとつで、何故かノイの方が追い詰められているような気分にさせる。
「……なあに?」
長い男の指が、ノイの白髪を掬う。
そのまま指からパラパラと落ちていく髪を、二人で寝台の上で見ていた。
怖くなって、ノイは飛び降りた。
俊敏なノイの動きに、カルディアがまた笑う。そして、ゆっくりと体を起こした。
「昨日言ったじゃない。何もしないって」
「しばらくは、と言った!」
「言ったけど?」
「しばらく、と言うことは、その内、があるじゃないか! そのその内の期間はお前しか把握していないんだから、お前に聞くしかないじゃないか!」
涙目になってまたクッションを抱きかかえたノイに、カルディアは大きく頷いた。
「なるほど。俺の花嫁さんは賢いなあ」
「それで?! いつなんだ?!」
「いつか知らない方が、ドキワクして楽しいんじゃない?」
「楽しいものか!」
「えー。生きてる実感あるでしょ?」
ノイはハッとした。息を呑んだノイに気付いたカルディアは一瞬表情を消し、にこりと微笑んだ。
「一般論だよ」
「百年生きてるからか」
「一般論だ、って言ったんだけどな」
クッションを手放したノイは、じりじりと寝台の上に膝を突き、カルディアに近付いた。今度はカルディアが、ノイの放ったクッションを掴んで、ノイとの間に持って来る。
ノイはクッションをぐいっと横に引っ張った。カルディアは笑ったまま、ノイから逃げている。
「カルディア!」
「……全く。その声で呼べば、なんでも言うことを聞くと思って」
ため息をついたカルディアは、ノイの腕を取って引き寄せた。
深紅の瞳が、目の前にある。二連のほくろがぼやけるほど、近くに。
「――そんなに教えてほしいなら、教えてあげようか」
「悪かった!」
妖艶な唇が言葉を吐き出した瞬間に、目をギュッッっと瞑ったノイは秒で白旗を揚げる。この男こそ、そういうことをすればノイがなんでも言うことを聞くと思っているではないか。
目にも留まらぬ速さでカルディアから離れたノイがベッドの一番隅っこでぜえはあと息を整えていると、彼は呆れたように笑った。
「君はその話が好きだなぁ」
「だって――!」
勢いよく振り返り、だって。と心の中で付け加える。
(もし、本当に百年も、生きていたなら)
「そうなら、淋しかったんじゃないかと、思って……」
寒くはなかったか、怖くはなかったか、辛くはなかったか――気にするのは、当然だ。
だってノイは、もう魔法は使えずとも、まだカルディアの師匠なのだから。
「――淋しかったら?」
俯くノイの頭上から、冷ややかな声がする。
いつもにこやかに笑っていたカルディアには珍しく、何処か投げやりな、感情を押し殺せていない声だった。
「淋しかったら、何? 手でも握ってくれるって?」
「勿論だ! いつだって繋ぎに行く!」
カルディアは幼い頃から、手を握られるのが好きだった。そのくらいなら、今のノイにだって出来る。
喜び勇んで顔を上げたノイだったが、カルディアを見て不安げに問いかけた。
「……またからかったのか?」
カルディアは、こちらを見てもいなかった。ノイから顔を逸らし、目を瞑っている。
ゆるく、カルディアが首を横に振る。
「違うよ」
参ったな、と言って、カルディアは長い髪を掻き上げた。寝台を見つめる目は何故か、途方に暮れた子どものような頼りなさをしている。
「……カルディア?」
思わずノイは名前を呼んだ。しかしカルディアはそれに答えず、ごろりとベッドに横になった。そして、その時にはもう表情を取り繕っていた。
抜け目のない顔で、うっすらと笑う。
「この話は、おしまい。俺はね、君の好奇心を満たす玩具じゃあ、ないんだよ」
顔も声も、柔らかかった。けれどその言葉は、驚くほどに鋭い。
ピシャリと撥ね付けられ、ノイは言葉を失った。そんなノイを見て、カルディアが仕方ないという風に笑う。
「ごめんね、よしよし。ほら、おいで。おやすみのキスをしよう」
傷つけても、慰めればいいと思っている。それがわかる軽薄な声色だったが、これ以上突っぱねて、また線を引かれるのが怖くて、ノイは呼ばれるがままにカルディアに近付いた。
額に口づけが降りてくる。振り払う勇気は無かった。
そして昨晩と同じように、彼の腕の中で目を閉じると、いつしか眠りについた。
***
「……手を繋ぐ、か」
眠りについたノイの髪を、指先で彼女の顔から払いながら、カルディアが呟く。
「不思議な子だね、君は……」
星から隠れるような小さな声が、眠るノイに届くはずもなく、天蓋の中に落ちて消えた。
――そして次の日も、彼がカーテンを開けた音により、ノイは目を覚ました。