めろんそーだ
もしこんなことが現実に起こったら貴方はどうします?
――少し切なくて、不思議な空間に迷われてはどうでしょう?
それは、まだ僕が高校生の頃、僕の初恋とも言える淡い片思いは、永遠となって今の今まで僕の記憶の中に潜んでいる。そう僕だけの中にしか存在しない、いや存在しなくなった、彼女。
まだ夏の暑さがわずかに残るこの秋、彼女はなんの前触れもなく、なんの遺言もなしに、一切の痕跡を残さず僕の世界から消えた。
一日目。七時
黄昏過ぎた夕刻、横を通り過ぎる公園に子供たち居らず、辺りの住宅からは良い匂いが漂ってくる、僕はそんな少し淋しく感じる下校道を二人で歩いていた。
その横を歩くのは「先輩」なんてことない、僕の一個上で、部活の優しい先輩で、僕の思いを寄せる人だ。そう、なんてことない、どこにでもあるような構図だ。
横を歩く先輩の顔をちらっと見る。
気持ちを押さえつける栓が抜けないよう気をきゅっと締める、油断したらそっと先輩の手でも握ろうとしてしまう、かもしれない。
「どうしたの?」
視線に気づいたのか、こちらを向いて微笑む。
「いや、なんでもないです」
焦って前を向く自分、もう情けなさ過ぎて涙がでてくる。気が抜けても手を握るぐらいしかできないということとか、最近じゃ長い時間先輩の目を見ることができない自分に……
「ふ~ん……それにしても、夕日綺麗だね」
どうでもよさそうに僕の話を切り上げると、もう沈み太陽の頭の部分しか見えないというのに、先輩は「綺麗だ」と言った。それが不思議でたまらない、有終の美だとでも言うのだろうか……僕には先輩の言う「綺麗」がわからなかった。
だけど、正直にわからない、と言うわけにもいかず。
「ですね……」
と簡潔に答えた。
歩く人は疎らで、時々僕らの横を通り過ぎて振り返る人や、少し疲れた顔のサラリーマンが通るぐらい、もうこの日も終わりに近づいている証拠だ。
歩いて数分、突然、彼女は僕の横から真正面へと立って振り向くと、ほんのり残った日の光を背に彼女は僕にこう言った。
「また明日、会えるといいね」
そう毎日の終わりに告げる彼女の顔は、最初こそおかしく思っていたが、今では慣れたものだった。
「そうですね、また明日……」
軽く手を振って、太陽が沈む方角へ進む先輩、ゆっくりゆらゆらと踊るように歩く先輩をしばらく見届けた後、今日も楽しかった、と追いかけたい気持ちを消し去るための言葉を無理やり吐き出して、帰路に入った。
そして、色々と脳内妄想走る中、無事に自宅へと帰還したのが午後七時半、普通なら十分とも掛からない道のはずなのに……いい加減重症すぎる自分に軽い危機感を覚える。
「明日はがんばろう、明日は…」
そう言って布団にもぐりこむのも、最早習慣になりつつあった。
二日目。午前十一時。
今の現状に甘えているわけじゃない、むしろどうにかしようと足掻いているつもり。そのつもり、だが現実はそうそう変えられるものじゃなくて、今日という一日の中、しかもその中の限られた時間、限られた瞬間瞬間にしか会えない人相手に、どうやってこの現状を打破しろというんだろうか。もちろんそれは勉強のことにしろ、運動のことにしろ、恋愛のことにしたって同じだ。瞬間で決まる人生というのはなかなか納得できないものが多々ある。
目の前に広がる無限という白い宇宙、その立てかけられた無限に僕は筆を下ろそうか、先に鉛筆の黒い粉を塗そうか迷っていた。むしろ何を描こうか迷っていた。
もちろん、心境や精神、脳内電磁波の間に生まれた、未知なる世界を描くというのも面白いことじゃないだろうか? だけど、なぜだろうか、今はそれらの類を描く気にはなれない。どうして? わからない、絵描きというのは気まぐれで偏屈で、常識知らず、というのが僕の中での持論だ。
だけど、その気まぐれで偏屈で常識知らず、が僕にぴったり当てはまっているか、というとそうでもない、ある程度の協調性だってあるし、偏屈というほど性根は腐っていない、いや偏屈イコール腐っている、という方程式はどうにかしたほうがいいかな、ともあれ、常識知らず、という点は間違いなくアウトコースだ、しかもキャッチャーが立って向かいのバッターボックスの後ろに立つほどのだ。
横の机に筆と鉛筆、それと木炭を並べる。その前で腕組みをしながらクルクルと稼動式タイプの椅子で回っている僕は、何者? いいえただの人間です。
鉛筆や木炭を使い繊細なタッチな絵を描くか、もうまちきれない! と言って絵の具をビッっと出して思い描くままに描くか、実際僕は美術部員でもないくせに、そんな「素人の癖に」と言われんばかりのことを悩んでいる。
美術部員じゃないからと言って、絵が描けないわけはない。むしろ僕の部活の中じゃ普通に上手なほうで、でその部活というのが通称図書部、正式名称で言えば「文芸部」なわけで……はっきり言うと僕がこうして、周囲の正規美術部員の目を真っ向に受けつつ、試行錯誤している姿は、あまりにも酷い、それに加え、図書部の部員は僕と先輩と幽霊部員多数というだけだ。しかもその幽霊部員の方々はいずれも先輩のみで、入部して半年は経とうというのにいまだに一回も、一人の顔も拝めていないのだ。まぁ僕には先輩だけで十分なんだけど……
話を戻そう。
なぜそんな図書部の僕がこんなところに居るのかという話……単刀直入に言うと、図書部(図書室)に飾る絵が欲しい、という図書室の先生の要望を、先輩が聞き入れて、自分で欠けないものだから、少しでも絵のうまい僕にサラッと言い渡したのが原因だ。
別、他人にこき使われるのがなれているというわけでもないけど、先輩の頼みごととあれば断る道理がどこにあるだろう? たとえ昼休みを潰してでも仕上げるという意気込みをしている時点で、僕は立派じゃないかな。
お題はなんでもいい、らしい、ただ無機質な図書室を彩る素材が欲しいだけらしい、なんとも無意味に感じるけれど、これを仕上げれば先輩の笑顔を見れる、という約束も根拠もない、土台に支えられて……僕は、がんばっている。
「やぁ、調子はどうだい……って、見たほうがはやかったね」
一人、僕の後ろに立って苦笑いする少年。それにくるっと回って答える。
「むしろ描いてくれたほうが、早い気がする」
「それじゃあ意味がないだろ? 色々と…」
ぐっ、と息を詰まらせる。この人は唯一僕の密かな恋心を知っている人間で、もうどうやって知ったかなんて覚えていないけれど、今こうやって美術室の一角と画材を貸してもらっている、もちろんほかの部員の許可はさほど得てはいないらしい。まぁそういう仲。
「いや、そうだけど…やっぱり、いきなり絵を描けって言われても、君みたいにしょっちゅう絵の具の匂いを嗅いでるわけじゃないのに、描けないさ」
「誤解を受けるようなこというね、逆に嗅がないほうが発案するよ」
ははは、と笑う、もうこんな毒舌な会話も慣れたものらしく、最初の頃のように鋭い突っ込みを入れてはこなくなった。それはそれで淋しい気もするが。
クルクルと机を押した反動で回る、そうでもしなければこのムシャクシャした気持ちは抑えれない、いやもうむしろ少しづつ外に出かけている。
「ふぅ、でも、僕は一切手伝わないからね、これは君が先輩の信頼と好感をもらえるかどうかの、試練っぽいのなんだから」
自分で言って恥ずかしそうに笑うのはやめて欲しい、こっちはそれを実行する側なんだから。
「ごめんごめん、でもがんばって、応援しているよ」
と言って、彼は彼自身描きかけの絵の制作に戻っていった。
「がんばれと言われても……なぁ」
