[16]名庭と鉄棒
「お花が綺麗でございますね。お、おっ、おっ……おと、お父……さ、ま……」
モモは陽だまりの集まった広大な英国式庭園の中を、高岡紳士を横にしてゆっくりと散策していた。
「そんなに無理はしなくていいよ、明日葉。まぁ、こちらは勝手に明日葉と呼ぶけれど」
「はぁ……すみません」
とりあえず約束の交わされた本日限りの父娘ごっこのため、まずは明日葉が高岡を呼んでいたように努力してみたが、どうしても流暢には呼びかけられなかった。
「何も「お父様」と呼ぶ必要はないんだ。君はご自分のお父上をどう呼んでいるんだい? それと同じで構わないよ」
「……」
モモはその言葉に一瞬彼の優しい面を見上げてみたが、すぐに正面に戻し、進める足先を見下ろした。
──団長は、高岡さんに話していないんだ……。
話すべきだろうか? 心の中で少々の葛藤があったが、きっと近い内に分かってしまう。モモは自分で結論を出して意を決め、再び右に立つ彼に顔を上げた。
「あの……すみません……あたし、父親も母親も知らないんです……」
「えっ?」
そんな驚愕の事実に、さすがの高岡も足を止めた。
「生まれてすぐに門の前に置かれていたと、園長先生から聞かされました。サーカスに入るまではその児童養護施設で育ったんです」
「そうだったのかい……いや、これは知らなかったとはいえ大変失礼してしまったね。本当に申し訳ない」
高岡は潔く謝り、身体を二つに折った。長くその体勢から戻る気配がないのでモモも慌ててしまう。自分には当たり前のことであって、特に隠してきたことはなかったのだ。ただこのシチュエーションで告白するのには少し気が引けてしまっていた。
「どうかお気にされないでください。あたしは両親がいなくても、園長先生や施設のみんなや、学校の友達から沢山の愛情をもらえましたから」
その言葉でやっと身を起こした高岡は、僅かに気まずさを残しながらも安堵の息を吐き出した。
「それは良く分かる気がするよ、明日葉。君の笑顔はとても沢山の愛情を注がれてきた輝きが感じられる。きっとサーカスの皆さんにも愛されているのだろうね」
「そ、そうでしょうか……」
恥ずかしそうに再び俯いたモモの横顔に、微かな翳りを感じた気がしたのは何かの間違いか? 紳士はまだ咲き誇る時期でない蔓薔薇のアーケードをくぐりながら、ふと思ったが、
「あ、鉄棒! すみません……少し使ってもいいですか?」
突然元気な声を上げたモモの笑顔に、ひとまず心の凝りを拭い去った。
「もちろんだよ」
高岡の即座の返答でモモは勢い良く走り寄り、少し高めの鉄棒にぶら下がった。
──ふむ、さすが団員のことは良く分かっているんだな、タマちゃん。
団長に感心の想いを向けながら微笑む高岡。実はモモを預ける条件の一つとして、庭に鉄棒を用意することをお願いされていた。でなければこんな美しい庭園に、どう考えても似つかわしくない、校庭にあるような鉄棒が聳え立っている筈がない。
「休演日や休暇中には必ず鉄棒でイメージトレーニングすることにしているんです。これのお陰でブランコ乗りのテストにも合格出来ましたし、あたしにはお守り代わりと言いますか……」
「君は本当に空中ブランコが好きなんだね」
「はいっ」
モモはワンピースであることも忘れて反動をつけ、数回鉄棒を軸に回転した。それからその棒に腰かけて、眼下となった高岡を見下ろした。
「昨春の公演、本当は明日葉と一緒に君の晴れ姿を見に行く予定だった。少し前にサーカスのチラシが手に入ってね、あれを見た時は本当に驚いたよ。明日葉は元気にポーズを取る君の姿を見て、是非この目で動く君を見てみたいと、そのためにも絶対手術を乗り越えてみせると約束した。……だからこそね、私は君から空中ブランコを取り上げることはない」
モモはその温かな眼差しと言葉に、心臓が一つ、大きく強く波打った気がした。潤んだ瞳を揺らしながらただ無言で頷く。
少し高い位置となった視界から映る、淡い色彩の風そよぐ光景。それを真っ直ぐな気持ちと決意で、その眼にその胸に焼き付けた──。
★次回更新予定は四月二十一日です。




