[2]ためらいとタイムラグ
翌日はどんよりとした寒空の下、テントや楽屋の撤去作業が始まった。団員は一致団結して大きな機材を運ばなければならない。動物達の移送もデリケートな作業の一つだ。それでももう何年も何度も重ねてきたルーティーンなだけに、皆の手際はすこぶる良かった。
まもなく入団して三年になるモモの動きも手慣れてきていることは窺えたが、その顔色は上空の曇天のように晴れやかではなかった。昨夜の一件が起因していることは、その場にいたメンバーには容易に明らかであった。
「……モモちゃん?」
そんな事情を知らない鈴原夫人が、ふとモモのパッとしない表情を見て問う。
「──え? あっ、すみません! 夫人、呼びましたか?」
「ええ……どうかしたの?」
夫人は軽く腰を屈めて、遠慮がちにうっすらと笑み、モモの顔を覗いた。
「い、いえ、何でも──」
いつしか冴えないそれを隠すように俯き、逃げるように後ずさってしまうモモ。
「何か気になることがあったら、何でも相談してね」
夫人はそれ以上踏み込むことはやめて、敢えてその場を自分から離れていった──。
☆ ☆ ☆
撤去・移動・搬入に、打ち合わせと休息の一日を含んだ四日間、ついにモモは自分のいた児童養護施設から数キロ程度の地へと降り立った。
しかし結局初日公演までに、故郷とも言うべき園には足を踏み『出さ』なかった。いや、実際には行きたくとも踏み『出せ』ない理由があった。
そんな立ち往生のモモが二日間の興行を終え、初めての日曜午後後半の演目を無事にこなし終幕した頃──。
「モモー、知り合いが面会に来てるってよ~」
舞台裏で一息つこうとしたモモの背後から、スタッフの声が呼び掛けた。
踏み出さずしてあちらからやって来てくれた『彼』等に、心の準備が出来ないまま遭遇する羽目となった──。
☆ ☆ ☆
「わー! モモお姉ちゃん、可愛い!!」
『知り合い』はもちろん児童養護施設のメンバーだった。団長の計らいで会議用プレハブに通された一行は、今か今かとモモを待ち焦がれ、空中ブランコの衣装にカーディガンを羽織った状態で駆け付けたモモの姿を目に入れて、一番小さい子供達が歓声を上げた。
「大勢で見に来てくださって……ありがとうございます! 茉柚子さん」
駆け寄る子供達の波に押されながらも笑顔で受け留めて、真っ正面に立つ少しばかりふくよかな女性に挨拶する。
「モモお姉ちゃん、今は茉柚子『先生』だよ!」
「え?」
自分の真下から言い直された呼び名に驚き、モモはもう一度目線を上げた。
「私、仕事を辞めて園に入ったの。今は母のサポートをしているわ。それより凄いショーだったわね! 興奮しちゃったわよ」
茉柚子はにこやかに微笑み、公演に感激した様子を面に表した。
「ありがとうございます。あの……園長先生は?」
「ごめんなさいね、本当は母も来る筈だったのだけど、急に風邪を引いてしまって……でも大丈夫、微熱程度よ。休演日って水曜よね? その頃には治っていると思うから、時間があるなら寄ってくれないかしら? 母もきっと喜ぶと思うわ」
「は、はいっ、是非伺います。あの……今までずっと会いに行けずにすみませんでした……お大事にしてくださいと、くれぐれも宜しくお伝えください」
「ええ、伝えるわね」
それからしばらく子供達や自分より少し年下の面々による質問コーナーに付き合わされ、モモはすっかり施設にいた当時の自分に戻っていた。
そんな楽しく懐かしい三十分程が過ぎようとした頃。
「モモ……久し振りだな」
──え?
自分の前に集まっている笑顔のメンバーが全てだと思っていたモモは、その山の向こう側から聞こえてきた、明らかに声色の低い呼び掛けに時を止めた。
「こ、洸……ちゃん──?」
ずっと椅子に腰掛けていたのであろう影が立ち上がり、モモを真っ直ぐな眼差しで見つめていた──。
★桃(色)、桜(色)、杏(色)、と来ましたので、お次は柚(色)にしてみました。が、柚という字が使えるようになったのは最近だそうで・・・彼女が生まれた頃には使えなかった漢字みたいですね(苦笑)。
★次回更新予定は少し間が空きまして九月二十八日です。