今の僕に目の前のキャンパスはそれこそ、無限大の宇宙に見えた。
それから、数分考えた後、画材を友人に返し、昼ごはんをクラスメイトと食べるため教室へ急いだ。
やがて、今日の授業が終わり、放課後の図書室。
退屈な日、退屈な授業、ちっともためになりそうもない事ばかり、うだうだうだうだ……ずっと続ける。もしこの世の中が一週間というサイクルのみで行われていたら、僕は退屈すぎて死んでしまいそうだ。
日曜に終わり、リセットされ、また新しい……いや、前と同じ行事をただ繰り返す、そんな世界なのだろうか、継続は力なり、とよく聞くけれど、無意味なことの繰り返しに力なんてあるんだろうか? 僕にはそれがわからない、何が力で、何が無意味なのかが――
「なに、してるの?」
「ふぁっ!?」
図書室の奥にある書庫の椅子に腰掛けていた僕、その頬に言葉と同時に何か冷たいものがあたり、奇妙な声をあげてしまった。
正体は先輩と、缶ジュース(メロンソーダ味)で、僕は先輩の侵入に気づかないぐらい、黙想(居眠り)をしていたみたいだった。
「起こしてごめんね、それで……先輩に隠れて何をやっていたのかなぁ?」
僕の向かいに座り、目の前の机に缶を置く先輩。僕はバッとノートに書いていた下書きを閉じた。
「ふ~ん、ふ~ん、ふ~ん、先輩には見せられないのかなぁ? いったい君のノートにはどんな秘密があるのかな~、私、知的好奇心を抑えきれないな……もちろん、見せてくれるよね?」
ゆっくりと手を僕のノートへ伸ばす。だけど、僕としてはこの「秘密ノート」に書き綴った先輩への、あれやこれや、を見られるわけにはいかない、いやむしろ簡単に取られては面白くない。
すっ、と先輩の手が届きそうなところで左右にずらす。
「ん? 反抗期? 先輩に見せないなんて禁止行為になるよ、いいのかなぁ? 図書館法第九条により……」
「それより先輩、ここ飲食物持ち込み禁止、ですよね、特にこの書庫には……あっ! 僕ちょうど図書室の方に用事が……」
「わっわかった! わかった! ストップストップ! 私ね、これを一日一本飲まないと生きていけないの、わかるよね? それと、本を読めない立場になると、すっごく苦しくなって、イライラしたりするの……だからお願い、それだけは」
書庫を出て行こうとする僕の目の前に急いで回りこみ、立ちはだかる先輩、いや、立ちはだかるというのは絶対的にさえぎる側が有利な場合だけ、だよね。しかもイライラするって禁煙しているヘビースモカーみたいだ。
「先輩……」
「……なに?」
なに? という発音がやけに可愛くて、もう抱きしめたくなるぐらいの衝動を抑えつつ、冷静に、冷静に土下座までする先輩の前で屈んで。
「トイレです、退いてください、先輩」
やんわりと笑って、今にも泣き出しそうな先輩を見つめた。最大五秒が限界。
「あ、ありがとう」
正座をしたまま横にずれる先輩。この先輩は本のことに関すると本当に泣き出してしまう、それが原因で一度先生が鬼のようになって、小一時間廊下の冷たい床に正座をさせられた記憶が、まだ新しい。
「嘘ですよ、先輩。僕がそんなことするわけないじゃないですか……もちろん、この前読んで影響されたのか、古本見つけて唾を飲み込んだ後、徐にページを破ろうとしたことや、この書庫の窓を禁止なはずなのに、毎日開けっ放しで帰り、いっつも僕が閉めていることを、言おうとしたわけじゃありませんよ? そんなことするはずないじゃないですか、ネ?」
にっこりと笑って、先輩の肩にポンと手を乗せる。
「目が、目が笑ってないわ……鬼、悪魔ぁ、そんなに先輩いじめが楽しいかぁ…うぅ」
じわじわと目に溜まる水溜り。そろそろやめないと本当に泣き出してしまう、ここらが潮時だろうと感じ、立ち上がって机に置いてあった缶(メロンソーダ味)とハンカチを先輩の目の前に差し出した。
先輩はそれらを、特に缶の方を引っ手繰ると、僕に背を向けてごそごそとしていた。
「先輩…鼻水は拭かないでくださいね」
「なっ! そんなことするわけ、ない、でしょ、うん……洗って返す、ね」
振り返り、いびつな笑顔で答える先輩、まぁ、不自然だけど笑顔も見れたし、色んな意味でよしとしよう。
ひょいと視線をずらす、たとえどんな顔をしようが好きなものは好きなんだ、仕方ない……でも今のはちょっとだけがんばったほうかもしれない、なにしろ最大秒数を一秒も更新したのだから。
しばらく、先輩は少し赤くなった目元を気にしながら、再び向かい合う形で机を挟んで椅子に座った。
すでに、時は夕刻、夏ほど太陽が見える時間が少なくなってきて、あの夏の風物詩でも煩い昆虫も、コンクリートを焦がすような熱も、まるで風でも通り過ぎたかのように、何事もなく去っていった。
「そろそろ、月見の季節ね」
カーテンを開けた先に月はないけれど、先輩はまるで幻ででも見ているかのようにつぶやいた。
「そうですね、夜長の秋ですからね、一層に綺麗に輝きますよ、後鈴虫とか」
同じ明後日の方向を向いて僕もつぶやいた。が。
「違うわ、月見といったら、お団子でしょ!」
ありきたりなことを言う。どうせ「花より団子ですか」なんて、お決まりの言葉を聴きたいのだろう、そうはいかない。
「先輩は、団子の中でどれが好きですか? 僕はやっぱり御手洗がいいですね」
あの口の中でとろりととろける感触、甘い甘い味が味覚を一瞬にして甘党へと変身させる、そして食べた後に飲む熱い日本茶が、またなんとも……
「私は、やっぱり赤いドレスを身にまとい、カスタネットを叩きながら、オ・レとか言うのがいいわ」
「それは、花より団子じゃなくて、花よりタンゴになりますよ! しかもオ・レとか言うのはフラメンコですからね!」
言った瞬間「しまった」と後悔した。いつもはここから先輩のボケのオンパレードが始まり、中途半端に突っ込みを入れるのが嫌いな僕は、疲れるプラス先輩を満足させるまで、付き合わされるのだ。
が、今日の先輩はちょっとおかしかった。
「…………」
僕は先輩のボケを待ち構えているのに、一向に次の言葉が返ってこない。どうしたものかと先輩の顔を見ると、その表情はどこか打つ向き気味で、夕闇迫る空をじーっと見つめていた。
「先輩?」
心配そうにたずねる僕に、先輩はしばらく返事を返さなかった。
今先輩が何を考えているのか、僕にはわからない、わかるとすれば何かに悩んでいるということだけで、その内容も意味も、てんでわかりはしない。
壁に掛けられた古い時計が、永遠の五時四十六分三十五秒と三十六秒の間をカチカチと、動いている。その音だけが、今僕ら二人のこの空間に流れていた。
沈む夕日、今僕たちの部屋の位置からではその光景は見とれないが、徐々に夕闇が迫るので、それがわかる。携帯を持っていない僕らの唯一時間を知る術だ。
「……先輩、何か悩みでもあるんですか? 話せる内容でしたら、僕が相談に、のりますよ?」
重い空気の中僕は意を決して言葉を発した。
まるで無視されているかのような間、いや間だから無視されているわけじゃない、そう思いたい、ただ先輩は言葉を選んでいるだけだ、そう僕にどのように詳しい内容を教えずに簡潔な答えを選ばせる、選択肢を……
やがて、先輩はその重たい口を開いた。
「ねぇ、もし……いままで探してきた新しいことをするためには、大切なものたちをすべて捨ててしまうことになったら、後輩君、君はどうする?」
窓の外を見つめる先輩に次の言葉を話す気配はなく、僕に与えられた選択しは、二つしかなかった、いやむしろ二つもあったことを喜ぶべきなんだろうか?
