16:時を越えた魔法使い
「用があるなら、改めてくれ」
「用があるのは、そこだから」
ノイはカルディアが指さす方を見た。
そこには、綺麗に整えられたベッドがある。
(……)
えっ、とノイは顔を上げた。
ベッドとカルディアを交互に見て、また、えっと飛び上がる。
「――?!」
ノイは慌てた。慌てたせいで服を引っ張ってしまい、バランスを崩し、盛大にずっこけた。
――ドシンッ!
ものすごい音がして、ノイは床に突っ伏した。
ドアに寄りかかってノイを見ていたカルディアはぽかんとした後、後ろを向く。
「くっ――!」
カルディアの背中が小刻みに震えている。笑っているのだ!
ついこの間まで――彼にとっては大昔には――こけるノイを大層心配していたというのに!
(……恥ずかしい。消えてしまいたい……)
ノイは突っ伏したまま動けなかった。ぎゅっと服を握りしめたまま床の上から動かない小娘を、カルディアが震えながら抱き上げる。
顔と顔が近付く。むすっとした顔をしたノイを見て、カルディアはまた体を揺らし始めた。
ノイはショックを受け、口を引き結ぶ。
「ごめんね。俺が意地悪だった」
素直に非を認めるのがまた、憎たらしかった。歯痒いことに、口を噤めば頬が膨れてしまう。そんな意図はないというのに、まるで本当の子どものようにむくれてしまった。
「君は俺の花嫁さんになってくれたけど、だからってすぐに、何かするつもりはないよ」
ノイはふくれっ面のまま、カルディアの髪を掴んだ。ぎゅっぎゅと下に引っ張るのを、笑った顔で許している。
(だって、用があるのがベッドとか言うから! だって、花嫁さんとか呼ぶから!)
ノイとて成人女性である。一般的な知識は持っている。
そう。結婚初夜という言葉と、その日に何が起きるのかくらい、知識として蓄えてはいるのだ。
だが、別にノイとカルディアは結婚したわけではないし、ノイは今、子どもの姿である。
(からかわれただけ、とよく考えればわかったのに!)
色々な思考とプライドが邪魔をして、ノイは機嫌を直せなかった。
むくれているノイを抱えたままのカルディアが指を動かすと、ベッドの天蓋がさっと垂れる。そして、ノイを着替えの傍に置くと、カルディアはベッドにごろりと横になった。
「君は着替えてからおいで」
天蓋の中でカルディアがそう言った。ノイはぱちくりと瞬きをする。
(君は、着替えてからって……ええ? ええ??)
秒速で着替え終ると、ノイは天蓋を開いてベッドに膝を掛けた。
「一緒に寝るのか!?」
「そうだよ」
「また冗談だな?」
今度は騙されないぞと、ノイがベッドによじ登る。ごろりと横になっているカルディアは、よく見ると先ほどと違う服に着替えていた。その服はやけに肌を覆っていて、寝間着には不向きにも思えた。
「残念ながら、うちは狭くてね。余分な部屋がないんだ」
「そんなわけがないだろ!?」
こんな辺鄙な場所に住んでいるとは言え、カルディアは魔法伯爵の称号を持っている。先程、外から見た外観はかなり立派な屋敷だった。
「本当だって。明日オルニスに案内してもらうといい」
あくびをするカルディアは、ノイと話すのも面倒臭そうに目を閉じている。ベッドに入った途端、驚くほどに雑な対応だ。
不機嫌そうにも見えるカルディアに一瞬怯むも、ノイはぐいぐいと体を揺すった。
「なあ。他の寝床はないのか?」
カルディアは目を閉じたまま腕だけ伸ばすと、指をくいっと曲げた。すると、ベッドを覆っていた天幕がハンモックの形状になる。
「あっちで寝ていいよ」
だから寝かせて、とでも言う風に、カルディアは枕に顔を突っ伏した。
「え! 嫌だ! 私はベッドだ!」
「俺も」
客人であっても子どもであっても、自分の権利は手放したくなかった。そしてそれは、家の主人であり大人でもあるカルディアも変わらなかったようだ。
「そこが嫌なら、黙って寝なさい」
初めて大人が子どもを叱るように接され、ノイはしょんぼりとしてしまった。ノイが黙り込むとカルディアは、枕から顔を上げた。そして横になったまま肘をつくと、ノイを見る。
「それとも、黙らせてほしくて騒いでる、と言うなら別だけれど」
カルディアがノイの白い髪を指で掬った。
「黙らせる? 魔法か?」
この百年で、人にかけられる魔法が開発されたのかとわくわくするノイに、カルディアはただ無言で笑みを深めた。
