暇乞い
その日の営業が終わり、店主が暖簾を下ろした。
その暖簾はもう二度とそこに掛かる事はない。
白い調理着の背中に、物悲しさとたくさんの言葉があった。
「お疲れ様でした。」
私がそう声をかけると、店主が振り返り微笑んだ。
「お疲れ様。……今日までありがとう。」
「いえ……。」
その困った様な笑顔に私は何も言えなくなる。
この店を閉める意味を私は知っていたからだ。
店主はここで待っていたのだ。
黙々と日々、仕事をこなしながら待っていたのだ。
私の前に働いていた人を。
私はエプロンを外し、丁寧に畳んでテーブルに置いた。
「……名残惜しいです。」
「ありがとう。でも、けじめはつけないとね。」
そう言って笑う顔。
空元気という言葉がぴったりだ。
伝えたい事はたくさんあった。
でも店主が職人として腹を括って出した決断の重みの前には何も意味がないような気がした。
「そんな顔、しないでおくれ。」
「すみません……。」
「時間は無制限じゃない。どこかできちっとしなくちゃならない。」
「……そう、ですね……。」
何があったのかは知らない。
そしてどうなったのかも知らない。
寡黙な店主の背中は何も教えてはくれなかった。
だがわかる気がした。
曖昧だからこそ、どこかで自ら線引きしなければならない。
その端から見れば諦めともとれる覚悟が。
「……では、お暇頂きます。」
「うん。ありがとう。元気で。」
「店長も。お体にお気を付けください。」
たかだがパート従業員の立ち場では、それを言うだけで精一杯。
支えきれる自信も覚悟もない以上、人様の人生に首を突っ込むべきじゃない。
「じゃ……私はこれで……。」
「うん。お疲れ様でした。」
店主はそう言うと、調理場の片付けを始めた。
私はもう会う事のないその背中に、深く一礼したのだった。