11:魔法伯爵の花嫁
――エスリア王国暦 482年 初夏
「突然だけど、一目惚れしたみたいなんだ。俺の花嫁さんになってくれない?」
「――……は――い?」
目を見張るほど美しい男に眠りから起こされ、突然求婚されたノイは、ぽかんと口を開いた。
しかし、唖然としているノイなど気にも留めずに、男は笑みを浮かべる。
「いい返事だね! きっと幸せにするよ」
どうやら、ノイが唖然として呟いた「は――い?」を、肯定の意味の「はい」と聞き間違えたらしい。ノイは慌てて、男の腕の上で首を小刻みに横に振る。
「違っ、そうではなく――」
「大丈夫、大丈夫。安心して。こう見えても甲斐性はあるから」
「え、いや! だから――?!」
男はノイの制止も聞かず、指を振るう。濡れていたノイの髪や服が一瞬で乾くと、ずんずんと大股で歩き始めた。勿論、ノイを抱えたままである。
(え、何――え?!)
混乱のままのノイを片腕に乗せ、男は森を突き抜けた。木々が生い茂っていた場所は庭だったらしく、すぐそばに立つ立派な屋敷の扉を開けると、男は笑顔で宣言した。
「――パンセリノス! 喜べ! 結婚するぞ!」
ブーッ! っと、室内にいた年配の男性が、飲んでいた茶を噴き出した。
部屋の奥に控えている少年も、ぽかんとして男を見ている。しかし、少年はすぐにパンセリノスと呼ばれた老年の男性に駆け寄り、ソーサーとカップを受け取ると、ナプキンを手渡した。
立派な衣装に身を包んだパンセリノスと呼ばれた老人は、身なりを整えるとおほんと咳払いをした。
「いつの間にお子が? いえ、血筋を儲けられていたとは、重畳。して、お相手は?」
「何を言ってるんだか。その結婚相手が、この娘に決まってるじゃないか」
威厳のある声を出したパンセリノスに対し、ノイを抱える黒髪の男は、綿毛のように軽い口調であっけらかんと言った。
場が沈黙に包まれる。
――ノイは、どちらかと言えばこれまで、人に驚かされるよりも、人を驚かすことの方が多い人生だった。
師である祖父を驚かすために、ベッドに魔法玩具の弾星を仕込んだり、木の幹で泣いているフェンガローを慰めるために、木の上から飛び降りたり、徒党を組んでノイを苛めようとする兄弟子達に、即席で作った岩人形をけしかけたりと――相手の驚いた顔のバリエーションには事欠かずに生きてきた。
だからこそ、知らなかった。
ノイは、驚かされることに、全く慣れていないということを。
おかげでノイは、借りてきた猫のような大人しさである。黒髪の男の腕の上で、身じろぎ一つ出来ず、完全に固まってしまっていた。
「はは、全く……貴方は私を驚かすことが、三度の飯よりお好きですからな」
「否定はしないけどね」
せっかく立ち直ったパンセリノスが、冗談にして全てを流そうとするも、上手くはいかなかった。
男はむきになって否定をしたり、強く反論したりすることもなく、ただ悠然と笑みを浮かべている。触れる体には強ばりも、緊張も感じられない。
それが稚児を見る祖父のような、余裕の現れに見えて、ノイは背中がぞくりとした。
誰がどう見ても、祖父の立場に近いのは、パンセリノスの方である。
長い年月で刻まれてきた皺に、立派な髭。上質な外套は、針一針丹精込めて刺繍を施されている。鷹揚な話し方一つとっても、この老人が高貴な者であることは、初対面のノイですらわかった。
年齢的にも、立場的にも、上に立つのは老人であって然るべきなのに、この小さな部屋の中では、全くそうは見えなかった。
「貴方をそこまで追い詰めてしまっていたとは――どうぞお許しを。これも、貴方の幸福を願う一念でございました」
立ち上がったパンセリノスの後ろに、釣書の山が見えた。ノイはようやく、状況が読み込めてきた。
(ここは、この男の家なんだな)
客としてやってきたパンセリノスに、山ほどの見合いを進められることがわかっていた男が、庭で時間を潰していた。そこでノイと出会い、見合いを断るのに丁度いい駒とばかりに、ノイを掴まえたのだ。
エスリア王国は一夫一妻制で、夫婦の絆は強い。結婚をしてようやく一人前という風潮があり、ノイも王宮に勤めていた頃は、祖父や上司に散々勧められたものだ。フェンガローに相談した瞬間ピタリと止んだが、善意から来るお節介ほど面倒なことはない。
「全ては私の過ち。従って、この婚約は破棄なされ――」
「ははは、しない」
「これほど若い娘まで引きずり出して来て、何をおっしゃっているんです!」
(わかいむすめ?)
