[2]サーカスと壁 〈N〉
モモ達の勤める珠園サーカスは、定期的に全国を巡回している。
この日はテントの設置作業も終わり、団員の移動も完了して、明日は設備の搬入作業、明後日の午前には公演が始まるという夕べだった。
今でも花形とされるブランコ乗りの二人でさえ全ての業務に携わるが、公演初日前夜は休むようにと諭されるので、決まってその前に夕食作りの順が回ってくるのが定番だ。
家族持ちはそれぞれの車やコンテナハウスで我が家のように寛ぐが、独身組は何事も役割分担や係の順番がある。彼女達もそれに従い、台所と化した車内にて十数人ほどの食事を調理し始めていた。
「おい、凪徒……モモの奴、今夜はやけにご機嫌だよな?」
鼻歌混じりにレタスを洗うモモの隣で、猫背になりながらキャベツを刻む凪徒。そうでもしないと車の天井に頭の付きそうな彼へ、暮はこっそり囁いた。
「ん? 知るか。どうせまたこの町の桜が見られたから、みたいな単純なことだろ」
暮がモモに関する質問を投げた時の、凪徒の反応は大抵こんな調子だ。
「まだ五分咲きなのに? 大体『桜』なんか毎日見てるだろう」
この後手酷い仕返しが来るのは分かっているのに、暮は凪徒を冷やかすのをやめない。案の定殺意の瞳で右手に持った包丁が振り上げられたため、暮は早々に退散し背を向けた。手を止めていたボールの中の挽肉を、慌てて捏ねくり回し始める。
──ふ……ん?
右耳から吸い込まれる鼻歌は、確かにいつも以上に抑揚があるな、と凪徒も横目を寄せてみる。流しの向こう側でトマトを櫛形に切り始めたモモは、そのまた向こうのコンロにかけられた味噌汁の火を止めて、再びトマトの元へ戻ろうと凪徒の方へ身体を向けた。その時感じた視線に思わず瞳を合わせていた。
「あ……」
「え、あ、いや、何でもないって」
慌てて手元のキャベツに集中したが、凪徒は少し動揺し、そして少し同情していた。本来なら同じ世代の女子達と和気あいあい調理をしたい筈だ。が、『練習』のため、モモは大概自分とのスケジュールに付き合わされる。と言っても、それは自分も同じことか? と思えば、そこは微妙な心境なのだが。
「暮さん、もう少しでご飯も炊けるみたいです。そろそろそれ、焼きましょうか?」
とモモはフライパンを片手に、暮の作り上げた大判ハンバーグへ逆の手を差し出した。
「いいよ、モモ。私が焼いて差し上げましょう」
暮は演じるピエロのように、しなやかな動きで腕を三日月型に反らせ、淑女に対する挨拶をした。珠園サーカスのピエロは話さない。だからこそ普段の彼はとびきりお喋りだ。
「そっか……お得意ですよね。じゃ、お願いします」
十代からここで世話になり、既に三十代も半ばになった独身男ともなれば、料理はお手のものとはいえ。フライパンを受け取りながら、それを誉め言葉と取って良いものか複雑な気持ちもあった。
それに──。
「モモは相変わらず……」
「え?」
──堅苦しいね。
そう言いかけた口元をすぐさまつぐんで、何でもなかったように笑みを見せた。
「あーいや、相変わらずモモは可愛いなぁと思ってね」
おどけたウィンクで返して、暮は早速二つのフライパンを火に掛ける。
「もう、暮さんたら、あたしにお世辞なんて言っても何も出ませんよー。じゃ、配膳してきますね」
上機嫌に輪をかけて車から降りたモモの気配が消えるのを待ち、凪徒は熱心に焼き加減をチェックする暮の横顔に助言した。
「あいつの口調は放っとけよ。根っからの真面目人間なんだろ」
「でもなぁ……」
胸の内を見透かされた暮は微かにうろたえながら、表情はいつものピエロのような切なさを含んだ笑顔で答えた。
「もう二年になるんだ。みんなに心開けてるのかなぁって、さ」
「……」
凪徒は何も言わなかった。
流しの上の車窓から見える遠く仄かな食堂の明かりに、彼もまた何かを思いながら、ただ視線を向けていた──。
★次回更新予定は三月九日です。
★以降は2014~15年に連載していた際の後書きです。
ツンツンな凪徒でございますが、ショーの時だけは愛想が良いですので(苦笑)、今回のイラストはヘの字顔ではございません(笑)。
前話のモモのイラスト同様、握っておりますのは空中ブランコのロープ、のつもりでございます(汗)。