[45]思いやりと優しさ
椿は凪徒から視線を逸らし、目の前のテーブルに置かれたシルエットの美しいティーカップを手に取った。掌が紅茶の熱を吸い取って、ほんのり温かくなる。それは心という物が存在する胸の内の温かさにも似ているようだと微笑んだ。
「お心遣いをありがとうございます、凪徒さん。でも……そうは思っておりません」
「何故……?」
凪徒は今一度座していたソファシートから、真っ直ぐな眼差しと質問を投げた。
「確かに……あの子を置いていった一年以内には、必ず桃瀬を迎えに行って、このモスクワで育てたいと思っておりました。例え母が亡くなっても、私はもう日本に戻るつもりはありませんでしたから。けれどあの事故によって、私は神に諌められた……桜社長様と凪徒さんのお陰で、こうして娘と再会を果たせましたが、今はもうこちらで一緒になどと、思うことなどございません」
──お母さん……?
モモは聞こえる椿の和やかな口調から、不思議と清々しさを感じていた。
「あの子はこちらへ来たとしても、ニクーリンだけでなく、きっと何処かのサーカスで空中ブランコ乗りになれるでしょう。初めはロシア語が話せなくとも、友人も出来ると思います。ですが、やはり娘のいたい場所は、日本……今までお世話になってきた珠園サーカスなのだと思います」
「椿さん……」
凪徒は一度、顔の前で組んだ指の隙間から自分の足元を見下ろした。そして再び視線を上げ、椿の満たされた柔らかい微笑に焦点を合わせた。やがて姿勢を伸ばし、両拳を膝に戻す。
「モモを、自分……達に、お任せいただけますか」
凪徒の声も一本芯の通った力強さを内に秘めていた。
「母親失格の私が申し上げて宜しいのか分かりませんが、桃瀬をどうか宜しくお願い致します」
「あ……──」
二人のやり取りに、つい声が零れてしまう。モモは慌てて両手で口元を覆った。
「きっと立派なブランコ乗りにしてみせます。と言っても……」
──あいつはもう、俺を越えちまったか……。
答えながら、いつの間にか凪徒は苦々しい含み笑いと表情をしていた。椿もそれを感じ取ったように、
「今日の三回転で、凪徒さんがあの子に対して「自分を越えた」と思われたなら、それは間違いです。あの舞は凪徒さんが手を伸ばしてくださったからこそ完成されました。他のパートナーでは成し得なかったと思います。ですから……どうぞ、これからも娘を厳しく指導してあげてくださいませ」
「いや……そんな──」
「あの子がまだまだなことくらい、私にだって分かります。これでも『伝説のブランコ乗り』の孫ですから」
そうして椿はクスりと笑い、凪徒も釣られて口元を緩ませた。
「母親面出来る立場ではないことは重々承知の上ですが……あの子、サーカスの皆さんにご迷惑を掛けることなどございませんか?」
「いえ。娘さんは、もう立派な大人ですよ」
──先輩……?
椿の母親としての質問に、間髪容れずに否定した凪徒の言葉は、モモには意外に思われた。ずっと子供扱いされてきたと思っていたのに、凪徒は『立派な大人』だと答えたのだ。
「モモは誰にでも優しく思いやりを持って接してきました。他人の為にも自己を犠牲に出来る強い心を持っています。時々自分の方がよっぽどガキだなと思い知らされますよ……ですから。安心していてください」
「ありがとうございます、凪徒さん」
──違う……。
モモは唇を塞いでいた両手で顔全体を覆い俯いた。
──どうして先輩のこと「見た目だけが好きなんだ」なんて言葉に惑わされたの? 先輩はこんなに温かな目で見守っていてくれた。こんなあたしを認めてくれていた。本当は先輩の優しさ、ずっと分かっていた筈なのに──。
『春の誘拐事件』で、あんなに心配してくれて、必死にあたしを探してくれていた。
『夏の失踪事件』で、あたしの為に、行きたくない道も受け入れようとしてくれた。
先輩こそが思いやりを持って、他人のあたしの為に犠牲になろうとしてくれたんじゃない! 今回だって……どれだけの愛情を貰ったんだろう……なのに、あたしは──。
──先輩のことが……やっぱり、全部大好きだ……!!
涙の零れるスピードが速過ぎて、モモは全てを掬えなかった。
嗚咽になりそうな唇を噛み締めて、それでも波打つ肩は止められずにいた。
── 一緒にいたい。ずっと一緒に。ブランコに乗っていたい──先輩と!
何とか静かに身を返し、布団の中で身体を丸める。
──だけど……ごめんなさい、さよ……なら……あたしの初恋──。
椿が戻ってくるまでに、この涙の海は乾くだろうか……そんなことを心配しながら、モモは頬を濡らしたまま深い淵へと漂っていった──。
★次回冬編更新予定は二月四日です。




