[1] 〈N&M〉
「ん──!? お、お水っ!!」
「ヤタ──! モモたんの負け~~~!!」
珠園サーカスは団長の計らいで、二年に一度温泉旅行が催されている。前回モモは入団まもなくのことだったので、まだまだ団員達に馴染めておらず、空中ブランコの師とも言える麗しき鈴原夫人の後を、いそいそと追いかけ回す状態だった。それもさすがに二年半が経ち、春の誘拐事件・夏の失踪事件も影響して、宴会でもすっかり打ち解けた様子だ。既に満腹状態の秀成達未成年組とちょっとしたゲームに興じ、『それ』はまもなく宴も終わりを迎えるといった頃の出来事だった──。
「あれ? モモたん、ドコ行くの?」
急に立ち上がったモモに気付いて、雑技団のリンが隣の座布団から見上げたが、モモは何も答えずにゆっくりと上座の方へ向かっていった。
良い心持ちで水菓子を食べている大人達の間を縫って、トテトテと歩いた真っ直ぐ先には、かなり酔っぱらった感じの暮と談笑する、相変わらずしらふと変わらない凪徒がいる。
「……モモ?」
目の前で立ち止まったモモを見上げ、リン同様疑問を投げる凪徒。が、突然モモが膝を折って座り込もうとしたので、真下にあるお膳をサッと横にずらし、驚いて彼女を見下ろした。
「あっぶねっ! おいっ、どうしたんだよ? って、お前、膝、はだけてるっ」
慌てて指摘をしても、モモは浴衣の合わせを直す様子もなく微動だにしない。仕方なく自分の茶羽織を脱いでモモの脚を覆ったが、その途端少女はおもむろに膝立ちをした。
「お、前……」
「え?」
『お前』と言ったのは凪徒ではなくモモだった。酷く低い地獄からのような声。左手が凪徒の右肩を掴み、右手が更に上を目指して──
「お前、お仕置き。デコ出せ」
──ええっ!?
聞こえたモモの台詞に絶句して硬直する凪徒。いや、其処にいる団員全員が、一気に金縛りに遭っていた。
「も、もしや、凪徒のモノマネか!? 無礼講かっ!? いや、ついにモモの下剋上かぁっ!? ……いでっ!」
隣の暮だけが愉しみながら、その一部始終を声高に実況したが、すぐさま凪徒の左手が、暮の腕をつねり止めさせた。
「何で俺がまたデコピンされなきゃいけないんだよ! モモ、お前もいい加減にしろっ」
夏の失踪事件後の『お仕置き』と同じく、デコピン発射寸前の右手首を掴む。けれどあの時以上にいやに力の入ったモモの腕は、凪徒の抵抗をあっさり払いのけた。
「お、おいっ! やめろって!! お前のデコピン、超痛──」
──……スカッ……──
「え? あ、あれ?」
凪徒が怖々目を瞑り覚悟を決めた瞬間、そんな音でもしそうなほど、弱々しいモモの指が宙を蹴って、次には凪徒の胸に顔を突っ伏していた。
「おー!! 今度はモモの告白タイムか!? それとも色仕掛けか──!?」
全体重を自分の胸に預けられた凪徒は、一瞬訳が分からなくなった。モモの両肩に手を置き、彼女を自分から引き離して見つめる……と、或ることに気が付いた。
──こいつ……?
「わっ! 何だ!? 今度は凪徒の反撃か!?」
凪徒は自分の両手の間で、どうやら眠ってしまったらしいモモの唇に顔を寄せた。完全に音のなくなった世界で唯一つ、皆の息を呑む音だけが響き渡る。が、実際唇に寄せられたのは、凪徒の形の良い鼻先だった。そして微かに──香る……日本酒……?
「誰だ~っ! モモに酒呑ませたのは!!」
「「「へっ!?」」」
凪徒の大声に、全員の口から零れ出す驚きの声。
それからしばらくシンと静まり返ったが、おどおどと片手を上げたのは、先程までモモの隣にいたリンだった。
「も、もしかしたら……さっきみんなでお寿司のワサビ・ロシアン・ルーレットやってて……モモたんが当たって「お水~」って言ったからコレを……」
「あー! それ、俺がそっちに行った時に忘れてきた冷酒……殆ど無いじゃないかよ~」
リンが手に持ち、指し示したグラスには、遠目では分からない程の僅かな液体が残されていた。
「ったく! 暮、んなもん、未成年の所に置いてくるな! リン、ちょっと水貰ってこい!」
「ハ、ハイっ」
慌てて出口を目指したリンに秀成も続く。凪徒は目の前でスヤスヤ眠りこけたモモを、仕方なく自分の左腕で抱え込んだ。やがてなみなみと水の入ったボトルとグラスが、リンの手によって運ばれた。
「モモ! 起きろ、ほら、水飲めっ」
注がれたグラスをモモの唇に近付けると、眠ったままでも本能的に飲み出し、凪徒は少しホッとする。
「口移しで飲ませちゃった方が早くないか~?」
暮は相変わらず横から茶々を入れたが、凪徒はギロッとそちらを振り向いた。
「元はと言えば、お前の所為だ! だったらお前がやれっ!!」
「いいのか~? お前がいいって言うなら、ホントにやるぞ~~~」
「……よっ、良くない!! ──あ! もちろん飽くまでも、モモの主観で言ってるから誤解すんなっ」
「ふーん?」
うっすら顔を赤くした凪徒は、横目で弄んでくれた暮を無視して、再び懐の中のモモに視線を戻した。いつまでもチョロチョロと水を飲み続けているモモは、まるで大きな乳飲み子のようだ。
「まったく……急性アル中にでもなったらどうするつもりだったんだ……リン、お前、モモと部屋一緒だったよな? 連れていくから鍵開けろ」
「ハーイ! ヒデナー、また後でネ」
リンは茶羽織の内ポケットから和柄の巾着を取り出し、部屋の鍵を手に取った。モモを抱き上げ立ち上がった凪徒を、誘導するように歩き出す。何故か何処からか女性達の黄色い歓声が上がったが、凪徒はそれも無視して軽々と歩を進めた。
「凪徒~、送り狼になるなよ~」
「うっさい、バカっ!!」
背後からの暮の冷やかしに、まるで本物の狼のような唸り声を上げて立ち去る凪徒。再び賑やかになった宴会場から、襖一枚隔てた廊下に出て、ようやくホッと息を吐く。
「ナッギー、こっちこっち~」
「ナッギー? ああ、俺のことか」
もはや「変なあだ名で呼ぶな」と改めさせる気にもならず、全く動く気配のないモモを、誘うリンに続いて運んでいった──。
★秋編は短いですので、このまま後半を更新致します。『次の話』をクリックしてお進みください。




