[32]川と導き
まだ夜も明けぬ内から鳴り響いた携帯のメロディ。既に目を覚まして窓越しに空を見上げていた高岡は、ゆっくりと近付き応答した。
「もしもし、随分早いね」
発する声は明るい。意外でもない声色から、連絡が来ることを察していたことが見受けられる。
「ふむ……そう。まぁ予定通りなんだろう?」
紳士は少し笑いを堪えるように向こう側へ尋ねた。応えに今一度笑みを零す。それから普段の落ち着きを取り戻して、「ありがとう」と感謝を述べた。
──あとどれくらい持ちこたえられるかな……。
肩幅ほど開いていた厚手のカーテンを端まで寄せて、依然僅かながらの日の出を見つめる。やがて一つ溜息を吐き、冷え切ったガラス窓を白く曇らせた後、シャワーを浴びに浴室へと向かった。
☆ ☆ ☆
──間一髪~!!
凪徒はギリギリのところで上手く受け身を取り、河川敷の草むらの斜面を転げ落ちた。小砂利が敷き詰められた川べりの手前で止まり、だるそうに身を起こす。
「何だよ、道こっちは川と橋か」
山のような金属板のこちら側には橋が架かっていたが、右端を跳び越えたために橋の欄干から外れた雑草生い茂る土手に落下となった。が、お陰で傷一つ受けずに済んでいた。
落ちてきた坂を登り、橋のたもとに立つ。三十メートルほど向こうの橋の終わりには同じ金属板が立てられていて、再びよじ登らなければ越えられない。しかし今度は踏切台になり得る物が見当たらず、先程よりも厄介に違いなかった。
──どうするか……越えられるのか?
凪徒は橋を進みちょうど真ん中まで歩み寄った頃、上流から一艘の船がやって来た。
「あっ! おーい、おっさん!!」
大声を上げながら手を振り、今一度橋を戻って下流側の斜面を駆け降りた。のんびり川の流れに身を任せ、笹舟のように流れていた長細い木船は、それに気付いて岸辺へ着けてくれた。
「悪いな、おっさん。この川、由倉の結上町まで行くか?」
七十半ばくらいだろうか。老齢の痩せ細った男性は朝っぱらから呼び止められたことに驚いた様子だが、投げられた質問に快く答えた。
「ああ~そうだね。結上ならちょうど通るさ。兄ちゃん、乗っていくか?」
渡りに船とはまさしくこのことだ。
「助かる! 宜しく頼むよ、おっさん」
早速乗り込んで真ん中に腰を掛ける。船は深く沈んだが、それでも意気揚々と走り出した。既に光に満ちた川面を包む空気は、モモに着実に近付く凪徒の誇らしい鼻先を撫でながら、水と草の匂いを漂わせた──。
★次回更新予定は六月八日です。