ノイは首を傾げた。ノイは今年で二十六歳になる。
行き遅れと反対されることはあっても、結婚相手として紹介される際、「娘」にわざわざ「若い」を付けられることはないに違いない。
この場で「若い」と言えるのは、冷めた目で男を見ている少年くらいなものだろう。
「ひとまず――本日はこれで。もし真に結婚を望むのであれば、慣例に則り、城にて婚約披露宴を執り行っていただく。しきたりを欠くことにならば、私は承諾致しかねますよ」
疑問を抱えるノイを横目に、パンセリノスが屋敷を後にした。
後に残されたのは、笑顔を絶やさぬ不審な男と、その男に抱えられたノイと、その二人をじっとりとした目で見ている少年のみだった。
少年はくすんだ金髪に、濃い藍色の目をしていた。すらりとしていて、中性的な美青年だ。二十歳にまでは、まだなっていないだろう。男性用の装いをしていても、女性にも見える中性的な美しさを持っていた。
(気まずい)
ひとまず、下ろしてもらえないだろうか。ノイはちらりと男を見た。ノイから視線を向けられたことにすぐに気付いた男は、にこーと笑う。
不思議な色気を携える美貌の男が、邪気のない笑みを象る。
(美しい――が、怪しい)
表情だけで言えば、可愛らしい笑顔の作り方だ。しかし、これほど堂々とした大人の男が浮かべると、どこか底知れぬ違和感が拭えなかった。
たかだか四人しかいない空間ではあったが、彼はこの場の中心にいて然るべき存在であった。それはきっと、千人が詰め寄る会場であっても同じであろう。ゆったりと寛いでいるようでいて、堂々とした雰囲気。身を震わすほどの美しさの下には、ちらりと鋭い機知が覗く。緩やかに背中に流された髪は、不作法に見えて、完璧を作り出している。
どこにも隙が見えなかった。薄ら寒くなったノイは、自然と口を開いていた。
「そろそ――」
「先生」
(ろ下ろしてもらいたいのだが)
成人女性一人を軽々と抱き続ける男に声をかけようとしたノイは、少年の声により口を噤んだ。その声は、冷静を取り繕おうとしているものの、怒気を孕んでいたからである。
「誰ですか? その娘は。まさか、ここまで一人で?」
怒りの矛先はなんと自分だったらしい。ノイは口を閉ざした。
「何か良からぬことを企んでいるんじゃ――」
少年は眉根を寄せ、殺気を引き絞った。
悲しいことにノイは、生まれ持った膨大な魔力のせいで、出会い頭に悪意をぶつけられることに慣れていた。更に、口を開けば火に油を注ぐことになると理解しているため、彼が落ち着くまで静止する構えをとる。
しかし、ノイを抱えた男が厳しい顔をした。
「止めなさい」
それは静かだが、強い言葉だった。
少年はすぐに恥じ入ったように「すみませんでした」と男に返す。
「それでも――腕からは降ろすべきかと。子どもだからとて、看過出来ません」
「君は頑なだね」
「当然です。貴方はヒュエトス魔法伯爵なのですよ。その腕に抱かれるのは、それ相応の者でなければ」
「それ相応の者じゃないか、オルニス。この子は、俺の嫁だよ?」
「ですから――」
オルニスと呼ばれた少年は頭を抱える。ノイを抱えている男は、どうやら貴族だったようだ。ヒュエトス魔法伯爵。ノイは聞いたことがない爵位だが、いつの間にか都の方で新設されていたのだろう。
(一体、何なんだ……)
先ほど目が覚めてからずっと、何が起きているのかわからない。
(知らない場所に、知らない人達)
まるで、夢でも見ているのようだった。本来ならば、目が覚めてすぐに朝ご飯の用意をして――いいや、それはもう、弟子である――
(――ッカルディア!)
ノイははっとして目を見開いた。こんなところで、のんきな見合いに付き合っている暇はない。
「っ、すまない! 下ろしてくれ!」
カルディアの中に長年眠っていた、魔王が孵化した。
それを決死の思いで止め、その結果――ノイは死んだ。
(死んだと、思っていたのに)
死んでいなかった。もしくは、ここは死後の世界なのだろうか。
どちらにしろ、カルディアが気になった。星詠みの魔法使いの予言通り、魔王は討ち滅ぼせたのだろうか。
(あの子は、無事だろうか)
ジタバタとするノイを、黒髪の男――ヒュエトス魔法伯爵はゆっくりと床に下ろした。地面に足を着けたノイは、思わずこけてしまった。立つ時のバランスが取れなかったのだ。
(え?)
立つ時の体の感覚が、何か違う気がした。だが、それが何故かがわからない。
ノイがふと隣を見ると、床に立て掛けてあった大きな姿見が目に入った。
(な……な――?!)
鏡の中の自分が、目を見開く。
(なんで――若返ってるんだ!?)
よく磨かれた鏡の中には――少女時代の自分がいた。