[46]帰国前日と帰国当日 〈M〉
とろりとした春のような陽差しが、モモの頬を照らしていた。瞼がそれを感じ取って、数回震えて瞳を見せる。しばらくそのまま微動だにせず、自分を包み込む温かさにまどろんでいたが、隣の気配に気付き、ゆっくり身体を反転させた。
「もう少し寝てても大丈夫だけど……良く眠れた?」
目の前には半身を起こした椿がいて、昨日サーカスで撮影した写真を嬉しそうに眺めていた。
「うん、ぐっすり。お母さんは?」
「私もよ。おはよう、桃瀬」
母親の笑顔は、朝陽の光よりも眩しく思えた。そして思い出す、昨夜の二人の会話。あの後、泣くのを我慢しながら、沢山のことを考えたことを。離ればなれになった母親と、こうして再会出来たのだ。きっといつか……凪徒とも再会出来る日が来る。だから先を考えてくよくよするのはよそう。そう思えたらあんなに止め処なかった涙も止まり、心地良い眠りに身を委ねられた。
「おはよう、お母さん」
モモも同じように上半身を立ち上げて、にこやかに挨拶をした。
それからカミエーリアの手伝いをして三人で朝食を取り、小一時間程たわいもない話で盛り上がった。凪徒の迎えもまもなくの頃、椿は昨日のようにしてあげようとモモの髪を梳き、少しアレンジを加え、ふんわりとしたお団子に白いシフォンの飾りをつけてやった。
「お母さん、ありがとう」
合わせ鏡で可愛い後ろ髪を確認したモモは、元気にお礼を言いながらも面映ゆい表情を見せた。モモは普段ショーの時でも髪をアップにしない。初めの頃は鈴原夫人にやってもらっていたが、開演前の忙しい最中に他人にお願いばかりはしていられない。自分でも出来ないことはないのだが、髪を降ろしたままでも特に問題はなく、意外に観客の反応も悪くなかったので、そのままで出演するのが常になっていた。
支度の整ったところで凪徒が到着し、しばし椿とカミエーリアにお別れをして、二人は前日と同じようにオールド・サーカスを目指した。途中モモは時々凪徒の横顔を見上げたが、彼の表情は特に何も示さず、昨夜のことは夢の中の出来事だったのではないかと、一瞬思ってしまう程だった。
「今日は二回転までにしておけよ!」
「はい~」
おっかない顔で諭されたモモは、苦笑いをしつつ凪徒の指示に従った。それでも演舞を終えた頃には観客席は総立ちで、やむことのない喝采がステージの二人に送られた。
サーカス・メンバーとは最後となる為、この晩の食事にはモモも同行し、英語の話せるニーナを隣にして、それなりに会話を楽しんだ。こっそりと誰にも聞こえないよう「自分は子供扱いをされていなかった」ことを伝えたモモに、ニーナは「ほら! やっぱりね」とウインクを投げた。二人はハテナマークを頭上に乗せた凪徒に、零れる喜びを隠せなかった。
宿に戻る前に凪徒とモモは、今一度椿の許へ立ち寄りお茶を頂いて、明日正午には再訪することを約束した。この晩も泊まっても構わなかったが、まだ土産が万全でない上に荷造りも出来ていない。そして何より代表的な観光地巡りも……モモは二人も誘ってみたが、「凪徒さんと楽しんでいらっしゃい」と椿はゆったり娘に微笑んでみせた。
☆ ☆ ☆
最終日である翌朝も、前日同様光に満ちた冬晴れだった。早目にチェックアウトを済ませ、残りのお土産分の空間を残した鞄をフロントに預ける。橋向こうのクレムリンに足を伸ばし、凪徒は懐かしく、モモは初めての好奇心を持って、幾つかの大聖堂や教会の荘厳な内部・宮殿や大統領府の整然とした外観を、少々足早ながら楽しんだ。
ギリギリ買い物を済ませる時間を残し、モモはおめでたの三人にロシアの人気キャラクター「チェブラーシカ」の人形やベビー用のTシャツを買い込んだ。ホテルへ戻って荷を受け取り、椿のアパートを目指すタクシーの中、はやる気持ちが心だけを先へ先へと飛ばしていた。
あと数時間、母親との最後の時──。
「お母さん!」
一昨日と同じくダイニングへの扉を押し開く。
刹那目の前に広がった空間に、大きな破裂音と色とりどりのテープや紙吹雪が舞った。
「えっ!?」
「桃瀬! 二日早いけれど……お誕生日、おめでとう!!」
開いたクラッカーを片手に掲げ、晴れやかな椿の笑顔がモモを迎えていた──。
★次回冬編更新予定は二月七日です。