答えを思い浮かべる前に、僕はどうしても内容が知りたかった。知るべきではないと思っていても、それこそ知的好奇心が、僕の中に疼く恋心が、話してくれないという嫉妬や、ジレンマとなって湧き上がってくる。
「詳しい内容は…話せないんですね」
その言葉に先輩はゆっくりと頷いた。そこで僕は情けないけど諦めた。心に疼く嫉妬とかそういうのは醜い、それに無理やり先輩の心の中に入り込んでも駄目なんだ。
それから、再び考える、もう内容のことに関することじゃなく、ただ先輩に求められた二つの答えを、真剣に真剣に、先輩のためになるように考えた。
「僕、だったら………捨てます」
その「捨てます」は、僕にとって、新しいものが先輩であり、大切なものというのが家族だったり、幾人かの友人だったり……そう僕にとってはそういう意味だった。
「そう…………わかったわ、ありがとう、これで決心がついたわ、これも…後輩君、君のおかげね」
先輩が悲しげな笑顔で僕に語りかけた。その瞬間に僕はとてつもない間違いを犯したんじゃないかと、漠然としたこの重い空気の中でそれを感じ取った。
「いえ……」
ほめられたのにうれしくはなかった、それは複雑な気持ちのせいで、正しいか正しくないかなんてわりもしないことを、永遠とエンドレスに思考を活動させているせいだ。
メビウスのリングが永遠と回るように、僕の頭のなかでは、後悔と正しいことをした、という、大雑把に言えば「罪」の意識が回っていた。
「あっ、そういえば、あれ、できた? 私が頼んだ絵」
「えっと、まだちょっと時間がかかりそう。ですね」
とりあえずの深呼吸、そして決着のつかないまま、僕は問題を頭の隅っこに追いやった。
「あれさ、もしできるのなら急いで、もらえるかな?」
恥ずかしそうに言う、その姿はとても可愛いが、どうにもこうにもしっくりこない。
「はぁ……いいですけど、わかりませんよ、そんなの……でも、まぁ先輩の頼みごとじゃ、裏切るわけにはいきませんね」
「そうそう、その心意気が大事なのよ……さっ、そろそろ帰ろっか」
そう言って先輩は席から立ち上がった。下を向き前髪で表情を隠すように――
僕はそれに気づかない、いまだ胸に残るもやもやを残しつつ昨日と同じように、帰路についた。
同日。午後六時。
帰りの道、だんだん沈むのが早くなる太陽、巣に帰るカラス、毎日同じ道、同じ景色、色、形、そしていまだ重たい空気の僕ら。
このままじゃ家に帰ってもすっきりしない、いや帰ってしまったら逆にムシャクシャしてしまうだろう、どうしたらいい? 直接たずねる? やっぱり詳しい内容が知りたいです、って、でもそれで断られたらどうする? 尚更気まずい雰囲気を作り出すだけじゃないか、それでも確かめないと気が治まらなかった。だから、ただ自己の欲求を晴らすため、ただそれだけのために、僕は……。
「先輩、先輩は……」
数秒迷う、ぐるぐると回る「罪」の意識。
不可侵の領域へ足を踏み入れた後、僕はどうする? 犯した罪の重さにただ膝を抱えて幾千という時を数えるのか、深い深い海の底に沈み、ただ日が差し込むのを待ちわびるのか、それとも、地を這ってでも、たとえ足が壊れていようとも、首だけになろうともまっすぐ進むのだろうか。
カラスの鳴き声が僕をせかす、いや今聞こえるすべてのものが僕を急かしている
ようだった。
聞くか、否か。いや後悔するかしないかだ。
「なに?」
「パフェ、食べたくないですか?」
今自分の中に居る、見えない自分がため息をついた。
突然の言葉に先輩は呆然としていた。当たり前だ僕だって急に言われたらこんな反応をするだろう。
そして、先輩はしばらくぼっとした後、ハッと何かに気づくと、僕に優しい笑顔を見せ、明るく、その茜色に染まった唇はこう言った。
「テイルモートのイチゴパフェがいいな! もちろん、後輩君のおごりでしょうね?」
「えっ!? 奢りってそんな!」
見惚れる暇なく、ここで拒否しなければその案が強行突破されてしまう。この僕は一般的な高校生で、月に貰うお小遣いだって多くはなく、ましてや学校の規則でアルバイトはしていない、そんな僕に先輩は、せびろうと言うのか。
「えっ、だって……デートのお誘い、でしょ?」
にやりと笑う先輩。そうか、と心の中で納得する。そして急激に体が、特に顔、もっと詳しく言うなら頬あたりが熱くなった。
「あれあれ? 顔が赤いぞ、後輩君」
冷やかしているつもりなんだろう、が、夕日のせいで隠されているが、先輩自身も赤くなっていた。
「先輩だって……」
つぶやいた言葉の真意なんて聞こえるはずがなかった、かわりに「ナニカ?」と片言で、笑って呟いた先輩の真意は伝わってきた。
先輩は踵を返し、今まで歩いてきた道をゆらゆらと歩いていく。何度も見た背中を今度は追いかけれると思うと少しうれしくて、自然と顔が緩んだ。
今は楽しい? ……たとえこの気持ちが伝えられなくても、今みたいな環境が続くのなら僕はそれで満足なのかもしれない、一緒に居る、ただ、それだけでよかった。
歩いた、もう学校とかでクタクタなはずなのに、今は一駅間ぐらいスキップで行ける気がする。まぁそんなことたとえ空が落ちてきたって、できる気がしない。いや、むしろやってしまったら落ちてくるだろう。
自分の影を追いかける、まるでもう一人自分がいるみたいだった。こいつは過去の自分? それとも未来だろうか、ゆらゆらしていていまいちわからない、はっきりしてほしいもんだ。
優雅なひと時とでも言えば理解してもらえるだろうか、この幸福を誰に伝えたらいい? そこらへんの猫? 次に通り過ぎる人? 名も知らない雑草? お辞儀草でもあったら僕の言葉に、行動に答えてくれるかもしれない。ないか!? ないよな。
通り過ぎる住宅街、だいたい二十分程歩けばそのカフェに到着する。
僕が感じる幸福という空気を、どれだけ彼女は感じているだろうか。もし、すべてが全て分かってくれていたのなら幸せで涙を流すだろう、だけど、もし一ミリも共感していないのなら、僕は今すぐこの場に膝を突いて寂しさで泣き出すかもしれない――どっちにしても涙を流すのか、困った、なんて弱いんだろう僕は、だけどこれが‘本当の僕’なのだろう。
それからは、先輩と二人で店に入り、店の窓際に僕の奢りのパフェを今にもとろけそうな顔で食べる先輩、とろけそうな瞳の僕、目の前にあるイチゴとバナナがてんこ盛りの‘辛党悩殺パフェ’すら見えない、いや見たくない。
微量の夕日とやさしい色をした蛍光灯が、店内を照らしていた。
キャンパスに描かれた水彩のように透明で、僕の心は絵の具となり、その一部になるだろう。
当たり障りのない会話は水色、やさしい蛍光灯は黄色、黄昏の空気はオレンジ、店内の音楽は薄い緑、そこに僕の赤い心を混ぜる、完璧じゃないか……そうだこれを絵にしよう。
「……ねぇ、いいかな? ねぇ?」
「あっ、はい、いいんじゃないですか」
いけない。少しばかりトリップしていた僕に気づきもせず先輩は、「やったね」と喜ぶと、急いで呼び鈴を鳴らす。
