01 : 伸ばした手の先
――エスリア王国暦 380年 晩秋
「腹が減っているのか?」
肘をついて地面に這いつくばり、白く長い髪を床に広げながら、ノイ・ガレネーはテーブルの下に手を伸ばしていた。
「なら、そんな所にいてはならん。ご飯を食べるには、明るい場所に出て、座って、いただきますと言わねばならないからな」
ノイの暮らす家は狭く、沢山のもので溢れていた。
不精者のノイが、テーブルの下に使わなくなった道具や空き箱を雑多に詰め込んでいるせいで、テーブルの奥に入り込んでしまった愛弟子を見つめるにも一苦労だ。
「……」
まだ六歳ほどの小さな子どもは、テーブルの奥で痩せ細った体を抱えてしゃがみ込んでいる。
べたつき、もつれた長い黒髪の隙間から、ぼんやりと光る赤い瞳が覗く。もう長いこと風呂に入っていない体からは、饐えた匂いを発していた。
まるで、毛を逆立てた子猫に声をかけるように、ノイはペパーミント色の瞳を細め、優しく、辛抱強く声をかけた。
「さぁおいで。私はもう、お腹がぺこぺこなんだ」
しかし結果は空しく、弟子はやはりうんともすんとも言わなかった。
少なくとも、もう三時間は、ノイと弟子になったばかりの子どもは同じようなやり取りを続けている。
――遡ること、四時間。
この子どもは、エスリア国王太子フェンガローにより、山奥にあるノイの家に連れて来られた。
「――ノイ・ガレネー。この国に根を張る魔法使いたるそなたに、魔王の監視を命ずる」
丁度昼時にやってきたフェンガローは、キジの丸焼きを頬張っているノイを前にしても、その威厳を崩すことなく言い切った。
ノイが長い睫毛を揺らして、ぱちくりと一度瞬きをする。女性らしい繊細さと柔らかな色気を醸し出すノイは、全くその見た目に相応しく無い骨付き肉を口から外した。
キジの脂で濡れた細い指で、ノイが向かいの椅子を指す。
フェンガローの背後に控えていた護衛が、二人してぎょっとした顔で彼女を見た。しかしフェンガローは、顔色一つ変えることなく、真顔のまま椅子に腰掛ける。
二十四歳のノイに対して、二十六歳のフェンガローは二つ年上だが、ノイは昔からこんな調子だった。
「お前も食うか?」
半分に切られたキジの丸焼きをノイがフェンガローに差し出すと、彼はようやく表情を変えた。
「客に振る舞うのなら、せめて皿くらい出さんか」
「先触れもなしに翔翼獅が飛んできたかと思えば……なんだその態度は。文句を言うならやらん」
窓の外に見える魔法生物――背に翼が生えた獅子――を見ながらノイがキジを引っ込めると、フェンガローは腕を伸ばして丸焼きを奪った。
そしてノイの背後に並ぶ、背の高い食器棚を見て片手を上げる。
「女ひとり暮らしには、その棚の高さでは不便であろうに」
フェンガローの後ろに控えていた護衛が一歩足を踏み出すと、ノイは鼻を鳴らして笑った。
「この私に不便なことなど、あるものか」
ノイがほんの僅かに指を揺らして、魔法陣を編む。そのスピードは並の魔法使いなど、足下にも及ばない。
魔法によって食器棚の扉が開き、皿が勢いよく浮く。積み重ねられていた皿の中から一枚だけ空中に躍り出ると、凄まじいスピードでフェンガローの前まで飛んで行った。滑り込むようにテーブルに皿が着地するのと同じくして、食器棚の扉も大きな音を立てて閉まる。
彼の後ろに控える護衛二人は、何が起きたのかもわからなかったようで、ぽかんと皿を見ていた。
魔法使いは、魔法を使う。
魔法には魔法陣を編む必要があり、魔法陣を編むにはどれほど小さな魔法であっても、それなりの時間を要する。
それをノイはごく僅かな時間で、それも微かな指の動きだけでやり遂げてしまった。
驚く護衛二人の前で、フェンガローは誇らしげに口角を上げている。
そんなフェンガローを、ノイはじっとりと見上げた。自分の魔法の腕を見世物のようにされるのは、気に食わない。
「それで? お前が私に頼み事とは珍しいな。プロポーズを断って以来二年間、一度も顔を見せなかったくせに」
王太子の護衛達が一瞬にして顔色を変えた。彼らの鎧がガチャガチャンッっと音を立てる。
「……っ子どもの、戯れではないか。冗談に、過ぎない」
