[7]オレンジジュースと彼女の出生
★少し前に投稿しました前話からご覧ください。
モモの通されたビルの一階は広大なスペースである上に、ラウンジの上はどこまで続いているのか分からないほどの吹き抜けになっていた。三十席はあろうかと思われる革張りの高級ソファが、幾何学模様のように置かれている。その一番奥の西の隅で、モモはしばらく呆然自失していた。
「聞く余地まだありそう? さっきは筋肉バカって言ったけれど……意外にそうでもないのよ、ナギって」
“ナギ”という二文字が遠くへ行ったモモを引き戻した。特に凪徒をそんな風に思ったことなどないが、そう言った杏奈の表情が少し切なそうに揺らいでいることに気が付いた。
「おじ様──彼の父親で、この桜グループの社長ね。今度新事業を立ち上げるのよ。それをナギに任せたいと思っているの。ま、サーカスに五年もいたのだから、一からの勉強は必要だと思うけれど、あれでも高校時代に経営学を叩き込まれているのよ」
──五年……。
自分よりも何年先に珠園サーカスへ入団したのかも知らなかったモモは驚きを隠せなかった。それまで凪徒はこのとてつもない大企業の、もしかすると跡継ぎ候補だったのかもしれない。
「あの……それで……その……先輩がここに戻ってくるように、あたしに説得してと言っている訳では……」
何とか言葉を紡いだが、それくらいしか自分に話す必要性を見出せなかった。
「ああ……いいえ。そんなまどろっこしいことなんてしないわ。味方につけるなら、団長辺りを狙うわね。ナギをクビにしてもらう方が、ずっと手っ取り早いもの。それに協力してって言っても、貴女にそれを受け入れる理由がないでしょ?」
「ああ……はい……」
凪徒のいないサーカスなんて全く想像出来ない。
「彼が自分から戻ってきたいと思わないと意味がないのよ。それには……ま、その話はまたにしましょ。ここの息子だって分かっただけでも随分なショックでしょうし、公演に響いても困るから、話は順々にしていくわ」
──これまででももう十分響きそうだ……。
それでも話が終わったことで、モモはやっとオレンジジュースに手を付ける気になった。微かに震える手でグラスを持ち上げ、ストローを唇に当てる。それを見た杏奈も満足そうに、ハーブティーのカップを口元に寄せた。
二、三口の後、モモはふと頭に浮かんだ質問をした。
「あの……杏奈さんも桜家の人なんですか?」
ティーカップをソーサーに戻す手が止まった。
「あー……そうね、そう見える?」
「いえ……まだ良く分かりません」
「今は桜家の人間ってことにしておいてもらいましょうか。さて、そろそろ戻らないと夜になっちゃうわね。送るわ」
おもむろに立ち上がり再びキビキビと歩き出す杏奈に、モモも相変わらずおどおどとついてゆく。
建物を出てすぐモモは車窓から後ろを振り返った。何十階のビルなのかも分からないほどの高層ビル、そしてきっとここだけに限らず、全国各地に事業所を持つ筈だ。
──先輩がサーカスを辞めて、ここに戻ってくることなんてあるんだろうか……。
演舞の最中の真剣な表情も、モモの腕の位置・足の運びがほんの少しでさえ狂った時に飛んでくる説教の怖い顔も、空中ブランコが大好きだからこそだとモモは思っている。そんな凪徒が──?
夏らしい入道雲の向こう側で傾き始めた陽は、まだ翳りを見せてはいなかったが、高速の渋滞も手伝って、サーカスへ戻る頃にはおそらく夕闇が落ちているだろう。それまでに落ち着きを取り戻せるのだろうか──モモは心の安息を得るための手段を、ゆっくりと通り過ぎる景色の中から探し出そうと瞳を向けた。
「貴女の髪って結構茶色いけど……染めているの?」
「え?」
運転を始めてからずっと口を開かなかった杏奈が横顔のまま尋ねた。
「あ、いえ……これ、地色なんです。良く間違えられるんですけど……」
「肌も白いし、元々の色素が薄いのね。遺伝なんでしょうけど……あ、ごめん。貴女、ご両親を知らないのよね」
──え?
言葉すら出てこないほど驚いてしまった。何故自分が孤児だったことを知っているのだろう?
「あの……っ」
「やっと渋滞抜けたから、ちょっと飛ばすわよ」
──ひい!?
突然アクセルを踏まれ、シートに押し付けられたモモは続きを話せなかった。そして杏奈の表情もそれから一切尋ねる隙を見せず、やがてスピードが緩やかになった頃には、モモは昨夜の不眠と今日一日の緊張のせいで、いつの間にか眠りに落ちていた。
──公演の時にはお化粧もするのだろうけど……やっぱり十代の肌ってキメもハリもあっていいわね~髪も艶やかだし。
そうして信号待ちの停車時に、杏奈はモモの首筋の一束を手に取り、そっと撫でた──。
★次回更新予定は二日後の七月三十日です。




