13:時を越えた魔法使い
「そうと決まれば! 我が花嫁に――」
「婚約者です」
「――この浮島を案内しようかな」
後ろで、頭を抱えているオルニスのつっこみなど全く気にも留めず、ヒュエトス魔法伯爵はノイをひょいと抱き上げた。
(え?! また!?)
若返ったとはいえ、人間ひとり抱えるのはそれなりに重いはずだ。
なのにヒュエトス魔法伯爵は軽々と、ノイの膝を掬うように片手で抱き上げている。
ノイが目を白黒させているうちに、ヒュエトス魔法伯爵は大きな足取りでずんずんと歩き出す。
(……ん? ……浮島?)
聞き慣れない単語を心の中で繰り返しつつ、不安定な体を支えるため、ノイはヒュエトス魔法伯爵の頭にしがみついた。
――その数秒後、ノイは身を以てその単語の意味を知ることとなる。
「ひっ――!」
連れ出された場所で、ノイは鋭く息を吸った。ヒュエトス魔法伯爵に、これ以上ないほど強く縋りつく。
強く息を吸い過ぎて、肺が痛くなるほどだった。
ヒュエトス魔法伯爵の足は、あと少しで地面から落ちて――空に吸い込まれそうな場所にある。
「ほら、絶景だろう?」
ヒュエトス魔法伯爵が指さした方向を見て、ノイは頬を引きつらせた。
そこには、雲があった。その下には霞越しに薄らいだ景色が見える。
ノイの足下には草原が広がり、山が連なっている。豆粒のような黒い影は、人か家畜か――判断もつかないほど小さかった。
「空の……上……?」
これまでノイがいた場所は、空に浮かぶ浮島の上だった。
信じられない光景だった。人は空を飛べないし、物を浮かせるにしろ限度がある。
屋敷と庭を囲む湖の反対岸は断崖絶壁になっている。ヒュエトス魔法伯爵が立っている地面すれすれの場所から下を覗き込むことなど到底出来ないが、雲が足下にあるのは、初めての体験だった。
ノイは、驚かせるのは好きだ。
けれど……しつこいようだが、驚くことには慣れていない。
(も、無理……)
ついにキャパシティを越え、ノイはくらりと気を失った。
ノイが目を覚ましたのは、ヒュエトス魔法伯爵邸の客間にある、立派な長椅子の上だった。
「ん。起きた?」
ぼんやりと瞼を開くと、すぐ目の前に美貌の男の顔があった。つい先ほど、ノイの婚約者となった男、ヒュエトス魔法伯爵だ。
眼前に広がる気配からして、ノイはどうやら彼に長椅子で膝枕をされていたらしい。男は何故かノイの髪を指でするすると扱っている。どうやら、眠っているノイの髪を編み込んでいたようだ。
「おはよう。急に気を失って、心配したよ。ここには医者を呼ぶのも一苦労だからね」
「……」
「あと三十分、目を覚まさなければ呼びに行くつもりだった。無事でよかった」
寝ぼけ眼のノイの前で、美貌の顔がにこりと微笑む。
「本当だよ?」
ノイが何も話さないため、疑われていると思ったのか、男は笑顔のまま言った。
男の笑顔を見た瞬間、ノイの脳裏に、これまでにあったあれやこれやが飛び込んできた。そして、彼の膝枕から秒速で起き上がると、ノイはヒュエトス魔法伯爵の肩を掴んで、叫んだ。
「島を浮かすほどの巨大魔法を、お――貴方が?!」
ヒュエトス魔法伯爵の膝の上に膝立ちになり、ノイは顔を近づける。
「どんな魔法陣で?! 何種類の魔法を掛け合わせてる!? 一体、どうやってあんな魔法を?!」
唾を吐きかける勢いでノイがまくし立てる。ヒュエトス魔法伯爵はにこりと笑った顔のまま聞いていたが、ノイが一息ついた隙に、ゆっくりと口を開いた。その細められた目は、真意を探るように鋭く光っていたが、興奮しているノイは気付かない。
「……随分と魔法に詳しいね?」
「そ――」
そりゃあ、国一番の魔法使いだからな! と言いかけて、ノイは慌てて口を噤んだ。今の自分の設定を思い出したのだ。
(今の私は、こいつの婚約者で、記憶喪失で――魔力ナシの小娘)
ほとんどの人間は、魔法のことを詳しく知らないまま過ごしている。魔法使いになるには、弟子入りが必須である。
魔力を持っていないノイが、魔法使いの弟子になれるはずもない。ノイはこれから、一切の魔法を知らない振りをしなければならない身だったのだ。
「まあ、記憶はなくしても生活の知恵なんかは覚えてるって聞くし……それに、よほど好きだったんだろうね」
「へ?」
「魔法が。これ、やってたぐらいだし」
くるくる、とヒュエトス魔法伯爵が指を回転させた。先ほど混乱していたノイがやってみせた、魔力を撚る基礎の型である。
「そ、そうだったのかもしれない。何しろ記憶が曖昧で」
はは、ははは。とノイが乾いた笑みを浮かべると、ヒュエトス魔法伯爵もにこりと微笑んだ。
上手く躱せたことにほっとして、ノイははたりと気付く。
「わあ、すまない!」
自分が未だに彼の膝の上にいたことに気付き、大慌てでノイは飛び退いた。
「おや。いてくれてよかったのに」
艶めいた目を向けられ、ノイは身を強張らせる。この男、動き一つにも色気がある。
「先生、変態には目覚めないでくださいよ」
ヒュエトス魔法伯爵が小娘に色目を使っていると勘違いしたのか、部屋の奥から声がした。
そちらを向けば、オルニスがいた。彼は前掛けを身につけ、おたまを片手に持っている。どうやら、あちらに調理場があるようだ。
「口うるさいのに捕まる前に、今度こそ浮島を案内してあげよう。行くよ、花嫁さん」
ヒュエトス魔法伯爵はノイをさっと抱き上げると、やはり片腕に乗せた。
「あ! 先生、何処へ! お供します!」
ヒュエトス魔法伯爵が出かける気配を察したのか、オルニスは前掛けを外しながら客間に突進してきた。
「全く君は本当に――年々甲斐甲斐しくなってくね。そんなに俺にべったりしてたら、お嫁さんを貰い損ねるよ?」
「貴方に言われたくないんですけど」
「うちにはもういるもーん。花嫁さん」
ねー、とヒュエトス魔法伯爵に笑顔で首を傾げられ、ノイは慌てて首を同じ方向に傾げた。慣れない姿勢のためぐぎっとなったが、致し方ない。これが、彼の望む花嫁像なのだから。住まわせてもらう分くらいは、働かねばならない。
「その辺りをぐるりと一周するだけだって。帰ってきたらすぐに夕飯を食べたい。頼んだよ」
「――承知しました」
基本的に、弟子は師匠の言いつけが最優先である。
オルニスは悔しそうな表情で、ノイを睨み付けながらも頭を下げた。