[52]背中と相棒 〈N&M〉
プレハブの外には冷たい闇が漂っていた。それを斬り裂くように疾走する。時が止められるのなら、一刻も早く止めたいと願っていた。止めて……せめて何も悩むことなく共に舞い続けていた、一月前に戻りたい。
団長室の灯りは遠目でも晃々として、未だ話し合いがなされているように思われた。突然飛び込んで何が言えるというのか? 自分でも分からないまま、それでも前へ前へと繰り出される脚は、焦る気持ちと同じく先を急いでいた。
──ずっと……モスクワにいる間も、そんな問題を抱えていたなんて……きっと母さんにも言えなかった筈だ。誰にも言えずに……あいつは──
「あっ!」
──だからオールド・サーカスで、モモは俺と握手なんてしたのか?
突如気付いた『別れの挨拶』に、思わず足が止まっていた。
「ふざけんなっ!!」
何処にもぶつけられない怒りを自分自身に投げつけるように、髪を無造作に掻き上げて再び走り出した。まもなくという頃に団長室の引き戸が開き、モモだけが其処から現れて、凪徒に気付かないまま向こうへ歩き出した。
「──モモっ!!」
「え……?」
後ろから掛けられた名を呼ぶ悲痛な大声に、モモは振り返る間も与えられないまま、突然身動きが取れなくなる。
「せ、先輩!?」
──え……えと……これは、どういう状況なのかしら? んと……あの……後ろから、だっ、抱き締められてる……?
眼下に現れた自分を抱え込む凪徒の両腕に、モモは大きな瞳を白黒させてしまった。
「行くなよ……」
凪徒の掠れた声は、モモの左こめかみのすぐ横から聞こえてきた。
「あ……」
クロスして、両肩を抱き締めるスラリとした長い手が、ぎゅうっと力を込める。
「モモ……行くなって」
「先輩……」
緊張でガチガチに直立した状態のモモは、凪徒がどうしてなのか自分が退団することに気付いたのだとハッとした。
「し、心配をお掛けしまして、すみません……」
「んなのいいから!」
モモの困ったような謝罪の声に、何も出来ない歯がゆさと自分の不甲斐なさを感じて、凪徒はやにわに叫んでしまう。
モモはそんな凪徒の悲壮な言葉を切なく思いながらも、自分を必要としてくれていることに、喜びと感謝の気持ちで一杯だった。
「あたし……オールド・サーカスで、先輩とちゃんと飛べたら……きっと何処でもやっていけるって思ったんです……」
モモは拘束されたきつい腕の中で、僅かに右腕を上げ、凪徒の袖にそっと触れた。
「モモ……」
「この三年間、先輩に教えてもらった沢山のことは、きっと忘れることはないって。その知識とみんなとの楽しかった想い出さえあれば、その……パートナーが誰であっても……ちゃんと飛べる筈だって……」
「お前、俺を『相棒』だって言ったじゃないかよっ」
激しくなる声と共に、抱き締める力も強くなって、モモはそれでなくとも息の止まりそうな高鳴る胸から、心臓が飛び出しそうな気分だった。
「先輩、ありがとうございます。でも……あの、聞いてください──」
モモは凪徒の手首を柔らかく握り締め、あの団長室前ですれ違った後の出来事を、たどたどしく話し出した──。
★次回冬編更新予定は二月二十三日です。




