17 : 夜のとばりの間で
朝、誰よりも早く起きて、カーテンを開けるのは、カルディアの役目だ。
気が遠くなるほど長い年月の中、最愛の人の弟子として過ごした僅かな日々を思い出させる、カルディアにとっての大事な儀式でもあった。
寝床の中で布団に包まり、親の敵のように朝日を睨み付けるあの人は、もういない。
けれど、昨日からは別の人間が、カルディアのベッドの中にいた。
(人と一緒に眠ったのは、何年ぶりか)
あたたかな温もりに驚いた。咄嗟に逃げ出したくなるほどの胸の疼きに、目が覚めてからもしばらくは動けなかった。
ベッドから降りたカルディアは、布団の上で丸まる少女を見て、嘆息する。
『――カルディアは百年、生きているのか?』
背を向けていて良かったと思ったのは、何十年ぶりだろう。
人に顔色を読ませない術は身につけたはずなのに、あの瞬間、不覚にもカルディアはそう思った。
向き合っていたら、その声に名前を呼ばれただけで泣きそうになってしまった自分の顔を、見られていたかもしれない。
ここ何十年も、カルディアは人となるべく浅くしか関わりを持たないようにしていた。そうしていれば、何かを失った時、心が痛むこともない。
全てを遠くに追いやり、全てを俯瞰して眺めた結果、カルディアの心は、朝の湖畔のようにしんと静まっていた。
それなのに――
(こんなに心を震わされたのは、それこそ百年ぶりかもしれない)
そう感じるほどに、ノイが自分を呼ぶ声は、あの人のそれに似ていた。
(――やっかいだな)
話し方や、顔まで似ているのに。
(声まで、あの人に似てるなんて)
――今日からこの家に住まうことになった少女、ノイ。
彼女は、カルディアが魔法で呼び出した。
魔王がこの世から消えてから――ノイを失ってから――百年。
カルディアはノイの遺した魔法を引き継いでいた。
ノイは正しく天才であった。彼女の手がけた魔法陣は全て、精密で、複雑で、理解出来る魔法使いすらほぼいなかった。
その魔法陣の意味するところを一つずつ紐解き、知識を深め、実験を繰り返し――カルディアは百年かけてようやく、完成にこぎ着けた。
その一つである、転移魔法。
目標物を彼方から此方へと転移させる魔法だった。
魔法は、此方から彼方へと発動するという常識を覆す、ノイらしい突飛な魔法だった。
転移魔法を完成させたカルディアは、手始めにノイを呼び寄せた。
――何も本当に、「ノイ」を呼び寄せられるとは、思ってもいなかった。
ただ、百年前に魔王と対峙した際に跡形も無く消失してしまったノイの、亡骸であれほんの一部だけでも、手に入れておきたかったのだ。
しかし、魔法陣はカルディアの想像を上回る結果をもたらした。
魔法陣は正しく、カルディアが脳裏で思い浮かべる「ノイ」を呼び寄せたのだ。
――白髪に、エメラルド色の瞳を持った、ノイと名付けられた少女を。
(もしかしたら……血筋だろうか。顔が似ている。声が似ている。――けれど決定的に、魔力が違う)
魔法使いは、その者が持つ魔力で個人を認識する。
圧倒的な魔力を持っていたノイは、その顔や名前よりもよほど、魔力での印象を強く与えていた。
カルディアは少女のノイを、自らの師匠ノイ・ガレネーだとは認識しなかった。魔法使いとして生きていれば当然培われる、魔法を扱う者の常識でもあった。
(見た目は似てても――他人のそら似)
魔力が無いのだから、絶対にノイ本人ということはあり得ない。
(……そう、俺くらい特別な事情でもない限り)
自嘲を浮かべ、腹をさする。手のひらに当たる感触を指でなぞりながら、目を閉じる。
転移魔法で呼び出した彼女を見た瞬間、カルディアは閃いてしまった。
――この子を、利用すれば。
そう考えた時には、カルディアは彼女に求婚していた。
大きく見開かれたペパーミント色の瞳を思う存分覗き込みながら、ノイを引き留める方法を、あの時のカルディアは必死に考えていた。
「何を考えてらっしゃるんですか」
