[36]籠城と変貌
凪徒は予定通り高岡プランニングを訪れたが、予想通り人影すら見当たらず、正門も施錠されたままであった。無理に侵入してもセキュリティシステムが働くだけだ。早々に見切りをつけ、高岡邸へと再び走り出した。
五キロ程度のショートマラソンなら、息が弾むことすらなかった。携帯のナビを見つつ順調に進む。船を降りてからは一度も妨害されることはなく、このまま容易に辿り着けるものと思われた。──が、
「……ったく、何だよっ、またかよ!」
朝から大声を上げたくなるほどの『壁』がそこに立ちはだかっていた。ナビ上では明らかにその壁の向こうが高岡邸だ。入口だけが封鎖されているのであれば塀を乗り越えても構わないと思ったが、残念ながらその異様に高さのある壁は、おそらく邸宅を一周ぐるりと囲んでいる様子だった。
凪徒は面倒臭いといった表情で念のため周囲を見回ってみたが、橋の手前にあったあの金属と同様の板で、案の定全てが包囲され指すら入り込める隙間も見当たらない。
更に、
「何なんだ、ここんち、恐ろしく広いっ」
川岸からここまでのランニングよりも、壁を見上げながらの偵察一周の方が、時間も掛かった上に精神的にもどっと疲弊した。
──どうする? こんな壁に囲まれて、この家がこの件に関与していることは明らかだ。でもこれじゃ、中にも入れなければコンタクトも取れない。
凪徒は高岡邸の正門付近をウロウロしながらどうにも手段が見つからず、何も出来ないままついに立ち尽くしてしまった。
「あっ! おーい! 凪徒~!!」
そうしてフツフツと焦燥感を募らせていた彼の背後に呼びかけたのは、ようやっと抜け道を探し当てた暮達男性陣の一行だった。全員が揃っている。──この人数なら行けるか?
「いい所に来た、みんな! 手伝ってくれ!!」
路肩へ駐車した車両よりゾロゾロと出てきた内の肉体派から、順に足場を組んでもらう。やがて結構な高さの人間ピラミッドが出来上がった。が、凪徒よりも体重が軽く動きの敏捷な暮が、それを登って内部を偵察することになった。
「うーん……誰も見当たらないな~このまま飛び降りて、屋敷の中を探ってみるよ」
と、早速頂上から振り向いた暮が眼下の凪徒に叫んだ途端、
「あ、お客様でございますね? お待ちしておりました! いらっしゃいませ~!!」
「え?」
暮のちょうど真下から、若い女性の叫ぶ声が高らかに上がってきたのだ。確かに見下ろしてみれば、自分の影に当たるずっと遠くにメイドの格好をした女性が見上げている。
「お客って……あの、すみません! ここに早野 桃瀬はいるんですかっ?」
「お客様はサーカスのお友達でございましょうか~?」
質問の答えの前に質問が返ってきてしまう。──それもサーカスの『お友達』って……。
「珠園サーカスのピエロ、暮と申します! もう一度訊きます! 早野 桃瀬はここにいますか?」
足元を支える団員の背中がプルプルと震え出したのを感じて、暮は焦りながら質問をした。
「お嬢様は只今ご主人様と外出中でございますー!」
「お嬢様……?」
ここからでは埒が明かないと思い、暮は仕方なく壁の向こうへジャンプした。
「さすが、サーカスの団員様でございますねっ」
降り立った眼前の女性は胸の前で手を合わせ、暮の跳躍に興奮の様子だ。若い美人に褒められれば鼻高々ではあるが、そんな場合ではないなと早速核心に触れた。
「ご主人様ってのは高岡社長のことですか? モモをどこへ連れていったんです? まさか試験に合格してもう移送されてるとか……!?」
「試験?」
にこやかに微笑みを向けるメイド女性は、スパイ養成試験のことは知らない様子だ。
「クレ様と仰いましたでしょうか? そろそろケーキの焼き上がる時間でございます。どうぞ中庭にてお待ちください」
「いや、そんな時間はないんで! モモがどこへ連れていかれたのか教えてくださいっ!」
「うーん……そう言われましても~」
「おーいっ! 暮!! 何やってんだっ、分かったのか!?」
背後の塀の向こう、壁の僅かな隙間から凪徒の問いかける声が響いてきた。
「待ってろ、凪徒! ちーと事情が複雑なんだっ」
暮もそう叫び返して、再び女性に身体を向けた。
「どうしたら教えてもらえるんです? モモはおれ達の仲間だ。取り戻す必要がある」
すると今まで心の内を見せない微笑を湛えていた女性の表情がきゅっと引き締まり、暮の真剣な瞳と同じものをその眼に宿した。
「そのお言葉、長らくお待ち申し上げておりました。ではこちらにおいでくださいませ。ご案内致します」
──え?
背を向けた細い身体が屋敷の方へ歩み出す。暮はそこから感じる気迫にも似た力強い気配から、何も言い出すことが出来なかった。
後ろで待つ皆にも声をかけられぬまま、引き寄せられるように彼女の後ろを追いかけた──。
★次回更新予定は六月二十日です。




