[4]脅迫と誘惑
前回お伝えし忘れましたが、杏奈の名は「桃(色)」「桜(色)」と来ての「杏(色)」でございます(笑)。
しばらく唖然と傍観しているリンも含めて、四人の間には張り詰めた空気が流れていた。杏奈以外、誰もが声すら出せずにいたが、モモの頷きは「どうにか解放してほしい」と願うように続けられていた。
「どうも圧政が敷かれているようね……まぁいいわ。じゃ、また来るから」
杏奈はあっさりと諦めて背を向けた。スタイルも足取りも洗練されたその影が、プレハブの角を横切り消えてゆく。それを機に凪徒の立ちはだかる腕はようやく戻され、モモは良く分からない疲れたような溜息を吐いた。
「モモ」
「は、はい……」
凪徒が相変わらずの怖い顔をして、こちらを見下ろしているのは感じられる。けれどどうにも視線を合わせる気持ちになれずにいた──目の前で起こった今の事件よりも、昨夜の辛い一件から。
「もしあいつがまた現れても相手にするな。……いいな?」
「はい……」
そう一言答えてすぐに踵を返し、ぎこちない歩みで自分の車の方角へ身体を向けた。リンの目の前を通り過ぎると、彼女は凪徒に一度視線を向けてモモの後へ続いたが、心配そうに車の手前まで見送って自分の場所へと戻っていった。
──とにかく今日が休演日で良かった……こんな気持ちでブランコなんて出来ない……。
車中で自分の財布を手に取り、とりあえず気分転換にブランチでも買ってこようとサーカスの敷地から外に出た。陽の昇ったアスファルトの上は、もうジリジリとした暑さが漂っている。
徒歩五分程度のコンビニまで歩いただけでも、店内の涼しい空気に癒された気すらしてしまう──熱い陽差しと……あの緊張からも。突如現れたあの美しい女性は誰だったのか。何だったのか。理解出来たのは「サーカスへ来る前の凪徒を知っている」ということだけだった。
思えば凪徒の過去などまるで知らないことに気付かされた。どこから来て、どうしてブランコ乗りになったのか──長期休暇になっても戻る場所のないモモと同様どこにも帰省せず、いつも目の前に存在していた凪徒。モモ自身が余り他人の詮索をしない性分なので、自分から質問することがなかったことも一理あるが、周りのメンバーからも、凪徒の昔を手繰るような話を聞かされた覚えがない。
女性は凪徒の父親を「おじ様」と呼んだ。親類としての「おじ」なのか、中年男性としての「おじ」なのか。「動き出した」と言うからには存命であることは間違いないが、凪徒は実の父親を嫌っているような素振りを見せた──何故?
──訊いても答えてくれそうもないし、その前に質問したことすら咎めるように、あのデコピンが飛んできちゃいそうだ……。
ぼんやりと飲み物の棚を物色しながら、特に考えもせず目の前の烏龍茶に手を伸ばす。が、先に脇から現れた白く細い腕が、そのペットボトルを手にしてモモの眼前に差し出した。
「これでいいの?」
「え?」
ボトルの蓋をつまんだ指先には見覚えがあった。杏奈の真っ赤な爪──手から腕へ、腕から肩へ、モモより少し高い位置の顔を見上げて、思わず丸い眼を更にまん丸にしてしまう。
「待っていた甲斐があったというものね」
「……」
烏龍茶の向こうの派手な顔立ちが、ニヤリと微笑んだ。
モモは凪徒の呪いのようなあの言いつけを反芻して、無言で顔を横に向けた。更にガチガチになった身体も後に続ける。去らなければ──先輩に怒られる!
「モモちゃん……あなた、知りたくない? ナギの過去」
背後からの誘惑に、つい動かし始めた足を止めてしまった。
「話をするだけよ。夕方までに帰れば分からないでしょ? ちょっと付き合わない?」
──先輩の過去──。
おどおどした瞳を思わず自信に満ちた杏奈の瞳と合わせてしまう。それだけで既に術中にハマったも同然だった。烏龍茶を代わりに支払った杏奈はモモを真っ赤なコンバーチブルに乗せ、サーカスとは真逆の方向へ走り去った──。
★続けて次話を投稿致します。




