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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編集

子犬の散歩

 先の戦いで偉大な功績を上げたエーテリエル家が私財のほんのひとつまみで買い上げた大量の獣人たちは、どれも美しく利口で、よく調教された大人しい気性から、領民の間では評判だった。勤勉な領主のエーテリエル子爵がでっぷりと膨らんだ腹を揺らして領地を闊歩するとき、片手にはいつもピンクいろの縄が握られていて、その先は奴隷の獣人たちの首に繋がれている。愚かな獣の遺伝子は、自然界には存在しないこのピンクという色を目にすると途端に頭が馬鹿になって、反抗する気が起きなくなる。ゆえに獣人を縛るのにはボロの麻縄で十分なのである。それらはわれわれと同じ生活を送りたがるが、人間のフリをし通すにはけだものの血があまりに濃いように思われる。このことを理解したければ、いかにも気高く聡明そうな獣人女の鼻に、またたびをあてがってみるといい。それが猫人種(ミーシェ)ならば、女はたちまち失禁して往路に膝をつくだろう。あるいはあなたがローブを目深にかぶった通行人を市場で見つけて、そいつから聖紅花(シーゼラシア)の香水でも隠し切れないような獣臭がしたらば、ぜひローブを脱がせてやるといい。獣の異質な耳や角が露わになるだろう。このように獣人は、獣のような人間というよりも、人間のような獣なのであって、すなわちわれわれの理性を純鈍石(アダステルダ)とすれば、獣人のそれはスライムのように踏みつければ容易く崩れてしまうものなのである。近年博愛の国王陛下が苦心の末ようやく議会の承認を得たなんとかいう団体の影響で、獣人をわれわれ人間と平等に見る向きが生まれてはいるものの、これは吹けば飛んでしまうシルフのごとき勢力である。当然エーテリエル家はかかる木っ端妖精を歯牙にもかけない。その証しに、かの子爵家の嫡男ヴェーデレイ・デーテリエル、すなわちヴェダが十三の誕生日に奴隷を欲しがった時、エーテリエル子爵は笑顔で幼い女の獣人奴隷を五匹ほど見繕ったのだった。ヴェダは無邪気な喜びと感謝を父に伝えてから、新しい奴隷一匹一匹に、頭を動かすのに少し窮屈なほど絢爛たる宝石のついた首輪を、自らの手で丁寧に嵌めていくのだった。この所有者にしか外すことのできない魔法のかかった首輪が、獣人奴隷の印である。

 その翌朝、ヴェダはお気に入りの真っ赤な貴族服に着替えると、狼の模様が描かれた金いろのカフスを揺らしながら、さっそく父から贈られた獣人たちを連れて領地を歩き始めた。ヴェダはもう自慢のおもちゃを領民に見せびらかしたくて仕方ないのだった。大通りに出るや否や、ヴェダは彼女たちに被せていたローブを大げさな手つきで取るのだった。鼠人種(ロイシェ)の丸っこい灰色の耳や、兎人種(ヴナーシェ)の縦長の白い耳が太陽の下に晒されると、彼女らはその暖かさにぴくぴくと耳を動かしてむずがった。獣人に特有のこの耳のおかしな反応が、とあるおおきな笑いを生んだ。快活な笑い声の主は露店の店主であった。木製の台には小奇麗なテーブルクロスが敷かれ、その上にリンゴやアレムやバナナなどの果物が山のように転がっている。狼人種(ヴォーシェ)の少女が、大柄でスキンヘッドの店主の持つリンゴに物乞いの目を向けたので、ヴェダは二度とそんな目つきをしてこの俺に恥をかかせるなと憤慨し、痛めつけてからリンゴを買い与えた。両手でそれを受け取った狼は、だんだんと腫れ始めた自身の頬のように赤い果実に齧りついた。所有者からのきつい躾けのことは忘れたと見える。