二度寝を決め込んだノイを放置して階下に降りると、オルニスが台所に火を入れるところだった。数年前から下宿しているオルニスは、カルディアの嫌がることはしないよう躾けられている。
「何をって?」
「あのように不審の塊でしかない小娘を招き入れて、あまつさえ、一緒に眠るだなんて」
「でもほら。言った通り、何も無かっただろう?」
カルディアが両手を広げてそう言うと、オルニスはうっと言葉に詰まった。
「約束通り。彼女に関しての口出しは、今後止めてもらうよ」
二人は昨夜、ノイを部屋に通した後で賭けをしていた。
ノイがカルディアに害意を持つのなら、二人きりになる夜は絶好の好機である。
そのため、昨夜にカルディアが傷つけられなければ、今後のノイの処遇に口を出さないと、オルニスに約束をさせていたのだ。
「大体ねえ。師匠の恋路に口を挟む弟子だなんて、聞いたことがないよ」
「本当に恋と? あんな少女と? だとすれば、問題しかありません!」
「俺から見たら十も二十も、どっちも子どもだよ」
まだ十九歳のオルニスは悔しげに顔を歪めた。ノイは子どもでも、自分は子どもだと思っていなかったようだ。カルディアは笑う。
「本当だよ、一目惚れさ」
思いもよらず、遠い星に思いを馳せるような声が出てしまったため、オルニスはハッとしたように顔を強張らせた。そして「差し出がましい真似を致しました」と頭を下げる。
カルディアは苦笑して、オルニスの頭に手をやった。
「心配しなくても、可愛い愛弟子は君だよ」
「止めてください。もうそんなに幼くありません」
オルニスはパッとカルディアの手を避けて、天井から吊されていた鍋を魔法で下ろす。
「大体、何なんですかあれは。満々腹かと思いました。料理を作る身にもなってください」
満々腹とは、カバによく似た魔法生物で、コロンとしたフォルムの愛らしい獣だ。口が大きく、いつも何か食べている。人の悪夢を食べると言われる夢喰と違い、本当にただ、四六時中コロコロと転がりながら、食べているだけの動物だ。
ただ、その食べる姿に魅せられる者は多く、見世物小屋が来た時には行列が出来るほどだった。
「それはすまない。頼りにしているよ」
朝ご飯作りを始めたオルニスにそう言うと、カルディアは外に向かおうとした。オルニスは背を向けたまま、口を開く。
「いつかバレて、痛い目見ますよ」
「あの子に? ないない。そんなぼろは出さないよ」
純真無垢なただのお嬢さんに、何が見抜けるだろうか。カルディアはにこりと笑う。
「――もし彼女が、本当にただの記憶喪失の子なら。無体な真似は、よしてくださいよ」
カルディアは口の端を上げ、オルニスを振り返る。
(本当に、記憶喪失なんだろうか)
それにしては、知りすぎている時も、知らなすぎる時もある。彼女の言動はとても不安定に見えた。
それこそが、記憶を失った人間という証左なのだろうか。百年もの間生きているとはいえ、そういった人間と接したことのないカルディアには、判断がつかなかった。
だが――記憶があっても無くても、多少の不審さには目を瞑るつもりだ。
(あんな逸材、もう二度と手に入らないだろうからね)
「落ち着いていて、賢い子だよね――不思議な子だ」
「不思議さで言えば、あなたは一つも負けていませんよ」
弟子の言い草に笑い、カルディアは壁に寄りかかった。
「優しくするさ」
優しくしよう。
愛し、愛されることが世界の幸せなら、いくらでも愛されていると思わせてやろう。
(いずれ俺を愛して、その時なら――許してくれないかな)
こちらの勝手な都合で、物のように利用することを。
(ああ、けれど……。もし本当に、俺の望みを叶えてくれたなら)
「信じて。彼女を愛すよ」
(きっと絶対、愛してあげる)
寒気がするほど純粋な瞳でカルディアがそう言うと、野菜を洗っていた弟子が、ゆっくりと振り返った。
「……何を考えてるんですか」
オルニスが先ほどと同じ質問を繰り返した。
カルディアは笑みを広げて、ゆっくりと目を閉じる。
「何も。――楽しいこと以外は」