「すいません、この旬の……ジャンボ、デラックス、スーパーパフェをひとつ」
白いクリームに刺さった半分のイチゴを取り出そうとする手が止まる。まってほしい、今この人はなんて言った? ジャンボの上に、デラックスで、スーパーなパフェ? 僕はまだ上半分のそのまた半分ぐらいしか手をつけていないというのに、どれほどの量を食べるんだこの人は。
案の定、先輩の目の前に置かれていたはずの縦十四センチはあったであろう、ピンク色したパフェは、綺麗なグラスになっており、花でも入れていれば綺麗だろう。しかも、そのパフェはただでさえ僕のより大きい……先輩は、ポカンと口を開けた僕を見て、本当にうれしそうにメニューを僕の目の前に広げ、デカデカとプリントアウトされ、赤文字で「売れ筋NO.1」と書かれた、多分僕のパフェなんかより二倍以上大きいものを指差した。
「やっぱり、これ食べないと、パフェを食べたって気にならなくて……もちろん、イチゴだっておいしかったけどね、でもでも、これの四種類以上フルーツが乗ってたり、とろ~り甘いチョコとか、もう、本当においしいの!」
元気ハツラツ! いやこんなどこかのCMにでてきそうな言葉は、あながち間違ってないが……まぁ、食べるのは先輩であり、僕はただただそこに記入された服一着買える値段のパフェに、肩を落としていた。購入予定のものが少し先に延びそうだ。
「……でも、これが最後だから、本当に最後だから」
「わかっていますよ。これ以上頼まれたら、せっかく買おうとしてた奴が買えなくなります」
でも、はぁ、と深いため息をひとつぐらいついてもいいだろう?
でも、この先輩の言葉がまさか二つの意味を含んでいたなんて、知る由もなかった。
「何を買うの?」
首を傾げ、手で持て余していたスプーンで遊び始めた。
「秘密です」
「教えてよぉ」
「だから、秘密ですってば」
クルクル回るスプーン。僕はこれだけは絶対言うまいと顔を背ける。
「教えなさい!」
「黙秘権を使います!」
しばらく、そのまま平行線が続いた。
「今日は、やけに頑固ね」
「秘密ですから」
どんな質問にも、秘密と黙秘権、と言い張る僕に、先輩はぶすっと拗ねて、まるで良かれと思ってしたことを怒られた時の子供の行動のように、白い洋風の椅子を反対に向けると、そんな秘密っ子と話はしたくない、と背中が語っていた。
が、さすがに誕生日が近い先輩のためのプレゼント、なんて口が裂けても言えない、もうこんなタイミングでこんなことを言っていたら、勘付かれるのが落ちだけど仕方ない。
だけど、先に落ちを言われるのは、いいところを持っていかれた芸人や、助けに来た、と登場するタイミングを逃したヒーローより空しい。なにより惨めだ、もしもなにかの出来事でそれが渡せなくなってしまったときなんて悲惨すぎる。
やがて、僕たちの様子を図ったかのように、定員がジャンボ(略)パフェを先輩の後ろに置く、店員の言葉にピクッと反応したが一向にこちらを向こうとはしなかった。
「食べないんですか?」
「…………」
多分力の限りに椅子の背を握り締めているのだろう、気のせいか椅子の悲鳴が聞こえる。
「そうですか、だったら、僕が貰いますね」
「……ごくっ……」
わずかに聞こえる、必死に堪える先輩の我慢の音。
「うわ、このキウイすごくおいしい! クリームも程よい甘さ、あっこのチョコも絶品ですね! これなら僕でも全部いけそうですね!」
わざと食べもしないのに、スプーンを使ってグラスの淵を軽く叩いたり、自分のグラスで自演していた。
フルフルと震える先輩、ああ必死で我慢しているんだな、と笑いがこみ上げてくる。
だけど、やっぱり誘惑には勝てませんよね? ゆっくりと首が回りこっちを見そうになるがすぐに戻す、のループを約五回ほど繰り返したところで。
「わかりましたよ、僕の負けです。先輩がそんなに我慢強いとは知りませんでした。すいません、でも本当にいえないんです。パフェは我慢しなくていいですから、こっちは我慢してください」
先輩はほんの数秒考えた後、しかたないわね、と言いつつ椅子を元に戻し、許してあげましょう、と言った。その間ずっと、目線はパフェだったことは言うまでもないだろう。要は僕の方はパフェより順位が下ということだ。ああ悲しい。
だが、ちらちらとこっちを見ている辺りは「どっちもほしい」気持ちなんだろうな。まったくこの先輩は――
窓越しに見た夕闇は笑っていた。
正直腹立たしいが、悪い気はしない。どうしても怒れというのなら、そうだな……いずれは消える太陽相手に怒るしかないだろう。
店内の客が出たり、入ったり、ただでさえ近所では人気のあるカフェだ。こんな風に長居されたら店側も頭を抱えるしかないんじゃないだろうか。なるほど、先ほどからウェイトレスの目線がちらちらと気になるのはそのせいか。
それよりもこの先輩はいつまでここに居る気だろう。
僕も同じようなものだけど、はっきり言ってもうはいらない、先輩のパフェの外見でノックアウト、僕は甘党でも辛党でもない。
ふと先輩を見ると、先輩は大好きなパフェには手を付けず、ぼんやりと窓の外を見ていた。
「空が、わらってるね」
意味深な笑顔で先輩は、多分僕に問いかけたのだろう。
「そうですね。確かにわらってます」
長居の件は一瞬で吹き飛んだ、それは先輩が空を見て僕と同じ感想を言ったからだ。意味がまったく違うとも知れずに。
ただうれしいと思う僕の真正面、先輩は深呼吸を一度だけして、目の前のパフェに食いついた。もちろんそれは直接的な表現じゃない、そんなことをしたのならば僕は全力で、今日あった思い出をリセットしなければいけなくなる。
「おいしい」
一口スプーンですくったクリームを頬張る。感嘆の声、今日一番の聞いてて心躍る一言だった。
「そう言っていただけて光栄です」
勝手に店側の代表として、店員でもない僕が代弁していた。でも多分声が届いたであろう店員も僅かながらニコニコしているきがする。
僕の幸せは絶頂を迎える。そう絶頂だ、後は落ちるだけで、永遠に手に入れれる幸せはどこにあるのだろうか、なんて考える暇すらないほど、僕はどん底に落ちていく。
しばらく、先輩はパフェは、おいしい、と何度も、何度も呟きながら食べていて、僕はと言うと自分のノルマをクリアしなければならず、残ったクリームとなんだかよく分からない物体をどう胃に流し込むか考えていた。
どろどろのクリームの中にあったバナナのひとかけらを、スプーンで拾い上げ口に含んだところで、先輩が口を開いた。
「ねぇ、後輩君はもしも、この世界以外に違う場所があるなら、そこはどんな場所だと思う?」
妙に大人びた声に、一瞬誰だかわからないほど先輩は普段の声のトーンより、落ち着いていた。
違う世界? どうだろう、僕はそんなこと一度も考えたことはない、なにせこの世界が一番平和だと知っているから、ある程度のしがらみがあってこそ人は自由を得る、そんな意味の分からない根拠で僕は生きているのだから……それに、こんな先輩が居るのにほかの世界のことなんて考えられない。