「羨ましい限りでございます、ヴェーデレイぼっちゃま! 領主様からの贈り物ですか? 上等なのばかり!」

 勇猛のエーテリエル、誠実のエーテリエル、あなたの隣人のエーテリエル家! 領民が領主の息子にこのような笑顔を向ける光景は、エーテリエル領の外ではまず見られない。

「この俺の奴隷なんだから当然だ、それとお前、ぼっちゃまはやめろ!」

 ヴェダは奴隷を褒められたので、本当は有頂天だった。果物の代金もふんだんに色をつけてやった。今にも踊り出したいのを理性で抑えて、代わりに戌人種(ハイシェ)の少女の頭を撫でるのだった。しっぽを揺らして喜ぶ彼女の栗色の毛並みがふさふさで心地よかったので、ヴェダがそのまま撫で続けていると、そのうちに少女は煩わしがって頭を揺らした。これがまた高貴なる子爵嫡男の逆鱗に触れたことは、もはや言うまでもないだろう。

 鼠人種(ロイシェ)の灰色の獣がココルドの実を食べ終えるのと同時に、ヴェダは剣と杖の意匠が施された冒険者ギルドの扉を開けたのだった。普段はなにかとヴェダの小柄をからかってくる冒険者たちに、今度は自慢してやろうというのだ。

 はたしてヴェダのこのひそかな復讐は成功した。アゴニスタアルやルビィなどの四大宝石を嵌めこんだ首輪の奴隷たちがヴェダの後ろについて回ると、ある者は粗野な歓声を上げ、ある者は面白おかしく罵倒し、ある者は性欲をたぎらせた目で恨めしがるのだった。彼らのこのヤジのすべてを、ヴェダは両手を広げて全身で浴びた。すっかり上機嫌のヴェダは木製の小さな椅子に足を組んで座り、

「よし、貴様ら、俺は後ほどギルドに20万エカテほど寄付しよう! つまりこれが、今日の貴様らの持ち合わせだ!」ギルド内が歓声で震えた。エーテリエル家が荒くれ者連中にも歓迎される秘訣である。

 ヴェダは自分がいくらも大きくなったような気がして、いかにも尊大そうに胸を張り、それほど広くないギルド内を端から端まで歩き回るのだった。ところどころにヒビの入った土壁を目の前にしたヴェダが、もう一周ほどしようかと思ってくるりと振り返ると、奴隷は四匹ほどしかついてきていない。ヴェダが目を離した隙に、奴隷が一匹いなくなっていた。

「あ~かわいい~、髪の毛ふさふさ、耳もふもふ~、ねえきみどこの子?」

 それだけでなにが起きたかは明白だった。ヴェダは怒りに狂って、声のした方に鋭い視線を飛ばした。ゆくりなく目にしたその少女に、ヴェダは怒鳴るでもなく言葉を失ってしまう。彼の奴隷を撫でていたのは、見間違いではなかった、あの万人の自由なる光、シャルルディア・ル・ディアラーツェ・ド・ローレンツィア公爵令嬢なのだった。美の女神アーティアランタの愛娘と名高い金色の髪の彼女は、子山羊のような脚を曲げて兎人種(ヴナーシェ)獣人の耳を撫でつけている。どういうわけかこのような場所におられたド・ローレンツィア公爵令嬢の装いは、ヴェダが舞踏会で見慣れたどのドレスとも異なる、ライトアーマーで守られた身軽な冒険者のそれなのだった。彼女はさらに、隣に一人の青年を連れていた。どこか薄ぼんやりとした青年はヴェダの奴隷に気付くと、不思議そうな表情でローレンツィア公爵令嬢に訊ねるのだった、

「シャル、この子はなんだ?」

「獣人奴隷だよ! ギドルテガドラゴンの討伐賞金もたっくさん手に入ったことだし、せっかくなら奴隷市場に寄ってく? ケモミミがかわいくてね、見るだけでも癒されるよ~」

「奴隷だって!?」

 突如頓狂な声を上げた青年は、よく見るとおかしな身なりであった。彼がこの国の生まれでないことは異質な黒髪黒目がなにより雄弁であり、身に着けているものと言えば檳榔子黒のローブ一枚きりである。テオロドルの黒雲のごとく冒険者がひしめくギルドのなかで、この青年だけが仲間外れだった。

