18 : 夜のとばりの間で
「朝ご飯が……ない……?!」
この世の絶望とは、こういう姿をしているのかもしれない。
ノイは目の前にそびえ立つ台所の番人――オルニス・イニパスを驚愕の眼差しで見つめていた。
「当たり前だろ。いくらあんたが先生の婚約者とは言え、ここは先生の家。先生が食べる時間に合わせて作ってるんだから、その時間に食べないやつに、食う権利なんてない」
ぐぅの音も出なかった。
魔法使いは、縦社会。
ノイがいくらオルニスを弟子の弟子と思っていても、それはあくまでもノイの中だけの話。
現実では、この家の家主はカルディアであり、ノイの保護者もカルディアである。とどのつまり、この家のトップは、カルディアであった。
「う、うう……」
ノイは堪えきれず、その場でしゃがみ込んだ。
彼女がベッドから起きたのは、驚くことに昼前だった。カルディアに「おはよう」と言われたところまでは記憶にあるのだが、その後が不思議なことに途切れてしまっている。まさか本当に記憶喪失になってたりな、あっはっは! なんて笑いながら階下に降りてきたノイを待っていたのは、朝ご飯抜きと言う、信じられない現実。
「……おい、どうした」
突然呻き声を上げながらしゃがみ込んだノイを心配したオルニスが屈むのと同時に、ノイから音が漏れた。
――ぐぅ きゅるるるる……
「お腹が……お腹が空いた……」
「昨日あんだけ食ってたじゃないか!」
「昨日は昨日、今日は今日だろぉ……」
しゃがんだままのノイは、お腹を押さえ、パタリと床に倒れ込んだ。ご飯がないのなら、座っている元気もない。
「ちょ、やめろよ。立てって! もしこんなとこ見られたら、僕が先生に怒られるだろ!」
その先生ことカルディアは、家にいないようだ。
昨日も客人がいるというのに庭を散策していたくらいなので、気ままに散歩でもしているのかもしれない。
ノイは小刻みに首を横に振った。
「ご飯がないなら、もう、立つ事など……」
「ある! あるから、立てって!」
ガバリと起き上がったノイは、オルニスの顔に、鼻先が触れそうな程顔を近づけた。
「嘘ではないな? 謀っておらんだろうな」
「謀るって……飯一つに、大袈裟すぎだろ」
「何が大袈裟なものか」
ご飯は大事だ。何より美味しい。人類は、魔法使いであろうが人であろうが、皆等しく食べ物の奴隷なのである。
オルニスは面倒臭がりながらも、ノイの食事を用意した。はぐはぐと食べるノイを見たオルニスは何故か「満々腹……」と呟いていた。満々腹が好きなのかもしれない。
「屋敷の中、案内するから。来て」
ノイが食事を終えたのを見計らい、オルニスが声をかけてきた。ノイは食器を台所へ下げると、オルニスの後についていく。
昨日何度も出入りした玄関扉のすぐそばにリビングがあり、その奥にダイニングスペースと、台所があった。リビングから伸びた階段を上るとすぐに、昨晩ノイとカルディアが眠った部屋がある。
そして、更に階段を上った先に、梯子で行ける屋根裏部屋――代々弟子が引き継いでいる、住み込み部屋があるという。
「本当にこれだけしかないのか!?」
そんなわけがない。ノイが山奥で住んでいた家とは、わけが違う。立派な外観に、大きな扉。もっと広く立派な家を想定して作られている造りであった。
無言のオルニスに連れられ、ノイは外に出た。
そこで、あんぐりと口を開ける。
家が、切りとられていた。
そうとしか表現できなかった。家がまるで、スパンと切られた野菜のようになっていたのだ。家の断面図を見たのは、初めてだった。
「……ど、どうなっているんだ」
「先生が浮島に上られる際、ヒュエトス魔法伯爵邸の、別館の一部をここに運ばれたらしい。当初は弟子も取る予定が無かったから、最低限の寝床だけ確保したって聞いている」
「さ、最低限のって……じゃあ、あのリビングは、リビングですらないと!?」
「そう。玄関ホールだって聞いてる。先生の部屋は、掃除道具入れだって」
ノイは頭がクラクラした。昨日、道理で狭いと思ったわけだ。客間でも、主寝室でも無かった。元々は、納戸だったのだ!
世にも珍しい屋敷の活き作りを、ぽかんとしてノイは見つめた。
その奇妙な光景に何もかも呑まれてしまいそうだったが、切りとられた煉瓦を見ていると、どんどんと侘しくなってくる。
(こんな、誰もが羨む空の上に住んで、貴族という地位まで手に入れたのに、お前はまだ……最低限の物しか欲しがらないのだな)
手を繋いで街を歩いた日のことは、昨日のことのように思い出せる。あの時のカルディアは、ノイに無駄遣いさせないよう、決死の覚悟で前を向いて歩いていた。
(まだ、何かを欲しがるのが、下手くそなのか?)
だから、百年も経つのに嫁もいないのだろうか――と考えて、はたと気付く。
(あれ? 初婚は済ませていたりするのか?)
あの見た目だ。ご多分に漏れず、女性にモテただろう。百年の間に、結婚の一度や二度や三度や四度、経験していてもおかしくない。
(だからもう、嫌だとか?)
なんにせよ、この小さな頭で考えていたところで、ノイの一人よがりに過ぎない。カルディアのことを知りたければ、カルディアと語り合うしかない。しかしそれにはまだ、ノイが彼の信用を築けていない。
(一緒に過ごす内に、心を開いてくれればいいのだが……)
路銀がないからと婚約者になったノイだったが、彼女は既にこの地を離れることなど考えていなかった。ノイにとって今一番大事なのは、カルディアだ。
「それから――」
煉瓦を見つめていたノイに、オルニスが話しかける。
「森に近付かれるのを先生は好まれない」
「へえ」
そう言って、ノイは煉瓦を乗り越えて、森へ向かおうとした。そんなノイの服を、オルニスがぐんと引っ張る。
「なぜ近付く!?」
「え?」
「わかった。あんたに遠回しな言い方はしない。森の奥には、近付かないように! しっかりと覚えておけ!」
「なんだ。それならちゃんとそう言えば良いのに」
眉根を寄せて、ノイはオルニスにそう言った。オルニスは額に青筋を浮かべ「丁度良い」と呟く。
「おい、あんた。先生はあんたを花嫁だなんだと甘やかすけど、所詮は一番の新参者ってことは、わかってるよな?」
冷ややかなオルニスの目を、ノイは真っ向から睨み返した。
「だからなんだ」
「下っ端なら下っ端らしく、してもらおうか」
二人の周囲の温度は極限まで冷え切っていた。