笑みの深さに、妖艶さを感じる。
それだけで、彼の言葉の意味を感じ取り、ノイは顔を赤らめた。
リラックスした服に、眠たげな表情。カルディアの持つ色気が際立ち、ノイは慌てる。
「あっ……違っ! 違う! 駄目だ!」
「じゃあ、さっさと寝るように」
真っ赤になったノイが叫ぶと、カルディアは白い髪をパッと離して、また横になった。
ノイは凄く負けた気分で、悔しがりながらもカルディアの横に入る。
横で眠るカルディアの体は大きく、僅かに熱を発していた。
大きく動けば触れそうで、腕を胸の前で固定したまま動かせない。
(……カルディアと寝るのは別に、いいんだけどな)
何しろ、昨日までも毎日一緒に寝ていたのである。体格差が逆なだけで、これほどなんだか落ち着かなくなるとは思わなかった。
波打つ感情は、同時に心をしんみりともさせる。
「……なあ」
「うん?」
ノイが話しかければ、眠そうながらも、カルディアは返事をしてくれた。それに勇気をもらって、少しだけカルディアの方を向く。
「――カルディアは百年、生きているのか?」
ノイが、百年前から来たなら。
彼が、ノイの弟子なら。
それは百年間、彼が生きていることを意味する。
(百年も生きているなんて、ありえない。それに――姿が若いままなんて)
目の前のカルディアは、二十六・七歳にしか見えない。
百年間も生きているのも、見た目が若いままなのも、ノイの常識ではあり得ない。
何にせよ、ノイは答えがほしかった。
「百年? 何の話?」
けれど彼は、ノイに答えを渡さなかった。
「先ほど、外で師匠の話をしてくれただろう? あの時、百年前だと――」
「そんな話したかな?」
ノイは反射的にムッとして口を開きかけたが、思いとどまった。
(……私だって、隠し事をしているくせに)
それも、かなり自分勝手な理由で、師匠と名乗らずにいる。
真っ赤になったり、からかわれたり、子どもだと完璧に思われているこんな状況では尚更、名乗りたくなどなかった。
(……カルディアは、もう立派な魔法使いだ)
もう、ノイの弟子だった頃の彼ではない。それに、師匠だと名乗り出ない以上、師匠面もしてはいけない。
(遠くなってしまったな)
百年前と変わらず、同じベッドで横になって眠っているというのに、その距離はぐんと伸びているように感じた。
「……眠れないの?」
ノイが黙り込んでいると、カルディアが面倒臭そうに体を起こした。
「――ああ、そっか」
そして何かを思い出したかのように、ノイの顔に自分の顔を近づけてくる。
「えっ、なっ――!」
慌てるノイなど無視して、カルディアはノイにキスをした。
正確には、ノイの額に。
「子どもにはこれがいるんだっけ」
何でもないようにそう言うと、カルディアはまたごろりと横になった。
呆然として、ノイはカルディアに口付けられた額を押さえる。
(……なっ、なっ!?)
顔を赤くして、ノイは口をパクパクとさせた。
確かにノイは昨日まで、カルディアにおやすみのキスをしていた。その習慣を彼に与えたのは、ノイである。だが、それは彼が子どもだったからである。
(……いや、私も今、子どもなんだったな……)
色々ついていけなくて完全に固まるノイの横で、カルディアが肘を突く。
「ほら、目を瞑って。おやすみ」
カルディアは目を瞑ったまま、ノイのお腹をとんとんとし始めた。いくら幼い見た目とはいえ、おやすみのキスをされ、寝かしつけまでされるとは。
肘をついたカルディアは、ノイよりも先に船をこぎ始めた。ぐわんぐわんと顔が揺れている。
これほどカルディアが睡眠に貪欲なことを、ノイは初めて知った。
彼が弟子だった頃、ノイに付き合って夜遅くまで起きていることもあった。きっと大変だったろうに、そんな様子など一切見せなかった。
(気を、遣わせていたのだろうな……)
あちらのカルディアが恋しくて、ノイはこちらのカルディアに言われるままに、目を瞑った。
***
「おはよう」
明るい太陽に照らされて、ノイは目を開けた。
自分よりも先に起きて、カーテンを開く影が見える。
振り向いた姿で、確信した。
しなやかな体の線、通った鼻、二連のほくろに、形の良い耳。闇のように、朝日に照らされ輝く黒髪。
(ああ、彼は――本当に……)
カルディアなのだと。