「わからないです、もしあるとするなら……そうですね、ここと似た世界でしょう」
べつだん、間違ったことは言ってない。それ以外と限定されるのなら、それはもうアニメや小説に出てくるトンでもファンタジーの世界だけだ。まぁそんな世界に行っては見たいと思うね、日帰りで、往復切符なんかあるとちょっとうれしい。
「だよね。でもいやって言うほど見てきた世界を見たくはないかな、どうせなら夢があったほうがいいよね、じゃないとつまらないよね」
一言話すたびに、一口また一口と食を進める。とても器用だ。
「先輩は、小説家にでもなるおつもりで?」
仮にも文芸部員だ。そういう意図があってこの部に入部していたってなんら不思議ではない、むしろ僕みたいなのが居るから無駄に活動内容が煩雑になるのであって、ただの図書室整理要員ならば、図書委員をこき使えばいい話だ。
もちろん煩雑なおかつ稚拙になりつつある原因は僕のような、明確な理由もなしにこの部を入部した奴や、入部したっきり幽霊と成り果ててしまっている奴らのせいだ。
「そのつもり、だって楽しいでしょ? 自分の描いた世界を人に見せるって言う職業よ、夢なくしては生きていけない職業なんて、そうそうないわ、ただ現実ばかりをみるのはもううんざり、だから私は見たいの、夢の世界を」
そのとき遠くで、鐘の音が聞こえる。それは今この二人だけの空間を切り裂くのには十分な存在、黄昏ばかり求める大人たちが仕掛けた意地悪な罠、僕らの太陽は一瞬で月へと変わってしまった。悲しさばかりが漂う月へ……
言葉をさえぎる鐘が終わるのを待つ、だけど、終わったところで僕から言葉を口にすることはない、当たり前だ、次に出される言葉は少なからず「終わり」の意味が込められることになる。
仕方ない、なんていわないで欲しい、本当に好きな相手とどれだけ一緒に居たいかなんて聞かれて、正確な時間を答える奴がどこに居る? もしかしたら居るかもしれないけど、僕は納得なんかしない、たとえ時間で答えろと言われたのなら、途方もない数字を言ってやる。
沈黙が、僕たちの間だけにあった。
店内のBGMが静かに流れる。店に居る人たちは次第に言葉を交わす、そろそろ帰ろうか、ええそうね、こんな会話ばかり、しかも人に感染するらしく、次々に客は去っていく。もちろんそれはこの店の終了時間が近いからだ。
それでも先輩はパフェを一口づつ食べる。あれだけあったクリームと果物の集合体も後四分の一以下になっていた。僕のものとは正反対だ、もちろん錯覚だけど、僕のものは徐々に増えている気がしてならない。
スプーンを口に運んでも、運んでも一向に減らなかった。
「後輩君、早く食べないと、下げられちゃうよ」
それは今の幸せと一緒にですか? 改めて痛感する。楽しい時間はすぐに終わるのですね。
「違うの、終わるのは次があるから、終わりがあるから人は楽しめるの、ありきたりだけど、本当のことでしょ? だから毎日言ってるでしょ? また明日、って」
それすら悲しいと思う僕はだめな奴なのだろうか、それでも先輩と一緒に居たいと、のどまで出掛かって止めておいた。
あくまでも勘だけど、今そんなことを言ったら先日ナニカを決めた先輩の意思を曲げかけない。それは、僕にとってはとてつもなく悲しいことかもしれないけれど、人の夢を邪魔する理由は誰も持っていない。
「だから、また明日会えるといいね」
僕は答えなかった。卑怯なんだろうか? いいや卑怯なんだろう、結局は僕はただ駄々を捏ねる子供に過ぎない。
先輩が席を立った。仕方なく僕もたちが上がる。
その後は、優雅とも幸せとも言えない時間だった。
今度は僕が拗ねていて、でも先輩はそれを慰めようともしなかった。だけどたとえ慰められたところで納得ができないだろう、僕は意外と頑固なんだ。もちろんそれを知っている先輩は、言うなれば無言の優しさというべきか……結局のところ僕自身で悟るしかないのだ。人生というのはなんとも世知辛いのだろう。
憎むべきはこの世界なんだ、もしも永遠に遊んでいられる世界があったのなら、僕は……どうしている? 今さっきこの世界が一番いいと言っていたばかりじゃないか。改めて自分がどうしようもない子供なんだと認識する。でもそこらへんが頑固のゆえんだろう、子供ゆえの頑固さとでもいうのだろうか。
ゆっくりと歩いていたはずなのに、すでにいつも分かれる場所に僕らは居た。
「じゃぁ、また明日、また会えるといいね」
先輩はバイバイと付け加え、手を振り、走り去っていった。
ぎりぎりと胸を締め付ける。どうしようもない不安が、漠然とした不安が同時に、僕の心を攻め立てていた。
「先輩! 明日は日曜日です!」
悔しくて出したのはこの程度の言葉。でも突然会えなくなるわけがない、そう自分に言い聞かせ、返事を待たずに帰路についた。
明日は本屋にでも行って適当に時間を潰そう。
三日目
翌日、目が覚めた僕はどこか憂鬱だった。
ベットに座り、寝癖でぼさぼさになった頭をぽりぽりと掻いた。
意味のわからない空虚感に体がまるで人形のようだ。
昨日のせい? そんなことあるわけない、僕はあの時幸せだった。間違ったとでも思っているのだろうか。確かに、先輩の悩みに答えて上げられないという罪悪感はある。ああそれか……
ぐったりと、気だるい体を引きずるように立ち上がる。気持ちは既に直立して敬礼までしている。ほら早く追いつけ体。
もちろん、立ち上がって誰も居ない空間に敬礼なんてするわけなく、カーテンを透かし、透き通るような淡い光が、この六畳そこらの部屋を照らしていた。
朝日がまぶしい。
今何時だろうと、今気づけば目覚ましで起きてないという事実に、少し休日が勿体無い気がした。
そう今日は日曜日、何をするにも明日に疲れが残らないように、思いっきり遊ばなければいけない日だ。一週間のうち一番難しい日であることは確かだろう。
休みだからといって、午前過ぎまで寝ていると、夜どうしても寝れず結局眠気が襲ってきた頃は朝日近く、朝起きるのがつらくなってしまうのだ。それに遅く起きると、なぜだか知らないがその日時間の進み方が、普段の三倍近い速度で回るのだ。
だから、こうやって少し早め、要は学校に起きる時間よりも二テンポほど遅く起きるのがコツだ。
突っ立ったまま、しばらく今日一日何をするかを考える。宿題? ない、遊ぶ約束、もない、家族の用事もない。あるとすればそう、先輩に頼まれた絵だけ……しかし、このゆとり教育の時代、日曜日まで学校に来て勉強をしようという勤勉君はいないため、美術室どころか学校自体開いてない。
困った。非常に困った。何に困ったかわからないほど困った。
「あっ、そうだ、本屋に行こう」
行って何を読もう、漫画? 新しい本出てたかな。小説? 立ち読みじゃきついなぁ。などなどを考えつつ、僕はしばらく突っ立っていた。んー朝日が気持ちいい。
