[3]願いと春風
春先の夜更けの闇は肌を刺すように冷たい。上着を重ねてお気に入りの膝掛けも羽織る。準備万端、モモは他の女性達を起こさないように、そっと扉を開け外へ出た。
夕食前にお花見を堪能した敷地の角へ足を運んだ。あそこからは少々遠目だが、眼下に並木を一望出来る。モモは白い息を吐きながら、やがて自分の立っていた場所にのっぽの人影を認めた。
「……先輩?」
「ん? 何だ……眠れないのか?」
「先輩こそ」
まさか夕食前の暮の一言が気になって眠れなくなった。とは言い難いと、凪徒は目線を空へと上げた。
「あたしは夜桜を見に来ただけですよ」
少女は一つ笑みを零し、青年の隣でフェンスにもたれかかった。時間も時間なため既に見物人もなく、露店も布が掛けられて静かだが、街灯に照らされた桜は今も華やかだ。
「片付けの後にでも行ってくれば良かったのに」
相変わらずそっけない口調で返された凪徒の言葉に、
「これでもあたし、未成年ですよ?」
「『これ』じゃなくても、十分未成年って分かる」
更に重ねられた皮肉に、さすがにモモも頬を膨らませた。
「……お前、幾つになった?」
言葉には出さないものの抗議の姿勢は感じ取れる。凪徒はそれを視界の端に入れて、尚も気遣いのない質問を投げた。
「先月みんなにお祝いしてもらったばかりじゃないですか。先輩の六つ下なんですから、『これ』でも十七ですよ」
「ふうん」
「ふうんって」
モモは少しだけ拗ねた表情をして、闇色の景色を灯す桜の淡い白さに目を向けた。遠くを望めば等間隔に並べられた街灯に沿って、丸く切り取られたようなぼやけた光はまるで蛍のようだ。
一年前も、そのまた一年前も、同じように見た風景。それでも今年は隣に凪徒がいると思ったら、自然と口角も上がってしまう。──が、
「お前さ……も少し自然体でいろよ」
「えっ?」
唐突な凪徒の言葉に、モモは理解も出来ぬままそちらを振り向いた。
「? ……自然体でおりますけれども……?」
──そういうところが自然じゃないっつうの。
苦虫を噛み潰したような凪徒の顔が、先程のモモのように夜桜を見下ろす。
「何て言うかさ、幾らここに世話になっているって言っても、別に自分がしたいことを主張しちゃ悪い訳じゃない。無理する必要なんてないってことだ。やりたいことや言いたいことがあったら、俺や団長に言えばいい」
「やりたいこと……」
不思議そうに彼の横顔を覗くモモの真ん丸な大きい瞳から、彼女自身に自覚がないことは察せられた。でもきっと……自分でも気付かない内に、こいつは無理をしている。──凪徒はそう思った。
「あっ、じゃあじゃあ!」
「え?」
一呼吸置いて掛けられた大声に、身体の向きを彼女へ戻した。
「桜が満開になったら、夜桜見物に連れていってくださいっ」
「……そこへ?」
と、呆れたような驚きの表情で、指先を桜並木へ落とす。
「はい」
「そんなことでいいのか」
「そんなことでもないんですけど……」
半分デートの誘いみたいなものじゃないの、とモモはひっそり頬を赤らめたが、凪徒には皆目見当もついていなかった。でも──今一番やりたいことと言ったらそれに限られる。
「ま、いいけど」
「やった」
ヘの字の横顔に、ガッツボーズのモモ。その時吹いた風は柔らかながらひんやりと冷たく、モモは思わず目を瞑った。
「もう行くぞ。こんなんで風邪引かれたら俺が困る」
大きな右手がモモの髪をクシャクシャっと混ぜた──凪徒の癖。
「はーい。先輩、約束忘れないでくださいよ?」
「そんなの数日後だろ。幾らバカでも忘れるか」
並んで帰る後ろ姿に、まだ厳しさの残る春風が微笑み、そしてほくそ笑んだ。
それは叶わない約束かもよ? モモ。──と、妖しく意地悪そうに──。
★次回更新予定は三月十二日です。
『事件』は次回から始まります。どうぞお楽しみにしてください*