雑巾のように絞り上げられた蛙みたいに、しゃがれた声がフェンガローから漏れる。
「本気でそう通したいなら、もう少し涼しい顔で言ってのけたらどうなんだ」
指先でつまんだキジの骨をぶらぶらと振りながら言うノイに、フェンガローは早口で返した。
「ではなんだ。その話を蒸し返すということは、そなたも心変わりがあったという事か?」
「という事ではないのだ」
「という事ではないのか……」
フェンガローがキジを皿へ置き、肘を突いてため息を吐く。ノイはもぐもぐと口を動かしてフェンガローを見守った。
兄弟子でもあるフェンガローのことを、誠の家族のように大事には思っているが、彼の地盤固めのためにこの身をくれてやるほど、ノイは安くない。
ノイが骨の間の肉までしゃぶり尽くす頃、ようやく立ち直ったフェンガローが、神妙な表情で口を開く。
「――星詠みの魔法使いが星を詠んだ。近く、魔王が孵る」
ノイは骨を皿の上に置いた。
同じ師を仰ぎ、頑なに同胞としての立場を崩さなかったフェンガローが、王太子としてこの家にやってきたからには理由があるだろうと思っていたが――予想以上の大ごとに、ノイは唇を引き締めた。
星詠みの魔法使いは、占星術でこの世の先を見通す、偉大な魔法使いの名である。
その占いは百発百中で、これまで占ったどんなに小さな事件も、どれほど大きな異変も外したことがない。
国からの信頼は絶大で、前国王は星詠みの魔法使いの託宣を元に、自身の抱える複数の王子の中から次期王を決めたとまで言われている。
そんな星詠みの魔法使いが、よりによって魔王――世界を滅ぼす闇の王を占ってしまったのだ。それは不確かな未来ではなく、確定した行く末であった。
――魔王。
二千年も前に人々を恐怖の坩堝に陥れたとされる、闇の王。
人では及びもつかない強大な魔力により、当時、世界の半分が崩壊したと言われている。
ただ、あまりにも突拍子のない存在であるため、おとぎ話のようなものだと思われていた。
――今、この瞬間までは。
「そして魔王を打ち滅ぼすのは――国一番の魔法使い、ノイ・ガレネー。そなたであると」
フェンガローが苦渋に顔を染める。
きっと彼は星詠みの魔法使いの託宣に、最後まで抵抗したのだろう。
国一番の魔法使いとはいえ、ノイはまだ二十四歳のうら若き魔法使いである。彼女の力を信用してはいても、世界を崩壊させかけた魔王を任せるには、気がかりに違いない。
(心配性は変わらないな)
ノイが細く長い足を足首で組み直すと、背中にゆったりと流れる白い髪が揺れた。
幼い頃からノイは、難癖をつけられる事が多かった。
その度に、権力を笠に着せてまで庇ってくれたのは、兄弟子のフェンガローだった。
彼は、石を投げつけられた女の子が、蹲って泣く姿を忘れられないのだろう。もう大人になって久しいというのに、いつまでも心配で堪らないのだろう。
もっともノイは、命知らずにもからかってきた意地悪な兄弟子共を油断させるために泣き真似をしていたのだが――フェンガローにとっては、兄弟子共に仕返しをする邪知暴虐な姿よりも、可愛い妹弟子の記憶が強いのかもしれない。
ノイは知らず知らずに浮かべていた苦笑を引っ込めると、スッと椅子を引いて立ち上がった。そして両手の指と指を交差させて持ち上げ、頭を下げる。
「拝命致します」
白い髪がさらりと流れる。フェンガローはため息をつき、椅子の背に寄りかかった。
「もう一度聞くが――」
「はい?」
「我が妃になるつもりはないか?」
「往生際が悪いなぁ」とノイが笑うと、フェンガローは「言うてくれるな」と頭を抱えた。
ノイの肩書きが「国一番の魔法使い」から「王太子の妃」になれば、未来が変わるとでも思っているのだろうか。
こんなこと、わざわざ国の第一王子がすることではない。王宮でふんぞり返って、結果を待てばいい立場にもかかわらず、こんな山奥まで自らやって来た。それに、護衛の数が不自然な程に少ない。きっと、ノイを逃がすためだ。
(……死ぬのかな、私)
星詠みの魔法使いの占いは、絶対だ。もしかしたら予言の文言に「その身を賭して」なんて言葉が入っていたのかもしれない。
魔王に対峙するのだ。覚悟はきっと、どれだけしていても足りない。