大体、気持ち十分ほど天井や窓の外をじっと眺めて、僕はのそのそと動き出した。
上り始める太陽がしばらく僕を見つめていた、何かを必死で伝えようと、必死に光の意思を送り続け……いや、ただ僕が見ていたから返してくれたのだろう、太陽は優しくもなければ酷くもないのだから。
少し厚着をして、僕は家を出た。時間は大体十一時半、近くの本屋までは五分もあれば、途中でジュースを買っても、半分残るぐらい余裕で到着できる。
僕はポケットに入れた携帯を握り締めた。なぜかは分からない、なぜ先輩にメールでも電話でもしなかったのか、今考えてみれば僕は未来を変える分岐を幾つも持っていたことになる。
冷たい風が頬を撫でた、これが綺麗な女性だったらいいな、なんてくだらないことを考えて思わず笑ってしまった。
無機質な地面を蹴る。普段ならば自転車でさっさと行くのだけど、今日はどうやら朝から妹が乗っていってしまっているらしく、いつも置いている場所にそれはなかった。まぁそれほど珍しくも無いことなので、軽い運動と称してこう歩いているのだ。
店の門をくぐると同時に、店員のどうでもよさそうな声と、BGMで流れる音楽が聞こえる。
さて、何を読もう。
と、一人呟きつつもその足はすでに少年誌ブースへと歩いていた。迷いなど無く一直線に……
数千という本の数、ずらりと並んだ本棚。その中からひとつだけ僕は抜き取った。
すでに廃れて忘れ去られたかのような本、もう店側すらその本の劣化には対応できず、黄色い色した背表紙、すっと指を這わせて見たけれど、なんらわからないその本の歴史。
何度も読んだその本の表紙をじっと見て、考える。読むか読まないか。
「やめた」
ため息と共に僕はその本を本棚に戻し、ゆっくりと自分の背丈以上ある本棚の、上から下までじっくりと「暇つぶし」ができる本がないか調べて回る。
通り過ぎる、見たことのある題名や無い題名、すべてそれを頭の中で暗唱していく、が、面白そうだ、といったのもがない。いや正確に言う、漫画なんて読む気になれない。
自分の中の矛盾にイライラする。
本を読まないのならなぜここにくるんだろう。
勝手に流れる僕の心境とは正反対のBGM、いっそのこと耳も目も、体中を塞いでしまいたい。
誰か教えてくれ、この体を押しつぶすような不安を……
僕は口の中で苦虫を思いっきり噛み潰した。あまりの苦味に体中がぎりぎりと軋む。
そんなことをしていると、本棚の端にたどり着く。
軽く視線で毒づいて、青年誌ブースへ行こうと視線を下へ移す。
「ん?」
不自然に飛び出した焦げ茶に塗りつぶされた本、それは誰かに読まれた後のように他の漫画の上に置いてあった。だが、本棚を見てもその本が置いてあった空白なんて存在せず、ただ今ぽっと出てきたような印象を受ける本だった。
なにも読む本は漫画じゃなくても構わないさ。
僕の全てはその本に注がれた。
手に取るとその本はハードカバー小説の様に重く、当たり前だが見れば漫画などの本より一回り大きい、ページ数は普通の小説より少なく、はっきりこんな薄いものをハードで出す意味があるのかわからない。なにより不自然だ、そして興味がでてきた。
開いてもいいのだろうか? 捲ってもいいのだろうか? そもそもこれは商品なんだろうか? 値札は一応ある。百円……なんとも安い、ハードカバーをこんな数字で売って店は儲かるのだろうか?
しばらく焦げ茶に塗りつぶされ題名ひとつ書いていない本を、ゆっくりと開く。
「なんだこれ」
内容は…よくわからない、軸時間に関する難解な数式やら、数ページ捲れば魔方陣らしきものが書いてあるページもある。挙句の果てには「タイムマシン」なんて物騒な単語まで書いてある。
めちゃくちゃだ。感想はそんなもの、いやじっくり読んでいないのでこんな適当な感想を述べたら作者に闇討ちを食らうかもしれない。が、めちゃくちゃだ。もしこれが哲学書や論文的なものなら尚更だ、こんなことを真剣に考えた人はどんな頭をしているのだろうか。
そして、また数ページ捲ると、今度は平面時間軸移動ではなく、平行時間軸移動、とかいうわけのわからない事について書いてあった。
「わけわからないから」
平行時間軸移動は……という説明が入ってきたところで、僕は本から目を離す。これは時間の無駄だ。
一種の笑える話だったのかもしれないけれど、こんなの真面目に読む人が居たら是非試して欲しい、そして僕の前で消えてみてくれ。
いくらページを捲ってみたって、同じようなことばかりで、もううんざりだ、という、絶対面白いとうわさのゲームをやってみたら案外つまらなかった、といった感覚に浸される。
「あれ? 破られてる」
顔を顰める。それは本当にわからないぐらい綺麗に切り取られていたが、本のしたの方に、ほんのわずか紙の切れ端が残っている。それに左右のページで書いてあることがまったく一致していないのもそうだ。
気分が悪い。いくら人目当てで図書部に入ったと言えど、こういうことをするのは憤慨だ。
バン、と勢いよく本を閉じる。ろくに内容なんて読んではいないが、なんだか美味しい場所だけとられた気分だった、あたりまえだろう、破られているということは、相当な面白いことが書かれてあったに違いないからだ。
本を直そうとするが、空きがない。
僕は仕方なく、少年誌ブースを離れ、わざわざハードカバーが置いてあるブースまで行き、作者も題名もわからないので無理やり本を横へ詰め押し込む。これが本当に少年誌だというのなら笑うしかない。
フッ、と息を吐いて肩を下ろす。
店内の空調がナニカを言っていた。が僕はそれを無視していた。
胸の不安はうやむやになっていた、元々霞がかかっていたが、それがやがて霧に、そしてどこからか有害成分が入ってきてスモッグへ。うう、気持ち悪い。
ポケットから携帯を取り出して、時間を確認する。それと同時にナニカ入ってきていないか確認するのは必然だ。
「三時、か」
目の前の本棚を向いて、焦点は明後日。
暇をそのまま歌にしたかのようなBGMが店内に流れ出し、なんだかこっちまで気が緩む、歌の力ってすごい。
しばらく考え、昨日のカフェへ行くことに決定、昨日のせいで財布こそ厳しいが、コーヒー一杯分ぐらいならあるさ。
店を出る、相変わらずやる気なさそうな声が、僕の後押しをしてくれた。
外へでると、騒がしかった。車も人も、空気さえも……胸騒ぎがする、いや気のせいだ、天候がちょっと危なかったり、風がいつもより強く僕に吹きついていたりしたって、僕は信じない、たとえそれが一生を左右することだろうと。
耳を塞いで歩いた。
たとえ誰が何をしようとも、耳に入れたくなかった。
そんなことを妄想内で繰り広げていると、目的地へと僕は到着し、店内へ入ると、コーヒーを一杯だけ頼んで、今にも振り出しそうな窓の外を眺めていた。
雨が降り出すと同時に我に返り、僕は急いで家に帰ることにした。
びしょ濡れになった服を洗面所に脱ぎ捨て、シャワーを浴びて部屋に戻ると、窓の外は土砂降りになって、時折雷が鳴り響いていた。
