101 : 掴んだ手の先
――ガタガタンッ
大きな音に驚いたノイが慌てて振り返った。
カルディアは、またこけていた。壁にぶつかったせいで、壁に掛かっていた絵画が落ち、カルディアの頭に突き刺さっている。
「カ、カルディア!?」
ノイが駆け寄り、カルディアの頭に刺さっていた絵画を急いで避けた。
カルディアは顔の赤さを自覚して、己の両腕で顔を覆う。こんな顔、絶対にノイにだけは見られたくなかった。
(嘘だ、違う。俺が大切なのは、お師様だけで……)
ノイが、ノイ・ガレネーだったと知った時、カルディアは心の底から嬉しかった。
彼女が師匠だから惹かれたのだと、自分に免罪符を与えられた気分だったからだ。
けれど、本当はわかっていた。
ノイと過ごした日々は、師匠から与えられた温もりとは全く違う彩りに溢れていたことを。
(触れた指を……)
離さないで、と。自分からは言いたくなくて、けれど絶対に離してほしくなくて、まんじりともせずじっとしていたあの時間。
(恋ではないと、切り捨てた)
でもあんなもの――師匠と弟子の関係ではあり得ない。
(……じゃあ、あれは……)
顔を真っ赤にして眉根を寄せるカルディアの前で、ノイは少し困った顔をしつつも、しゃがんだ。そこで待つ気なのだろう。余裕の顔で。
それがまた、悔しくて、こんな感情、カルディアの知る「好き」の中には入っていなくて、更に眉根の皺を深める。
「失礼、どうか致しましたか?」
廊下の隅に座るカルディアとノイに、声をかけてくる人物がいた。王宮魔法使いとしてやってきていた、レプトだった。
「あぁ、すまない。気にしないでくれ」
蹲るカルディアの代わりにノイが立ち上がり、レプトに笑いかけた。
「しかし……」
「大丈夫。今、部屋に送るところだったんだ」
「ではお手伝いしましょう。男手があった方がいいでしょうから」
レプトの言葉を聞いた瞬間に、カルディアは立ち上がっていた。この男の手を借りるなんて、絶対に嫌だった。それに、ノイの前でこれ以上、情けない姿を見せたくない。
「ありがとう、でも結構だよ」
「そうですか……どうかお気を付けて」
レプトが控えめに告げる。カルディアはにこりと笑いながらも、内心で苛立っていた。この男、いつもノイの前でいい人アピールをしているようで、鼻につく。
立ち去ろうとしたカルディアの後ろで、レプトがノイを呼び止める。
「あっ――ノイ様」
「ん? なんだ?」
「ノイ様が王都行きを望まれていると、小耳に挟みました」
カルディアの足がぴたりと止まる。
(……俺以外の人間にも、話していたのか?)
数千もの針が一斉に心臓を刺したような痛みを感じる。
カルディアの沈痛な面持ちを見たノイが、慌ててレプトに言い訳をする。
「私でも王都で出来る仕事はあるだろうかと、代表殿に相談していただけだ」
「なるほど。でしたら是非、我が家にいらしてください」
カルディアは片方の眉を上げた。ここ最近知り合ったばかりの若造が、何を言っているのだと鼻で笑いたくなる。
(それにその話は昨日、決着がついた)
ノイはここを出て行かない約束をした。カルディアは賭けに勝っている。
すぐにノイは断るに違いない。そう思っていたのに――
「そうか……ありがとう。少し考えさせてほしい」
(……は?)
信じられない言葉を聞いたカルディアは、ノイの小さな体を凝視した。
「勿論です」
「どちらにせよ、近いうちにお邪魔することにはなると思う」
「家族一同、お待ちしております」
では、と頭を下げてレプトが食堂へと向かっていく。
その様子を呆然と見ていたカルディアを、ノイが振り返る。何事もないような顔でカルディアを見上げるノイに、怒りが膨れ上がった。
「……次は、あれだと?」
「え?」
「俺がノイの望む恋を差し出せないから、あいつに?」
カルディアが恋人にならずとも、ノイは他に恋人を作れる。
彼女はあの男にも、恋を望むのだろうか。特別な笑顔を浮かべ、特別な優しさで呼び――
(昨日のあんな特別な時間を、俺以外とも?)
