[8]誘拐と『S』
黄昏の中を駆け回る幾つもの足音が、辺りに不協和音を奏でていた。
あれからつつがなく計三回の舞台は終焉を迎え、今夜は貸切公演もなかったために夕方には全ての片付けを終えていた。暮が捕縛したストーカーも二回目の閉演後警察に引き渡され、団長や数名の責任者が事情聴取を終えたのもそんな時刻だった。
が、この騒動の一番の功労者であり、被害者でもあるモモの姿が見えないことに気付いたのも、随分と時間が掛かった後だった。何しろ初日公演ともなれば、それだけで慣れない作業も多い。犯人が捕まったことで皆の緊張の糸も切れ、自分達のことにしか目が行かなくなっていたのが災いした。
「おいっ、見つかったか?」
「いや……みんなが迷惑してると勘違いして、どこかで拗ねてるんじゃねぇの?」
あちこち探し回る面々が、そんな言葉を交わしながら再び方々へ散ってゆく。もう既に日暮れだ。そろそろ探索の目も妨げられる暗い闇が降り始めていた。
「何なんだよっ、たくっ! どういうことだ!!」
凪徒の焦燥は誰よりも深く顕わだった。舌打ちしてはウロウロと見回すが、一番の上背を持ちながら何の手掛かりも見つけられない。犯人が自分を狙いそれをモモが阻止したことは、暮と警察から聞かされていた。その後に一体何が起きたのか? 自分を庇って客席に飛び出さなければ、こんなことにはならなかったかもしれないのに……そう思えば思うほど自身が不甲斐なく思えて仕方がなかった。
「凪徒……凪徒~」
遠く風に紛れて呼ぶ声に気付き、凪徒は後ろを振り返った。団長専用のプレハブから小太りな影が手招きしている。
「……団長?」
近付いた部屋から零れる明かりの中に、椅子に腰かけた暮の横顔が目に入った。
「まぁちょっと、こっちゃ来」
訝しげな表情を向けたまま応じた凪徒も、同じように並べられた椅子に着く。何の表情も見せない暮を一瞥して、団長の言葉を待った。
「さて……そろそろ皆を集めて、今夜の捜索は打ち切りにする」
「いやっ、しかし!」
暮と同様特に心配の色を見せない団長に、凪徒は喰って掛かろうとした。
「まぁまぁ。内緒にしていたのは悪かったが、『コレ』は想定内の展開での」
「……え?」
簡易キッチンに置かれた湯沸しポットから急須に湯を汲み、テーブルに置かれた湯呑みの幾つかに茶を注ぐ。驚き刮目する凪徒に一つを差し出して、勧める仕草をしながら自らもズズズとすすり飲んだ。
「凪徒……なんか複雑な話だから、ちょっとお茶飲んで落ち着いておけ」
暮がその湯呑みを取り凪徒の前に突き出したので、事の状況を呑み込めぬまま、彼も仕方なくそれに従った。
どうやら暮は既に説明を受けたらしい。そう凪徒は気付いたが、それによってこの無表情が現れたなら、余り良い報告ではないような気がして余計に胸がざわついた。
ややあって団長はおもむろに携帯を取り出し、おそらくはマネージャーに電話を掛けたようだった。全員に解散することを告げるために。そして──
「さ、これでゆっくり話せるの。実は今回の事件とは別に、モモは五日ほど或る機関で身柄を拘束される予定だった」
「はい?」
──身柄を拘束って──?
「が、その前にあんな予告状が届いたお陰で、紛らわしくなるのもかなわんと思い、その機関に延期を打診しようとしていたのだが、どうも上手く連絡がつかなくての……」
「全く意味が分からないんですが……」
宙に浮いていた湯呑みをテーブルに置き、屈んだままの姿勢で上目遣いの瞳を向ける。凪徒は少しイラついているようだった。
「まぁな、ちと国家機密レベルの話での。詳細はわしにも分からんし、口外出来ないこともあるんだが……ともかくモモは『S』の養成候補に選ばれて、そのテストを受けるためにここを離れているって訳だ」
「エス……?」
国家機密だの養成候補だの、唐突な団長の言葉に戸惑いながらも問いかける。
団長はそれを見て、ようやく核心に触れられることを喜ぶように、ニヤリと口髭の端を軽く上げた。
「『S』──つまり『スパイ』のことだよ、凪徒クン」
「はぁっ!?」
突拍子もない三文字に、彼の端正な顔もさすがに歪んでいた──。
★次回更新予定は三月二十七日です。