09:どうか、神様
――エスリア王国暦 382年 晩冬
雪が降っている。
大地は白銀に染まり、山には起伏に沿って雪が敷き詰められていた。背伸びをした針葉樹が白い帽子を被って連なり、木々の隙間から差し込む日に、銀世界が輝いていた。
山の上に建っているノイの家は、冬になればすぐに屋根に雪が積もる。しかし、幸いにしてこの指が生み出す魔法により、街の人間よりも快適な暮らしを送っているかもしれない。
「……様、お師様。グラタンが焼けましたよ」
ベッドの上に毛布と共に丸まっていたノイは、食べ物の名前を耳聡く聞きつけると、毛布からにゅっと顔を出す。目を瞑ったままくんくんと鼻を動かせば、濃厚なチーズの香りに釣られ、ふらふらとベッドから降りていた。
毛布に包まれたままテーブルへ近付くと、カルディアがすっと椅子を引く。ノイはじっくりと呟いた。
「幸せだ……」
「そうですね。大好きなグラタンです」
「私は幸せ者だあ……」
「はい」
「こんなに最高の弟子、本当に、幸せだあ」
「光栄です」
同じベッドで寝ていたはずの弟子が、朝早くに師匠を起こさないよう細心の注意を払ってベッドから抜け出し、師匠のために朝ご飯の用意までしてくれている。こんな幸福、あっていいのだろうか。
今も、カルディアがノイの髪を食事に邪魔にならないように縛ってくれている。無精故に勝手に伸びていた髪も、カルディアの手にかかれば芸術のように編み込まれ、左右対称の美しい髪型となる。
「罰が当たるに違いない……」
「滅多なことをおっしゃらないでください」
自分の分も用意している偉いカルディアが、椅子を引いて席に着く。
「いただきます」
「いただきます」
手を握り、額に合わせてそう言うと、二人は同時にスプーンを持った。
――カルディアを預かって二年。彼は八歳になっていた。
ずっと、弟子の面倒は師である自分が――と頑張っていたノイだったが、カルディアに「お師様もそうだったのですか?」と聞かれた瞬間に、固まってしまった。
そう、ノイが弟子の頃は、弟子である自分達が師匠の身の回りの世話をしていたのである!
そのことに気付いてから、ノイとカルディアの関係は変わった。カルディアが食事の用意し、風呂を沸かし、家の掃除をするようになった。
更に、ノイが調理していた頃は、蒸かし芋か茹で卵のローテーションだった食卓にも、今では様々な料理が並ぶ。
可愛いカルディアに世話をさせるのは気が引けるなどと思っていたが――丁度いい、と思うことにした。
(いずれ、私がいなくなったら――)
彼は一人で、生きていく術を覚えておく必要があった。ノイは魔法に限らず、自分の知っている知恵も惜しみなくカルディアに分け与えていった。
「昨晩も、遅くまで灯りがついていましたね」
「眠れなかったか? すまない」
「いえ……お体は、大事になさってください」
「何この弟子ぃ。労ってくれる……」
ノイは自分の師匠を労ったことなどあっただろうか。宿題の多さに嘆き、騒ぎ、逃げ回っていた覚えしかない。師匠が寝坊すれば、その分勉強時間が短くなってラッキー、くらいに思っていたものだ。というのに、自分の弟子ときたら、なんと健気なことか。
(――今夜からは、別室でするか……)
真顔になったノイは、スッと目を細めた。
カルディアにおやすみのキスをした後、夜遅くまでノイが熱中していたのは、魔法の開発だった。
――コンコン ココンコン
とろぉりチーズのグラタンに舌鼓を打っていると、窓から鳥が嘴でガラス戸を叩く音が聞こえた。カラフルな羽を持つ美しい鳥、符翼鳥だ。
指を振って窓を開け、せっかちな音頭で窓を叩いていた符翼鳥を窓から招き入れると、符翼鳥の羽に編まれていた魔法陣に魔力を注ぐ。
すると、符翼鳥がぐっと羽を伸ばした。両翼が綺麗に開ききった時、鳥の羽の模様が虫のようにぐにゃぐにゃと動き出す。その模様は、次第に文字になっていった。
「メッセージですか?」
「ふふ」
グラタンの横にあった手つかずのパンを取り、小さく千切って符翼鳥の口元へ持っていきながら、ノイは小さく笑った。
「へそを曲げていた朋輩が、ようやく機嫌を直したようでな。もしくは、勝手に送りつけたモノに怒っているのか――お、お前にプレゼントもあるらしい。楽しみにしておけ」
カルディアが不思議そうに首を傾げる。彼を預かっている間、ノイに仕事を任せたい人間は幾人か訪れたが、カルディアを訪ねてくる者はいなかったからだ。
「プレゼント、ですか?」
カルディアがぱちくりと瞬きをする。ノイがよくする仕草が、一緒に暮らす内に自然と移ってしまったらしい。