「おかしいなぁ、今日降水確率十パーセントだったのに……」
時間は夕刻、そろそろ夕食ができることだった。
四日目。
ガンガンと頭を打ち付けるように鳴り響く目覚まし時計、それを布団にもぐったまま、半ばカウンターを入れるように思いっきり叩くと、案の定標準ミス、音を止めるボタンを大きく反れ、無駄な突起物が僕の手のひらを直撃した。
痛みで目が覚めるのは、非常に辛い。
目じりに涙を溜めつつ、学生服に着替えると、だいたい十六年間ぐらい続けてきた風景で朝食を食べた。
鞄の中身を確認する。よし、今日も置き勉は完璧、持参物は筆箱と弁当だけ。
母親が用意してくれた、冷凍食品オンリーの弁当箱を鞄へ詰める。
そのとき、ふと頭の中に自分の声がした。
「今日は学校に行かないほうがいい」
むちゃくちゃなことを言う自分だ。何が悲しくて先輩に会わない日を作らなくちゃいけないんだ、ただでさえ日曜日先輩に会うことができず、悶絶していたのに……しかも、赤の他人が言うならまだしも、僕自身が言うなんて、もしかしたら聞き入れてしまうかもしれないだろう。
不安を押し殺す。
その後もそういった、空耳、いや幻聴が僕の脳内で繰り返していた。未来予知とでもいいたいのだろうか、馬鹿馬鹿しい。
学校に着くもその声は続いた。
授業はただ平凡に、平常に、死にたくなるほど退屈に進んでいる。
どうしてこんなことをするかなんて、僕にも授業をしている先生にすらわからないことだろう、だけどいつか役に立つと信じて学び続ける。愚鈍な時間なんて永遠に続く、わけもわからないうちに僕たちは死んでいくのだ。
やがて、午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
クラスメイト達はそれぞれに机をくっ付けたり、移動したり、終わりの合図と共に教室を飛び立つ者もいた。いつかだったか、そいつに聞いたことがあるが、毎日の昼は戦争だと言っていた。そんなことするぐらいなら食べないほうがいいだろ? と言ったら「それがいいんだよ!」と一蹴されてしまった。わからない。
僕は弁当箱を持って美術室に行く、一昨日決めた構図は不思議なことに頭から消えてはおらず、適当にスケッチブックへと下書きすると、まだ白紙のキャンパスへと向かった。
途中、友人が話しかけてきたが、集中したいからと言って追い払ってしまった。それに彼はくすくすと笑いながら去っていった。
時折弁当箱を突付きながら筆を走らせた。
できたときの先輩の笑顔が見たくて……
油絵臭い美術室、ちらりと見た友人の絵はこの前と全然違うものを描いていた。
再びチャイムが教室内に鳴り響く、これは開始の合図だと気づき、急いで画材を片付けると、ダッシュで教室に走った。
今日は先輩に会える、そう考えるとどうにもこうにも嬉しかった。心躍るというのだろうか、どうかこの幸せを分かって欲しい。そしてできることなら燻る不安を半分貰ってほしい。
午後はそわそわしていた、授業に集中するどころではなく、ノートなんてろくにとってなんて居ない、その代わりに書いたのは、膨らむイメージで作ったキャンパスに映った、完成像だった。
今日はどういったことを話そうか、あれがいいかこれがいいか、僕は図書室へと向かう廊下でそんなことを考えていた。
図書室の先生の言葉なんて耳に入らず、スキップを踏みそうな勢いで書庫へと入る。
多分ここに先輩はいる。いつものように椅子に座って、目の前の机にはメロンジュース、開けちゃいけない窓を全開にして、そして笑顔で僕が入ってきたのを迎えるんだ。
が、そこに先輩は居なかった。ただがらんとした暗い部屋、僕は完璧に居ないことを確かめると、電気もつけずに椅子に座った。
窓が開いていないということは、先輩は本当に来ていないということで、多分今頃メロンジュースを買いに行っているのだろう。そしていつも買ってる自販機にないからちょっと探し回って遅くなっているに違いないのだ。
僕はそんな言い訳ごとをずらずらと並べ続ける。
「こない……」
仕方なく本棚から適当な本を取って、読み始める。だが、数分もしない内に眠気が襲ってくる、僕は勝手に頷く自分の体を何度か鞭打って耐えたが、睡魔の猛烈な攻撃には耐え切れず、椅子の背にもたれかかるように眠った。
午後八時。
僕は食べ物でも凍らせれるような寒さに目を覚ます。
「あっ、寝ちゃったか」
手に持っていたはずの本は地面に転がっていて、窓の外はすでに日も落ち真っ暗だった。
「おはよう」
そう、聞こえた気がした。だけど、目の前にも部屋を探してもその声の主、先輩は居なかった。
もしかしたら寝ていたから、帰ったのかな。
事実を知るために書庫を出て、珍しくまだ明かりのついた図書室の先生への元へ話を聞きに行った。
はじめ先生に、まだ居たのか、なんて毒づかれたがめげずに、書庫の鍵を貰い閉めると、再び話を聞いた。
「あの、先生、先輩見ませんでした?」
貸し出しの時に使うカウンターに手を突いて、あくまでも自然に、自然に話しかける。もちろんばればれなのは分かっている。
「えっ? 先輩? 知らないねぁ、そういえば今日は一日みてないねぇ」
なぜだろう、それを聴いた瞬間眩暈がした。
「それじゃぁ、休みってことですか?」
「それ以外ないんじゃないの?」
確かに、そうですね。あの真面目な先輩が学校をサボるなんて考えられない。
「でも……じゃぁもう一度聞きます、先輩を今日見ていませんね?」
僕はため息を吐きつつ、仕方ないこういう日もあるさと、もうぎゅうぎゅうに丸めた不安を、新しく生まれた不安と共にまたぎゅうぎゅうに詰めた。
が、先生の反応は遅かった。まるで時でも止まっているかのように……事実、時間は止まっていた。
そして、大体数分経つと、先生は再びねじを巻きなおした時の人形のように、動き出し、しゃべり出した。
「えっ? 先輩? 誰のこと?」
シンと静まり返る教室、僕と先生以外人は居ない。あるのは再び動き出した時計の音。
先生の言っていることが分からなかった。さっきも言ったとおり知らないのなら、わかるが、何故「誰」という言葉を使うのだろう。
「何、言っているんですか、先輩は先輩ですよ」
「だから、どの先輩か聞いているんですけどね、あんた、あんたの上にどれだけの先輩って呼ばれる人たちがいるか知っていないわけ無いでしょ?」
残業のせいか、はたまた僕のせいか先生は凄く不機嫌そうな顔で僕を睨んだ。
「えっ……先輩って、あれですよ、図書委員の委員長で、図書部の部長で、琴美先輩っていう人で」
「委員長で部長なのはあんた……それに琴美ってだれ? この学校じゃ聞いたこと無いけど?」
今までの不安が具現化した。鼓動が早くなる。どうして? 先生は意地悪でも言っている? 何を言っている? 意地悪にしてはタイミングが遅すぎやしないか? それに僕が委員長? 部長? そんなことはない、僕は先輩からそんな大役を受け継いだ覚えはない。だったら何故?
