10:どうか、神様
山の急な斜面に敷き詰められた真っ白な雪が、カルディアをどんどん下へと連れて行く。
魔法を振るうためノイが指を曲げる。
しかし魔法は、すぐには発動しない。魔法陣を編む必要があるため、どんな魔法であれ、初動に時間がかかるのだ。
ノイは多少荒くとも、最速で魔法陣を編んだ。
カルディアの体を受け止めるため、雪が盛り上がる。しかし、雪が盛り上がった頃には、カルディアの体は更に下まで転がっていた。動いている対象物の流れと速度を読む力は、国一番の魔法使いといえども鍛えていなかった。
ノイが次々に繰り出す雪の壁はどれも間に合わず、ついにカルディアは斜面の下の木にぶつかった。
背を幹に当てたカルディアはぐったりとしている。遠目から見ても、失神しているのは明らかだった。
「うわああ……!!」
走るノイは悲鳴を上げた。カルディアの腹部から、赤い血が白い雪に染み出していたからだ。運悪く、とんがった木の根に突き刺さったのかもしれない。
「カルディア!」
魔法は、魔力を持つ人の体には効かない。
魔法は人を癒やすことが出来ないのだ。
ノイが絶望にも似た声を上げる。今から何をすればいいのか、必死に考えていた。
(落ち着け――まずは止血。その後、カルディアの状態を確認して、ソリに乗せて医者に……)
転がるように走りながらノイが斜面を下っていると、耳の中で空気が膨れ上がるような、奇妙な音がした。
――ボワンッ
不気味な音だ。その音は土地全体を揺らし始める。
木々が、大地が、空気が、震える。
地響きが轟くと、鳥が一斉に木から飛び立った。山に住む獣たちの悲鳴にも似た鳴き声が連鎖し、木々の隙間から響き渡る。
全身に鳥肌が立つ。
鮮血を流すカルディアの腹部から、黒く大きな歪みが生まれていた。
その歪みは周囲の物を巻き込むようにして、勢いを増す。徐々に、激しく、緩やかに、深く穿つ。
荒れ狂う風と、漆黒の暗闇がカルディアの腹部を中心に渦を巻く。
暴風が吹き荒れる中、ノイは風に飛ばされないよう腰を落とすと、砂塵に目を眩ませながらも、懸命にカルディアを見つめた。
「――カルディア!」
震えが走るほどの凶暴な魔力が、ノイを襲う。
脳よりも早く、ひりつく肌が魔王だと理解した。
その瞬間、ノイは両手を突き出していた。目にも留まらぬ速さで、指を動かす。
カルディアの体の真ん中に突如生まれたのは、禍々しい波動を放つ黒い虚空だった。一点から飛び出した黒い靄は、まるで生き物のように蠢き、瞬時にカルディアを包み込む。
その靄は、カルディアの体を黒く変色させていた。虫の殻のような固い物質が、パキパキと音を立ててカルディアの肌を覆い始める。それは既に顔にまで迫っていた。
雪道を転がり、気を失っていたカルディアの顔に怯えが走る。目を覚ましたのだ。恐怖に歪む顔を見て、ノイは目を眇めた。
「お、師――ッ」
溺れるような声でカルディアがノイを呼んだ。
「大丈夫だ!」
ノイは魔法陣を編む指を止めることなく、カルディアに微笑みかけた。
「私が、必ず助ける」
だが、その声はカルディアにまで届かなかった。カルディアの顔はその時にはもう全て、黒い殻に顔まで覆われていたのだ。
カルディアの体を乗っ取った、カルディアではない存在――魔王が、誕生した。
雷鳴が轟く。閃光が走り、火花が舞った。
刹那、魔王の体から闇が生み出された。どろりと、空間の重力さえねじ曲げんとする異様な闇は、這いずりながら空へと渡った。驚くほど緩慢に、けれど息を呑むほど急速に、世界が闇に覆われていく。
見渡す限りの空が、影さえ生み出さないほどの闇黒に包まれ、空から太陽が消える。
空も、森も、海も、大地も、全てが悲鳴を上げていた。
堪らず、身を震わせた。己よりも大きな魔力を持つ存在を、ノイは生まれて初めて見たのだ。
魔王の邪悪な魔力が、カルディアの魔力を何倍にも増幅させている。
「――待っていたぞ、魔王」
しかしノイは、震えを押し殺し、真っ向から魔王を見据えた。
生まれたばかりの魔王は魔力の撚り方も知らないのか、衝動のままに魔力を放つ。
暴風に煽られる。
巨大な魔力がぶつかり合った衝撃で、凄まじい突風が巻き起こった。パキパキと音を立てて大地から木の根が剥がれる音がした。大地がそげ落ち、山が割れる。
ノイは咄嗟に近くにあった木に隠れた。髪は風で乱れ、服がはためく。爆発で千切られた枝がそこら中で旋回していた。
「魔法陣もろくに編めないくせにっ――!」
魔王が放った非常識な魔力は、ただの魔力の塊だ。
魔法ですらないというのに、その威力は凄まじく、ノイの体は風に煽られた。
「ガアア、アアアアッーーーーッ!!」
魔王が産声を上げる。
(あと少し――! あと少しなんだ!)
ノイは震える指先で、魔法陣を編み続ける。
(私の命が、終わってもいい――)
必死に祈る。
(……だから、どうかあの子が)
魔力を注ぎすぎているためか、体中から力が抜け、ノイの意識は混濁していっていた。
視界が霞む。魔王の悲鳴がどんどんと遠のいていく。ノイが広げた指には既に感覚はなく、ただただ、彼女が何百、何千、何万と行使した魔法の記憶だけを頼りに、手を動かしていた。
『お師様と同じ、魔法使いがよかったっ!』
最後に思い浮かべたのは、愛しい弟子の泣き顔だった。
ノイの指先が、伸びる。
彼女の頭上には、常人ではとても編めないほど巨大な魔法陣が浮かんでいた。
魔王を消滅させるためだけの――強大な浄化魔法。
その魔法陣は、ノイが手を一振りすると、邪悪な魔力を放ち続ける魔王に襲いかかった。
(――あの子が、魔法使いとして、笑って生きていける未来を)
次の瞬間、世界は白い閃光に包まれた。
魔法陣は大きく広がり、強烈な光を放ちながら、魔王を拘束する。光は絶えず広がり続け、その凄まじい光に魔王は溶けていった。
闇の隙間から、一筋の光が差す。
えぐり取られた大地を太陽が照らした。岩肌が覗く地に、一人の子どもが倒れ込みそうになるのを、翼を生やした獅子に乗って来た男が、転がるように駆け寄って受け止める。
世界が騒然とした。
その日、魔王と――国一番の魔法使いがこの世界から消失したからだ。
そうして、世界は救われた。
――百年の間は。