[32]あしながお姉さんと見えない将来
鈴原夫人の助言を得て、いつもの元気を取り戻したモモは月曜四公演を無事に終えた。遅い夕食を取り、シャワールームを目指す。その途中めったに鳴らない携帯がメロディを奏でたので、近くのベンチに荷物を置いて画面を覗いたが、市外局番が〇三の知らない番号からだった。
「誰だろ……? あっ、先輩!?」
慌てて応答したが、「もしもし」との呼びかけに返ってきたのは、艶のある女性の声だった──杏奈。
「少しお久し振りになっちゃったわね。元気にしてる? モモちゃん」
「杏奈さん……」
どこから掛けているのか、周りがいやに騒がしい。
「ナギが実家へ戻ったのはもう知っているのよね? 私も東京の自宅へ戻ったの。貴女を連れて帰りたかったけれど、今のところサーカスの一員であることだし……でも、そろそろ答えが決まったのなら、お返事聞きたいと思って」
「──」
モモは何も答えられなかった。あのスピーカーの向こう側が自分の居場所とは思えなかったし、杏奈の元もきっと違う。でも自分が行くことで凪徒が解放される可能性がゼロでないのなら──そう思えばこそ──完全に拒否出来ない自分も少なからず存在した。
「まだ迷っているみたいね。どうぞ、気の済むまで考えてみて。でも私達、明後日には三人で今後についての話し合いを持つことになったから、その時にはナギの行く末も決まると思うわ」
「そ……んな──」
明後日──サーカスの休演日だ──。
「ね、良く考えてみて、モモちゃん。ナギがそうであるように、貴女にも未来への可能性が溢れているの。サーカスでブランコに乗って、脚光を浴び続けるのも魅力的なことかもしれないけれど、それは今の貴女がまだ他の世界を知らないからよ。私の所に来ればすぐに気付くわ。どんなに世界が広いのかってことに。それにブランコなんて危ない物、私は貴女に続けてほしくないの。一度でも大怪我をしてしまったら、生活の術を失うどころか何も出来ない人間になるのよ。義務教育しか卒業していない女の子を、どこの企業が雇ってくれると言うの? その上働けない身体になってしまったら……ブランコに乗れる時間なんて、せいぜいあと十年ほどでしょ? その十年に命懸けるなんて……私には理解出来ないわ」
「十年……」
先のことなど考えたこともなかったモモには衝撃的な真実だった。確かに鈴原夫人も今なお補欠要因として技術を維持しているが、引退したのは二十六歳だ。それからの自分はどうするのだろう? 夫人のように別の技術を得て、サーカスで引き続き働けるのか? いや……珠園団長だってその頃には年金暮らしだ。サーカス自体もなくなってしまうかもしれない──。
「あ……う……」
モモの口から隠せない戸惑いの声が零れた。
「どう? 少しは私の支援も魅力的に思えてきたでしょ? ──ん? あ、ちょっと待って、すぐ行くわ。……ごめんね、モモちゃん。今取引先をお招きしてパーティの最中なの。もう行くわね。じゃ、良いお返事待ってるから」
杏奈は電話の向こうの誰かに応えた後、一方的にモモに事情を説明し切ってしまった。
呆然と立ち尽くす、暗闇の中。
──いや……もうこんな自分では、ダメだ。ちゃんと、立たなくちゃ。自分の足で、この二本の脚で。
モモは俯いていても、瞳の力を弱めることはなかった。あの春の誘拐事件で、今回の凪徒の失踪事件で、どれだけ自分が周りから愛されているのかを気付くことが出来たのだから──先輩、暮さん、鈴原夫人、秀成君、リンちゃん……そしてきっと団長も、他の皆も──困った時・落ち込んだ時、周りのみんなが助けてくれた。励ましてくれた。あたしもそうなりたい。そうありたい。自分が先輩を助けなくちゃ!
杏奈の申し出はとても有難いことだと思えたが、モモの心には響かなかった。けれど今回の電話で諭された自分の未来に、何かヒントを得たような手応えを感じたのは確かだった。──自分の進むべき道が決まれば、きっと一歩を踏み出せる筈……あれ? それって杏奈さんが気付かせてくれた……?
モモは閉じた二つ折り携帯を一度見下ろし、ふと蓋に表示された時刻を確認して、慌ててシャワールームに足を踏み出した──。
★続けて次話を投稿致します。