怒りで目の前が滲みそうだった。これほど、ノイに――いや、人に腹を立てたことはない。
ぽかんとしていたノイは、目をつり上げる。
「人を尻軽のように言うな」
「考えると言ったじゃありませんか。どうしてすぐに断らなかったんですか。あんなことを言えば、男は期待しますよ」
歯を剥き出して怒るカルディアに、ノイはため息をついた。
「女だってな、そんな風に言われれば、期待する」
「なんですって?」
「――私はな! 急がないつもりだったんだ!」
ノイの叫び声に驚いて、カルディアは口を閉ざした。
カルディアが黙ったことに気付き、ノイは大きく息を吐いた。そして己を落ち着けるためか、しばし沈黙した後、ゆっくりと話す。
「――二人の道が違ってしまえば、いつかはそういう未来も来るかもしれない」
言葉の意味を理解したくなかった。拒絶の意思を伝えるように、全身の毛穴が逆立つ。
腸が煮えたくり、目の前がチカチカする。そこに立つのがノイでなければ、今頃魔法で吹き飛ばしていた。それほどに腹立たしく、そして、悲しかった。
拳を握りしめて、なんとか感情を落ち着かせる。
カルディアが持ち合わせる全ての理性と勇気を振り絞り、ぽつりと呟いた。
「……――嫌です」
言ってはいけない言葉だと、わかっていた。
カルディアはノイから何も奪わない。自由も、未来も。
けれども、剥き出しにされた生の感情は、ひどくいとけなかった。
いつもは上手く笑顔や沢山の言葉で覆い隠している本心を見せるのは、とても勇気が必要である。
けれどそれが、カルディアの心からの願いだった。
ノイはハッと息を呑んだ。そしてカルディアに近付いてくる。
一歩二歩、と近付くノイに恐れを成して、カルディアは後退した。しかしすぐに、廊下の壁に背が当たる。カルディアを追い詰めたノイは、カルディアを閉じ込めるように、両腕で抱き締めた。
小さな子どもの体だ。魔力だって使えない。跳ね退けようと思えば、簡単に出来た。
しかし、そんなこと出来るはずも無かった。
顔を赤くして、心臓を切なく震わせるカルディアは、突然のノイの抱擁に口をはくはくとさせることしか出来ない。
ノイはカルディアの胸の中で顔を上げると、彼の赤ら顔を見て、にっと笑った。目の端に、涙が滲んでいる。
「今はこれで、満足してやる」
私はお前の、お師匠様だからな。とノイは偉そうにため息を吐きながら言った。
「男はな、年を経ると自分の生き方を変えない。五十を過ぎると、奥方の言葉にだって耳を貸さなくなる。お前はその倍だ! 偏屈爺にも程がある」
「……へ、偏屈爺」
「だがな、私は寛容だ。こと、お前に対しては、よりな――カルディア」
「はい」
「抱っこ」
既に抱きついているノイが、不遜に言う。
カルディアは無言で迷った後、ノイの膝に手を入れて、片腕で抱いた。
「庭に連れて行ってくれ。朝食は諦めた」
「……ノイが?」
「誰のせいだと思ってるんだ」
ノイはカルディアの鼻をむぎゅっと摘まんだ。その遠慮の無さに、これまで急速に動き続けてきた心臓が、ほっと息をつく。カルディアは自然と笑みを零した。
腕にノイを抱えたまま、カルディアは足を進めた。
そして窓を開け、バルコニーに出ると、ノイを抱えたまま手すりを飛び越えて庭に出た。







