[22]諦めと抗拒
「団長! 団長……!?」
モモが杏奈の悪戯な誘拐でがんじがらめにされていた休演日の午前。暮は一通の封書を握り締め、団長室の扉を叩いていた。
「何だ~騒がしいの」
のんびり口調の団長がおもむろに引き戸を開いたが、暮の蒼白な表情は変わる様子もない。
「やっ休みの日にすみません! おれの部屋からこんなものが……!」
「ん? ……ふうむ。わしが受け取らないのを見越して、お前の所へ置いていったか」
暮が焦燥を抱えたまま団長の眼前に掲げたのは、凪徒の退職届だった。
「え? 団長は凪徒が辞めるつもりなのを知っていたんですかっ!?」
「まぁ~……辞める気はなくとも、出さざるを得ないだろうとは思っておったがの」
「え?」
既に握力でクシャクシャになった白い封筒の上下を引っ張り、団長の頬にくっつきそうなほど近付ける暮。その顔も声も驚き慌てたまま、団長の発した言葉に疑問を投げかけた。
「とりあえず落ち着け、暮。この間凪徒にもご馳走した珈琲でも飲むか?」
「は……あ……」
相変わらずリズムを崩さない団長の調子にいささか唖然としながら、暮はそのどっしりした背中に続いて椅子に腰を降ろした。
☆ ☆ ☆
辞表の中身は典型的な「一身上の都合により」から始まる一文しかなかった。
いやに整った文字が無性に忌々しい。暮はその一字一字をほぼ睨みつけるような目つきで見下ろし続けた。団長が珈琲を運んでくるまで、何とか気を穏やかにさせようと無言で身じろぎもせずにいた。
「春に話した凪徒の家のことは覚えておるの?」
気配すら感じさせずにカップを封筒の隣に供した団長の言葉で、暮はハッと顔を上げる。
「ああ、はい。旧桜財閥の一人息子だとか……」
あの誘拐事件で高岡紳士が凪徒にした質問について。端から聞いていた暮は、一件落着した後団長に問い質していたのだ。
「あいつは訳あって桜家と縁を切り、五年前ここへやって来た。その『訳』とやらが今になって動き出したんだろ」
「『訳』……それを団長は知っているんですか?」
「まぁ……多少は、の」
言葉を濁し珈琲をすする団長。視線を暮の頭上の天井へ向け、ややあって次の句を待つ暮に戻した。
「あいつが高校まで体操の選手だったことは知っておるの? 将来をオリンピック選手として有望視され、大学にも推薦での入学がほぼ決まっておった。が、高校二年の秋、二つ年上の兄さんが心の病で亡くなり、突如として桜の後継者に指名されてしまったんじゃ。凪徒は体操をやめさせられ、大学も次期経営者としての道筋に変えられた。それでもあいつは自分の夢を諦めて、一度はそれに従う道を選んだんだ……それが母親の希望だったからの」
「お母さんの……?」
コーヒーカップに伸ばそうとしていた暮の手が止まる。
「あいつの母親は凪徒を産んだ際に身体を悪くして、ずっと家で臥せっておったそうだ。だから凪徒の生活は、一番に母親を大切にしたものだった。それでなくとも息子を一人失った母親の悲しみとはいかほどのものだったのか、きっと思い知らされたのだろうの。凪徒は兄の分まで母親を愛そうとした。家業を担い、立派な代表者となれば──が、兄に続いて二年後、母親も病が悪化して他界してしまったんじゃ」
「……」
暮は一度カップを手にしたものの、それに口を付ける気にはなれなくなった。立ち込める香ばしい香りが鼻腔を漂い、やがて喉元で苦々しい空気となった。
「父親はあれだけの企業を操る男だ。常に仕事人間だった。母親の希望があったからこそ受け入れた道だったが、そうは言っても結局は父親の強制に他ならなかった。唯一あいつを繋ぎとめていた『母親』という糸が途切れて、凪徒は自分の夢をもう一度追いたくなった……が、父親と対立し、桜家を敵に回したも同然の身ゆえ、オリンピックはもう無理だ。それで見出したのが空中ブランコだったという訳さ」
「あいつ……そんな過去一度も……」
暮は一息に珈琲を飲み干し、カップはカチャリと音を立ててソーサーの上に戻された。元々口数の少ない凪徒ではあったから、誰も彼の過去を穿り返してはこなかったが、そのような経緯があるなどとは、いつも身近にいる暮でさえも想像にすら及ばなかった。
「それと……凪徒にはここにいることにもう一つ目的があっての」
「え? はい」
思いつめるように俯き、唇を噛み締めた暮の面が再び団長を捉える。
「父親を除いた唯一の肉親……何処ともしれない、どんな面立ちかもしれない、腹違いの『妹』を探していたんだ」
「いも……うと──?」
ニンマリと目を細めた恵比須顔の団長に、暮は更なる驚きの表情を向けた──。
★続けて次話を投稿致します。