「?? アオ、動物苦手なの?」

「ど、動物って……。いや、僕の元いた世界では、奴隷制度なんかとっくの昔に廃止されてるしな。現代人としては、やっぱり倫理的に見過ごせないというか」

「えぇ!? アオが生まれた世界には、奴隷制度がないの!? この国なんか、国王が二十年近く説得を続けてようやく議論の場に上がったくらいなのに……進んでるんだ」

「まあね。というか、僕から言わせればこの世界は文明レベルが低すぎるよ。魔法があるんだから僕の世界より発展しててもいいはずなのに……これじゃせいぜい中世ヨーロッパレベルだ」

「ふうん? よく分からないけど、アオは奴隷制度が嫌なんだ?」

「そうだね。できることなら、みんなに自由な暮らしをさせてあげたいかな。リンカーン大統領みたいに、奴隷解放宣言! なんて大それたことはできないけど……」

 アオと呼ばれた青年が地鳴りのような独り言を呟けば、ローレンツィア公爵令嬢は日盛りの太陽を思わせる笑顔を浮かべた。

「そっかそっか。アオ、やっぱり優しいんだね!」

「そんなことないよ。理想を語るだけなら、子供にだってできるんだから」

「もう、そうやってすぐに謙遜するのは、アオの悪い癖だよ?」

「自覚はしてるんだけどな……」

「自信持ちなよ! アオならできるって!」

「そうだな。そこまで言われたら、試してみないわけにはいかないな」

 二人のバカげたやりとりにヴェダはすっかり鼻白んでしまって、今すぐにでもここを後にしようと決めた、その時であった。

「《解呪(エンテ)》!」

 青年が聞き慣れない術を唱えると、世にも不思議なことが起こった。つまりヴェダの連れていた奴隷の首輪が、あっけなく外れてしまったのだった。これはありえないことだった、持ち主以外に取り外しのできる首輪に、いったいなんの価値があるだろう!

「すごいっ、すごいよアオ! 持主以外には絶対に外せない首輪なのに!」

 ヴェダの心中をそのまま復唱するローレンツィア公爵令嬢は、現実世界の親切な語り手だった。彼女の言葉のおかげでヴェダは、自分の足元に転がる首輪が夢幻の産物であると信じて目を閉じることをせずに済んだほどだ。

「ほら、これで君たちは今日から自由の身だぞ。もう酷い所有者に扱き使われる心配はないんだ」

 この時ヴェダの胸中を支配していたのは、またもや憤怒ではなかった。彼は眼前の異国の少年に、言い知れぬ恐怖を感じてすっかり震えあがっていた。この中肉中背の青年からはなにか、異国の文化に興味を抱き親しむ旅行者のそれというよりも、自国の文明でもって異国の未知を否定しあわよくば改めてやろうという侵略者の匂いがするのだった。この奇妙な異邦人の澄み渡る眼差しに、ヴェダは狂信者の性質を見いだした。ようするに彼は、自国の宗教の敬虔なる信徒に違いないのだった。落ち着きと狂気はいつだって紙一重だ。

「この稀代の盗っ人め!」ローレンツィア公爵令嬢の手前、ヴェダはこの言葉を苦い顔で吞み込んだ。この時ほど彼が、自らの人間という生まれに感謝したことはないだろう。もし彼が卑しい獣人であれば、あのけだものの狂暴さがどれほどの醜態を晒したか分からない。また他方には、こんな得体の知れない不気味な人間と関わっていたら、これまですべてが順風で、またこれからもそうであるはずの己の人生がめちゃくちゃになってしまうという怯えもあった。この二つの優秀な理性と本能が、所有物を失ったばかりの不幸なヴェーデレイ・デーテリエルに賢明な沈黙を与えるのだった。

