[33]笑顔と抱擁
桔梗は腕時計に目を落とし、遠慮がちに部屋の扉をノックした。ややあって内側へ開いたそこには、ネグリジェ姿のモモが驚いた顔で立っていた。
「申し訳ございません、お嬢様。出発の時間が早まりまして、今からお支度をお願い出来ますか?」
遊園地に向かうとは思えない暁の時刻だった。それとももっと遠い別の場所へと考えが変わったのだろうか?
「構いませんけど……何かあったんですか?」
問いながらも今日のために買ってもらった衣服に手を掛けて、モモは桔梗を見上げた。彼女は少し困ったような笑顔で、「いえ、えーと……ちょっとお寄りになりたいところがございますとか……?」と首を傾げてみせたが、
「あの……『明日葉』お嬢様」
「え?」
しばらく『お嬢様』ばかりで『明日葉お嬢様』とは呼ばれていなかったモモは、少し違和感を覚えて手を止め、桔梗の正面に姿勢を戻した。彼女の表情は今までで一番淋しそうに思えた。
「おそらく……お出掛けになられましたら、ここにお戻りになることはないと思います。ですから、あの……この四日間、桔梗はとても楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました! どうかお元気でいらしてくださいませ……」
「えっ! あ、桔梗さん、遊園地に一緒に行かないんですか?」
涙混じりの別れの言葉に焦ったモモは、思わず桔梗の腕を握り締めた。そして彼女が『明日葉』と呼んだこと、本当に明日葉と共に過ごせたと、感じられたからこその言葉だったのだとモモは気付いた。
「はい。わたくし共は『お客様』をお迎えしなければなりません」
「お……客様?」
桔梗はただ頷いて、哀しみを隠した微笑みを湛えながら戻っていってしまった。
今日という一日がどう過ぎてゆくのか、モモは微かに胸騒ぎを感じずにはいられなかった。
☆ ☆ ☆
支度が整いダイニングに向かったモモは、佇む三人を見つけて朝の挨拶をした。既に桔梗はいつもの調子を取り戻している。明るく返された言葉に笑顔で応え、モモは花純の差し出す温かな包みを受け取った。
「お嬢様、車内でお召し上がりくださいませ。朝食でございます」
それすら後回しに出掛けるほど急いでいるとは驚きだった。高岡も二人のやり取りを確認するや腰を上げ、エントランスへモモを誘う。後ろに続く双子のメイドを振り返りながら、少女は戸惑いを隠せずそれに続いた。
「「お嬢様、またいつでも遊びにいらしてくださいませね」」
「花純さんも桔梗さんもお元気で。あの、サーカスも是非見に来てください!」
「「はい。『桃瀬』お嬢様の素晴らしい演舞を楽しみにしております」」
「え……?」
本当の名を呼び、そっと手を回して優しく柔らかく抱擁する二人に、モモは再度驚いて言葉が出なかった。こんなこと──いや二年前にも受けた筈だ。園長先生と施設のみんなから。でもそれはずっと一緒にいたからこその愛情溢れる別れの挨拶なのだと思っていた。たった四日間でも……きっと同じ愛情を注がれたのだ──『明日葉』として。『桃瀬』として。そう感じられて、本当に姉が出来たのだと心から思えた。目頭が熱くなって、危うくその場から動けなくなりそうになる。それでも二人の潤んだ笑顔に後押しされて、涙に濡れた絶品の笑みを贈り、運転手が回してきた車の後部座席に身を移した。
モモはシートの背もたれから顔を覗かせて、二人の見送る姿が見えなくなってもいつまでもその手を振り続けた──。
★次回更新予定は六月十一日です。
★以降は前回連載時の前書きです。
お付き合い誠に感謝しております♡
すっかり遅くなってしまいましたが、花純と桔梗の違いにつきまして(笑)。
自分達の事を花純は「わたくし達」と言い、桔梗は「わたくし共」と言います*
二人の台詞が重なる場合は、その台詞の主導権を握っている方の口調となっております(苦笑)。




