[9]努力と才能
「スパイって……あのスパイ? あの、映画みたいな!? あのモモがっ!!」
さすがに信じられることではなくて、凪徒はいつの間にか腹を抱えて笑っていた。「ほら見たことか」と呆れ顔の暮の表情が向けられ、団長は「そうは言ってものぉ……」とぼやいて後頭部を掻いた。
「笑うな、凪徒。これは冗談じゃなく本当に最上級機密だ。お前もモモの身体能力には一目置いているだろう。あいつがここへ来た時のことを思い出せ」
「え……? あぁ──」
涙ぐむほどの笑いを堪え、何とか落ち着きを取り戻した凪徒は、団長の言葉に二年と数ヶ月前の記憶へ思いを馳せた──。
☆ ☆ ☆
あれはまだ寒風吹きすさぶ晩秋の公演だった。全てのショーが終わった後には、ちょっとした有料の記念撮影なども催される。相変わらず一番人気の凪徒の元には若い女性の行列が出来ていた。
その列の最後尾が確かモモだった。目録を大事そうに胸に抱えて大きな瞳をキラキラ輝かせていたのが、とても印象的だったことを良く覚えている。通常その冊子の最後のページにサインをし、握手と肩を並べて撮影すれば終了なのだが、モモの目的はまるで違っていた。
「す、すみません……あの、質問があるのですがっ」
いつものように右手にペンを持ち、左手はパンフレットを受け取ろうと差し出したが、サラリと肩すかしを食らわされてしまった。凪徒は少し驚いた表情で、緊張の面持ちの少女を見下ろした。
「はい。何でしょう?」
お客だけには愛想の良い凪徒は、にこやかな笑顔で応えた。どうせ「彼女はいますか?」とか、「独身ですか?」と定番の質問が返ってくるのだろうと高をくくりながら。しかし──
「えっと……あ、あのですねっ、空中ブランコ乗りにはどうしたらなれますか?」
「え?」
良く通る綺麗な声なのに、つい訊き返してしまっていた。そんな質問、今の今まで受けたことがなかったからだ。
「君がなりたいってこと……?」
「はいっ! あんなに素晴らしいショー、自分にも出来たらって……」
思わず時間も忘れて、次の句が声にならないまま少女を見つめてしまう。ブランコ乗りなんて生まれつきサーカスで育った団員の子供か、そちらの業界で番が回らずくすぶっていたどこかのメンバーが流れてくるのが殆どだ。それとも今まで体操の選手でもしてきたのだろうか?
「えっとそうだな……教えている場所は特に知らないけど、二月にうちで採用テストがあるから受けてみれば?」
この時既に鈴原夫人の引退は決まっていて、各方面に募集の声は掛けられていた。
「ほっ、本当ですか!?」
凪徒に凝視されて困ったような嬉しいような、上気した頬を上げていた少女は、その言葉に更に瞳を輝かせ、絶品の笑顔を見せた。
「うん……でもその頃には移動しているから、そのテストは次の公演場所になるけどね。詳しい日程や募集要項は、向こうのスタッフに訊いてみて。健闘を祈ってるよ」
「ありがとうございます! 頑張ります!!」
そうして笑顔で交わした握手の少女が、まさか空中ブランコの経験もなく、体操の選手でもなく、もちろんサーカス団員の娘でもなかったことを知ったのはその三ヶ月後。今いるこの桜並木の町での採用テスト会場だったというのだから、この地へ来る度に思い出されるそんな衝撃の事実と、それにも拘わらずあっさりとブランコ乗りの座を勝ち取ってしまったモモの凄さには、思わず苦笑いのこみ上げる凪徒だった。
☆ ☆ ☆
「お前……本当に分かりやすいの」
「……え?」
そんな風に独り思い出に浸っていた凪徒は、自分の顔を覗き込む二人の顔の近さに驚愕し、つい背もたれにのけぞった。
「何をどう思い出していたのかが、手に取るように分かったぞ」
「ホント」
団長は感心したように呟き、同感の想いの暮が一言頷いた。
「いやだって……ブランコに一度も乗ったことのない卒業間近のタダの中坊が、経験者の受験者達をあっと言わせちゃったんですよ? そりゃ面白かったでしょ」
「坊はないだろ、坊は。あれでも性別は女性だ」
「そんなこと分かってます」
凪徒は変なところにツッコミを入れた団長を横目で流し、再びあの時のモモを思い出した。
テスト後の少女に問い質した内容──未経験だということも驚きだったが、どうやってその技術を得たのか。それはあのたった一度鑑賞したショーの記憶を頼りに、ひたすら校庭の鉄棒にぶら下がり、イメージトレーニングをしただけだというのだから、これはもはや天才と言うしか他なかった。
「お前や夫人は努力の人だが、モモは生まれつきともいえる天性が備わっている。それをその組織も見通したんだろうよ。だから、な?」
「あ……」
凪徒は「そんなに自分の表情から考えていることが分かるのか?」と微かにうろたえ、そしてまた、どうしてこんな話になったのかという経緯を、不穏な予感と共に思い出した──。
★次回更新予定は三月三十日です。