カルディアはあまり物を持ちたがらない。ノイがプレゼントしようとしても、遠慮のせいか辞退しようとする。無論、ノイは関係なく押し付けるのだが、いつか彼が喜ぶ物をプレゼントしたいとも思っていた。
(……どんぐりが一番、喜ぶのだろうが)
ある日、ノイが模様替えでもしようとクローゼットを動かしたら、大量のどんぐりが転がり出てきた。大切なものを隠しているのだろうと、ノイは気付かなかった振りをして、模様替えを諦めた。
ふふふと、笑みが漏れる。
この二年間、幸せでなかった日など一日もなかった。
魔法の研究をするだけだからと簡単に建てた山奥の小屋は、ノイが移り住んだ頃には考えられなかったほど、笑いに満ちていた。
魔王の研究に明け暮れているノイの手元を、幼い弟子はまだわからないだろうに覗き込んでは、魔法陣を理解しようと努めていた。
その研究が先日、一段落ついた。
――悪を滅す聖なる魔法、浄化魔法である。
この世界に、悪しき存在というものは存在しない。それぞれの生き物が、それぞれの目的のために魔力を使い、生きている。
だが、魔王は違う。
魔王は、闇を統べ、悪しき世へと世界を道連れにするために生まれる、邪悪の権化だ。
魔王についてわかっていることは少ない。
一つ、強大な魔力を持つこと。
一つ、宿った体を蝕み続けること。
一つ、宿主が死した後に孵ること。
そして最後に――取り付いた人間の魔力を何百、何千倍にも増幅させるということ。
そんな者を退治する魔法など、この世には存在しない。
要するに、魔王を滅ぼす者として予言されたノイが、自ら編み出さねばいけないのである。
魔の王である魔王には勿論、魔力が備わっていることだろう。魔法は、魔力に干渉出来ない。厳密に言えば、干渉を可能とした魔法使いは存在しなかった――これまでは。
しかしノイは、国一番の魔法使いである。
ノイは、ついに魔王を浄化する魔法陣を編み出した。
彼女の編み出す精密な陣に、彼女の持つ膨大な魔力の全てを注ぐことで、理論上、浄化を可能にした。
元々、ノイが山奥に引きこもっていたのは、魔力に干渉する魔法を研究するためだった。
フェンガローから勅命を受けたことにより、悪しき力の浄化にのみ焦点を当てることで、なんとか枠組みまでこぎ着けた。
二年の歳月をかけて生み出された浄化の魔法陣は、最終調整の最中である。
――星詠みの魔法使いに、ノイは全幅の信頼を置いていた。
つまり、ノイの考えは正しい。ノイが全力を尽くせば、魔王を滅すことは出来る。
そう。――ノイ自身の安否は、わからずとも。
「お師様?」
考え事をしていたノイは、カルディアに呼ばれてハッとする。
「あぁ、すまない」
(――願わずにはいられない。その日が、一日でも遅く、来ることを)
符翼鳥のために千切っていたパン屑は、もうテーブルの上に一つも残っていなかった。
「靴、随分と小さくなったんじゃないのか?」
朝の授業を終えたノイは、木の根元にしゃがみ込むカルディアを覗き込んだ。背を丸めて靴紐を結んでいたカルディアは、申し訳なさそうに俯く。
「まだ履けます」
「今度買いに行こう」
「でも、雪道を歩くのは嫌だと」
「なあに。ソリで行けばいい。氷で道を作るんだ。快適だぞ」
地面に氷を生やし、ソリが通るレールを伝って走るソリは猛スピードで山を駆け下りるのだ。スリリングでデンジャラスでアメイジングである。
想像がつかないのか、カルディアはキラキラとした目をしている。
師匠になって二年。ノイはこの目の意味を既に知っている。
「――今から行くか?」
「い、行きたい、です」
カルディアは、外の寒さで赤くなっている頬を更に赤く染め、こくんと頷いた。あまりの可愛さに、ぎゅっとノイが抱き締める。
こうして抱き締めるとよくわかる。カルディアはかなり大きくなっていた。ありがたいことに反抗期は来ていないため、ノイが抱き締めても嫌だと言われたことはないが、そろそろ気を付けてやらねばならないだろう。弟子の身の回りに気を配るのは、師匠の義務である。
(とはいえ、あとひと月――いや、半年はいいだろう)
抱き締めたカルディアの頭に、ぐりぐりと頬を押し付ける。カルディアは嫌がる素振りも見せず、僅かに微笑んでノイのしたいようにさせていた。
「よし! では行こう! さあ行こう!」
「あ、でも、確か人が――!」
街へ行く準備をするため、家に戻ろうとしたノイをカルディアが慌てて引き留めようとした瞬間、ずるりとカルディアが雪に足を滑らせる。
「っえ、あっ――!」
「カルディア――!?」
ノイが手を伸ばす。しかし、その時にはもうカルディアは地面を転がっていた。