 さて、解放された五匹の獣人奴隷は、サラマンダーのようにすばしっこい動きでギルドを抜け出した。自分たちの故郷がどこにあるとも知らずに。

「ありゃ、行っちゃったねー」

「やれやれ……僕が保護してあげてもよかったんだけど。あの子たち、大丈夫かな……」

 親切が自己満足でなくなったとき、それは責任となって自らに降りかかる。青年がまさにこの愛しい我が子に苦しめられようとしていることは誰の目にも明らかである、世界一愚かな当人だけがそれを知らない。それにしてもこの青年は幸福だ、彼の度を越した非常識は、自らが引き受けるべき当の責任の存在すらごまかしてしまう。こういう理屈から青年はすでに例の薄ぼんやりとした表情に戻って、おおきな善行をなした後にいちばん似合いの昼食の料理とはなんだろうかと、ローレンツィア公爵令嬢と語り合っているのだった。内省こそが人間の本質だとする哲学者たちの極端な考えは、たいてい彼のような者から触発されるのだ。そして、この幸せな簒奪者の笑顔を魂の抜けた心地でぼんやりと眺める者こそ、もはやギルドの誰からも気に留めてもらえなくなった憐れなヴェダなのだった。彼は最後まで反抗しなかった、それだけが自分を可哀想な被害者にしてくれることを知っていたからだ。もう察せられたことだろう、彼は心から貴族なのだ。

 不幸な子爵嫡男を中に残したまま冒険者ギルドの扉は閉じられ、奴隷の身分から自由となった獣人たちは彼に背を向けて駆けるのだった。まず五匹には群れの意識が芽生えつつあったので、雑踏のなかを競うように抜けた後でも、彼女らが離ればなれになることはなかった。また二つには、首輪のついていない獣人が一匹、人間社会で孤立したときどんな目に遭うか理解していたこともあった。これらが彼女たちの無法を押しとどめていたから、野蛮な強盗などは生まれなかった。獣人は世の人々が語るように、ほんの乳呑み児ほどもモノを考えられないわけでは、実はない。そのことを本当は誰もが知っているのは、われわれが本物の獣に対してはわざわざ「奴隷」などという身分を与えていないことからも明らかだ。われわれは、われわれの持たないものを持つ彼女たちを恐れている。

「足音が……」兎人種(ヴナーシェ)の少女が囁いた、「足音がやってくる!」やみくもに走っていた彼女たちに、この足音を撒くという目的ができた。ぴくぴくと動き、数百メートル先の蚊の羽音も聞き分ける彼女の純白の縦耳が、路地裏に入ったときには生え際から真っ二つに切断されていた。激痛に泣き叫ぶ少女の首を剣が貫き、彼女はこと切れた。昼間からギルドで酒を浴びていたならず者たちが足音の正体だった。身体能力に優れた獣人といえど、体術と魔法を頼りに日々を生きている者たちには敵わない。なによりまだ七、八才の少女たちだ! 気が付くと彼女ら四匹はうつ伏せに拘束されていたのだった。こうなると彼女たちは逆らえない――獣人にとって、体勢を崩され背中を晒すことはすなわち屈服を意味した。獣人に恥というものがあれば、この上さらに無意味な抵抗を続けることが唯一のそれであり、彼女たちは恥知らずではなかった。命がかかっているのだから、恥など捨てて逃げだせばよいと誰もが思う。この単純な理屈を理解しない獣に、われわれは首輪をつけたのだった。

 鮮やかな手際で四匹の奴隷を手にした三人の冒険者は、獣人の並外れたスタミナをあてにしていた。とにかく体力を使うクエストの労働力として使おうというのだった。昼過ぎ、彼らは獣人たちを連れ、街を出ると仕事にとりかかった。

「ぬか喜びさせやがって、逃亡奴隷の分際で!」

 彼女たちはことごとく失敗した。魔物の討伐ではとんだ足手まといを演じてくれたし、ピッケルで鉱石を傷つけてしまうので穴掘りも任せられない。薬草採取などもっての外だった、彼女たちの世界には、食べられる草とそうでない草の二種類しかなかった。彼らはいくら利発で優秀なエーテリエル家の奴隷といえど、所詮は自我の希薄な少女たちであることをようやく理解したのだった。

