[3]ナギとアン 〈A〉
「えと……どなた、ですか?」
目の前の二十代半ばといったところの女性は、淡い紫色の涼やかなワンピースに、白いフリルの日傘を差していた。モモより短めの薄茶色い髪には緩やかなパーマがかかっていて、その透き通るようなきめ細やかな肌に良く似合っている。鮮やかなアイシャドウや真っ赤な口紅が大人びた印象を見せ、モモには自分とはまるで違う世界の人物に思えた。
「ナッギーって桜 凪徒のことでしょ? 彼に用があるの」
幾ら凪徒のファンが大勢いるとは言え、通常楽屋近くまで押しかけられるのは公演直後だ。こんな休演日に現れるということは凪徒の知り合いか? モモはその女性の整った面に釘付けになったまま、彼女の前に立ち上がった。
「ふうん、まぁ……いいんじゃない?」
──?
女性はモモの足先から脳天までを舐めるように見回して、一言呟きフッと笑った。
「あの……では、ご案内します」
気圧されてしまうような強い雰囲気を感じたモモは、つい身元確認もあやふやなまま凪徒の寝台車へ足を向けていた。急に大人しくなったリンも、その女性と共にモモの後に続く。
「少しお待ちください。呼んで参りますので……えっと、お名前は?」
モモは車の前で振り返り、その女性に再び質問をした。が、彼女が答える前に車のドアがスライドし、
「あ……杏奈!?」
モモの真上から影が落ちて、見上げた先に凪徒の驚きの表情が映った。
──アンナ?
「お久し振りね、ナギ」
日傘を肩に掛け、両腕を胸の前に組んだ不敵な微笑みの女性は、『杏奈』と呼ばれ答えた。モモは慌てて横に移動し、頭をぶつけないよう車から出てきた凪徒の横顔を見つめた。
「お前……何しに来た」
地面から響くような、説教をする時と同じ地獄の声。そしてその顔もいつになく険しい。
「あらん……相変わらずつれないのね。こうしてわざわざ出向いてあげたと言うのに」
その恐ろしい声で明らかな通り、歓迎されているとは言えない状況ながら、杏奈はおどける余裕を見せた。
「帰れ。ここはお前の来る所じゃない」
「そうね。そして貴方のいる場所でもないわ」
「──っ!」
形勢は杏奈の方に向いているようだった。この恐怖の説教声にここまで上を獲り、負けない人物が存在するだなんて──モモは二人のやり取りに声を出せず、そして身動きすらも取れなかった。
「……用件があるならさっさと言え。俺は帰らないがな」
凪徒の頬はすっかり強張り、焦りの色も見える。こめかみに夏の暑さとは違う汗も噴き出している。
一方杏奈は繊細なレースの日傘の下で、涼しげな表情を変えることはなかった。更に繋がる返しの一言。
「おじ様が動き出したの」
そう言って下唇に同じ色の長い爪をした人差し指を寄せ、ニッと笑った。
「おやじが……? いや、あいつとはもう無関係だ。そう伝えろ」
話は終わった。といわんばかりに車の屋根に手を掛け、凪徒は後ろを向いたが、その広い背に投げられた言葉にモモは一瞬萎縮した。
「おじ様の言葉は絶対よ。十月二十六日──『貴方は手の内に戻る』」
──え?
「アンっ!!」
凪徒が振り返り吼えた。今にも飛び掛かり首の骨でもへし折りそうな獰猛な顔を見せる。
「一体いつからそんな万年反抗期みたいになっちゃったのかしら? 今日のところはこれで引き下がってあげるけれど、近い内に屋敷に顔を出しなさい? それと……私を『アン』と呼ぶなら、昔の貴方に戻ることね、ナギ」
「くっ……」
何を言っても勝ちを獲れない凪徒の口元には悔しさが滲んでいた。話を終えた。といった様子で組んだ腕をほどき、日傘の柄を手に取った杏奈の艶めかしい視線は、おもむろに隣のモモに移っていった。
「彼女がそうなんでしょ? ──モモちゃん」
「え?」
思いがけず自分の名が飛び出し、金縛りのようなしびれから解き放たれる。モモはつい驚きの声を上げた。が、刹那──
「こいつは関係ない! モモに近付くな!!」
凪徒の長い腕が杏奈から庇うように伸ばされ、モモの身体の前に現れた。
「貴方が戻れば無関係とは言えなくなるかもしれないわね。まったく……そろそろ『結論』を出したら? ちょっと借りるわよ──大丈夫。今夜中に返すわ」
「よせ……モモ、行くな。行ったら、お前、分かってるな?」
──そ、それって……あの超高速デコピンってことですか!?
この深い因縁あり気な二人の攻防に、何故自分が巻き込まれているのか? 理由は全く分からないが、とにかくあのお仕置きだけは受けたくない! モモは同意を表わす頷きを、必死な眼を向ける凪徒に繰り返した──。
※凪徒は春の誘拐事件以来、モモにデコピンをしておりません。意外に真面目です。
★次回更新予定は七月二十五日です。