呆然と立ち尽くす僕。先生は何も間違ったことは言ってないといった目をしていた。
不安が、不安ばかりが、今までぎゅうぎゅうに詰め丸めて、もう限界なものに取り付いて、増殖して、やがて恐怖に変わった。
「嘘だ! 先生はなんでそんなことを言うんですか!? 先輩は先輩ですよ! 知らないことはないでしょう! 現に僕は今先輩に頼まれて、ここに飾る絵を描いているんですよ!」
「それなら、私が直に頼んだ奴じゃない」
ぐしゃ、と全てが握りつぶされる音がする。潰されたのは現実だ。
違う、違う……多分これはドッキリだ。先輩と先生がぐるになってやっているに違いない。そうだ。
僕は不機嫌そうに、不思議そうに睨む先生の前から飛び出すように、廊下へと出て行く。
先輩! 先輩! と叫ぶ、限界まで強く、誰も居ない、明かりひとつ突いていない校舎内を走り回る。
校内には居ないことを確認すると、体の内側から競りあがってくる熱いものを我慢しつつ、走り回った。
体育倉庫、反響する自分の声、体育館、震える声、縺れる足、どこを探しても居ないという絶望が、次第に握りつぶされた心をさらにぼろぼろにしていった。
そして、へとへとになりながら校舎裏に回る。
月明かりに照らされ、暗い暗い雑木林と鈴虫鳴く普段誰も近づかない場所。
もう希望はここしかなかった、いやもしも先輩が鬼ごっこのように逃げ回っているのなら、可能性は他にもある。だけど、そんなことはない、と僕の直感は語っていた。
一直線に伸びる境界線、そこで、僕は気づいた。
ちょうど、校舎裏の雑木林に面する場所、そこの二階、図書室の隣に位置する場所、そこは書庫だ。
――電気がついている。
確か僕が書庫へ入った時には書庫の電気はつけていないし、出てくるとき鍵だって僕が掛けた……そう、そこに電気がついているはずがない。
「先輩!」
僕は嬉しさのあまり、先輩先輩、と何度も呟きながら、図書室まで全速力で走った。
あそこに行けば終わりが待っている。それが幸せとも不幸とも知らず、いやそんなこと考えたくなかった、もし不幸だとしたら僕は崩れてしまうかもしれない、壊れて居しまうかもしれない。
最後の力を振り絞るように必死で階段を駆け上がる。もう体力は限界に近かった。それでも先輩の元へ走らなくちゃいけない。
「先輩!!」
明かりのついていない図書室のドアを開き、一目散に書庫へと走る。がその扉はまるで僕の侵入を拒むかのように硬く閉じられていた。
何回も、押したり引いたりするがビクともしなかった。
仕舞いには意を決して、扉に体当たりをしようとする、鉄扉とかじゃないから簡単に開くはず。
勢いを付けて体当たりする直前、電気がついている書庫から声がした。聞き覚えのある声だ。
「後輩君?」
弱々しく僕の耳へと届いた言葉。それは紛れも無い先輩の声だった。その声に僕は叫び、枯れかけた声で答える。
「ごめんね、こんなことしちゃって」
僕はドアに張り付くようにして、声を上げる。だけど、枯れて小さくなった声じゃこの扉を超えて先輩には届かなかった。
「怒ってる、よね、でも、でもね……これを決めさせたのは、後輩君? 君だよ、君があの時後押ししてくれたから、私行くことにしたんだよ?」
そんなの知らない、そんなの卑怯だ、詳しいことも話さずに質問だけして、そんなの、そんなの酷すぎる。僕と先輩じゃ質問した中身が全然違うことぐらいわかるじゃないか!
「でもね、本当は君の記憶すら消して行こうかなって、思ったんだよ? でもそれじゃぁ、悲しい、でしょ? だから、こうやって話てるの」
ズズッ、と擦れる音がする。どうやら先輩はしゃがみこんだらしい。泣いた時の癖だ、いつもしゃがみ込むんだ。
どういうことですか、わからない、先輩はなにをしようとしているんですか?
「ごめんね、私そっちの声掠れて聞こえないよ、ごめんね、さっきあんなに叫んだせいだよね? 私のせいだ」
違う、叫んだのは……僕が弱いから、そう先輩のせいなんかじゃない。
しばらく、先輩は声を殺して泣いていた。僕も競りあがる熱いものを少しずつ堪えきれずに、少しずつ流す。
「……理由は、離せないよ。でもね覚えていて欲しかったの、私がこの世界に居たってこと、だから後輩君には悲しい思い、させちゃうけど、記憶は…消していかないね。ごめんね」
消さなくていい、だけど行かないでください! そしたら消さなくてすむから! 行かないでください、いかないで……
止め処なく流れる涙、僕の中にあった不安やらなにやらが勢いよく飛び出してくる。だけど声にならない、いや出したくても声がでない。枯れた喉で必死に叫ぶ、行かないで、と。
「さぁ、じゃぁ私、もう行くね。もう、会うことは…ない…んじゃないかな。最後に君の声聞けなくて残念だな、ん~それも私のせいか、最後の言葉も聴けないのかな………ごめんね」
扉越しに僕らは泣いた。
伝えたくても伝えれない僕と、聞きたくても聞けない先輩。
やがて、しゃっくりの音も、流れ出す悲痛な声も聞こえなくなった。
「また、明日、会えると、いいね」
扉の向こうで聞こえる声、そして気配が扉の前に在った気配が、段々と薄らいでいく。
いやだ! いやだ! 行かないで、先輩がすきなんです、だから、僕を置いて行かないで!
「行か……ない、で」
必死に扉を叩く、だけど先輩に届かない、僕の言葉も気持ちすらも。
やがて、書庫内の光が消える。それは先輩がどこかへ行ってしまったということに他ならない。
僕は、扉の前でやっと声がでるようになり、叫んでいた。
外は、いつのまにか季節外れの大雨が降っていた。
午後十時。
僕は土砂降りの中歩いていた。
傘は持っていないから挿せないし、タオルなんか持ってきてなんかない、それに走る気力すらない。
時折通り過ぎる人が不思議そうに、僕を見た。
雨が僕を打ちつける、鞄も服も、全てぐしゃぐしゃだった。
ふと、目の前に見えた昨日の本屋。僕は何を思ったのかフラフラと絶対に迷惑であろう姿で店内へと入った。
そこにあのやる気のない店員の声は聞こえなかった。
足は自然と小説ブースへと向かう、何がしたいんだろう。いまさら小説なんて読まないだろう、ただでさえ衝撃が大きいんだ。今日は帰ってお風呂に入って明日また考えればいいじゃないか。
昨日と同じ場所へ行く、後から店員が歩いてくるのがわかる、捕まったらたぶん放り出されるかもしれない、だから、いそがなきゃ。
目の前の本棚、その一番下の端、まだその本は売れずに残っていた。
その本を手に取る。
「すいません、お客様……」
「これ、買います」
僕はその本をびしょびしょに濡れた服で抱きかかえて静かに「先輩、先輩」と泣いていた。
家に帰りついたのは既に、先輩が消えたことが「昨日のこと」になっていたころだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
どうだったでしょうか? 結局のところ「失恋」のような終わりですよね、反省しております。前書きではああ言っていますが、私としてはもう泣きますね、確実に……そして引きこもりに……(汗
さて、さて一作目とはまったく毛色が違いますが、気にしない気にしない。まだまだ型が決まっていないのでこういう風にあちこち彷徨いますが、なにとぞご理解いただけると幸いです。
あっ、後、
何かの小説に似てるなんてイワナイデ(汗
これは一年ほど前に書いた奴を若干アレンジして、読みきり型にしたものです。そしてその時丁度読んでいたのが……あっ、知らない方もいますよね? だったらだまっとこっと♪
これを気に前作、次回作もよろしくお願いします。
作者は多分短編しか掛けないと思います。
通学や通勤、トイレや暇なときにどうぞ。