 彼らは考えた、ちょうど今日は簡単な依頼ばかりで退屈していたので、一つ催しがなければならないと。子鼠と子狼の首を掴んで両者を向かい合わせ、殺し合うよう命じた。これを三たび行えば、残った一匹は多少使い物になることを示せるという寸法だった。みっともなく暴れ出し、逃げ出そうとする二匹のしっぽを《焚火(グラ)》で燃やした。戦わねば《奔水(ロエ)》を唱えないと言いつければ、二匹は叫喚しながら決闘の場に立つのだった。ところで、誰がコボルトとドラゴンの戦いに興味を抱くだろう? 冒険者の指笛が響いてから三つも数えない間に、狼の牙が鼠の首筋を削り、鋼鉄の爪が無防備な腹を抉り、苦痛に悶えながら鼠人種(ロイシェ)の少女は絶命した。これに比べたら、その次に行われた戌人種(ハイシェ)羊人種(エンシェ)の決闘の方がまだ成り立っていた。なにせ子羊は十秒も生きた。これは荒くれ者たちを十分に楽しませた。

 こうして全身を赤い血に染めながら嗚咽を漏らす二匹が相対した。この狼と戌はエーテリエル子爵のもとで飼われていた頃から、よく毛繕いをし合い、食事も水浴びも睡眠も共にし、寒い日は身体を寄せ合った姉妹のようなのだった。戌人種(ハイシェ)は姉となにかを奪い合うなど考えるだけで悲しくなった、ましてや命なんて! しばらくしても二人が涙を流して俯いたままなので、冒険者たちはふたたび《焚火(グラ)》と唱えた。神経を焼く熱と痛みに戌人種の少女は跳び上がった。そうして人のように泣きながら姉に襲い掛かった。姉は妹の爪を避けなかった、ただ微笑をたもったまま大地に斃れるのだった。戌人種(ハイシェ)は自らのしでかした事態に気が狂ってしまった。あんなマッチの火の一つに身の毛もよだつ思いを抱き、恐怖が理性を上回った結果がこのざま……少女は生まれて初めて獣の血を呪うのだった、そしてもはや目の前の光景に耐えきれず、獣の雄叫びを上げながら四本足で逃げ出すのだった。背後から響く冒険者たちの感情的な怒鳴り声が、少女を怖がらせた。

 二週間後、戌の少女はあの路地裏で行き倒れていた。すでに兎人種(ヴナーシェ)の死骸は片付けられたあとで、そこにはなにもなかった。彼女は痣だらけの脚を伸ばして、薄汚れて乾燥した手で擦った目は、霞んでよく見えなかった。だから目の前で何者かがしゃがみ込んでいて、かなり前から自分に向けて何かを言っていることにも、彼女は気づかないのだった。それを最後に彼女は気を失った。

 目が覚めたときには、知らない家のベッドで寝かされていた。そしてこの家の主に促されるまま、自らの身の上を語っているのがすなわち現在のことであると、彼女は私に言うのだった。私は察するにあまりある者たちの心情に思いを馳せていた。

 すべての事情を聞いた私は、いかにも憐れで可哀想な彼女を、家族として迎え入れようと思った。すぐに町の医師を呼んで容態を診させた。軽度の神経と魔力の弱りであると診断されたので、私は彼女を連れて生活のための数々の調度品を買い集めた。新しい服を着せ、しっかりとした食事と、清潔な環境を用意した。首輪などはもちろんいらない、家族なのだから。はじめは私に、というよりも人間に怯えて、なににつけても震えていた彼女だったが、私が自分に危害を加えない存在であるとだんだんと理解してくると、私の懐に頭を擦りつけてくるようになった。また最近ではどこか眠たげな笑顔もよく見せるようになった。これがとても愛らしいのだった。自分の身の上話以外は何も語らなかったところから、ぽつりぽつりと日常の会話もしてくれるようになったのが、私にはなにより嬉しかった。

 それから少し経ったある日。少女と二人で近所を歩いていると、いつか少女のために呼んだ医師とばったり再会した。

「おお、あれからずっとお会いしたいと思っていました。というのも貴方、これが僕の記憶違いなら申し訳ないのですがね、そいつはひょっとしてエーテリエル子爵さまのところの奴隷ではありませんか?」

 その獣医師は、かわいらしいピンクのドレスで着飾った少女を指さして訝るのだった。

「奴隷だって!?」

 私は話に聞かされた異邦人を真似て言った。

「とんでもない、この子は先日、偶然道端で拾った野良ですよ。私のかわいい家族です」

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