[28]椿とツバキ
「凪徒さんの前で……こんなに取り乱してしまいまして、本当に失礼を致しました……」
それからひとしきり椿が泣いて、モモも抱き締めるように母親の腰の辺りにすがりつきながら、いつの間にか涙が止まらなかった。日本で椿はモモの父親のお屋敷で、お手伝いとして働いていたのだ。明らかに今の姿が生まれつきでないこと・こうなった原因がきっとモモを「迎えに行けなかった」理由なのだろうと思えば、どれだけ無念であったことか、想像も出来ない哀しみと苦しみだった。
「いえ……少しは落ち着きましたか?」
凪徒は二人が泣いている間、微動だに出来ないまま、その姿を見下ろしながら立ち尽くしていた。二人を引き裂いてきたこれまでの長い年月が、やっと近付き寄り添って重なった瞬間を、温かな眼差しで見届けていた。
しばらくして泣きやんだ椿がそれに気付き、恥ずかしそうにリビングに誘って、ソファとソファの間に車椅子の椿、その両側に凪徒とモモが腰掛け、椿は少しはにかみながら凪徒に謝罪したのだった。モモの右手は椿の左手をしっかりと握り締め、反対の手は赤らんだ鼻先を困ったように、ハンカチを押しつけ隠していた。
そのタイミングを見計らったように、案内してくれた女性が三人にお茶を差し出した。
「スパスィーバ(ありがとう)、カミエーリア」
「え?」
女性にお礼を言った椿の言葉に、凪徒は驚きの声を上げた。
「凪徒さん、ロシア語にお詳しいのですね。そう……彼女の名前も『椿』なんです」
「え?」
今度はモモが驚きの声を上げる。
「てっきり郵便受けの名前は、ロシア語での「椿」を意味する「カミエーリア」と、発音がそのままのロシア語表記で「ツバキ」なんだと思っていました。でもお二人共「オルロフ」って……」
凪徒が見つけた表札には「ツバキ・オルロフ」と「カミエーリア・オルロフ」の二行があったのだ。凪徒はそれをそう解釈し、このロシア人女性を単なるお手伝いか何かなのだと勘違いしていた。
「彼女もまたオルロフ家の人間なんです。私の従弟に嫁いだ方でした。残念ながら彼が若くして病で亡くなり、オルロフの家風が苦手だった彼女は、気の合った私の介助を買って出てくれまして、此処で一緒に暮らすようになったのです……私も、幼少の頃に日本に移住したものですから、こちらへ戻ってもあの家には余り馴染めませんでしたし」
と、椿は微かに苦笑しながら二人の経緯を話した。そして話題に上がった「オルロフ」。その家とは──。
「あの、家風って……「オルロフ家」とは、やっぱりあの「オルロフ」なんですか?」
凪徒は緊張の面持ちと絞り出すような声で問うた。モモはその様子を不思議に思いながら、声も出せずに椿の答えを待った。
「ロシアの歴史にも精通していらっしゃるなんて……頭の下がる想いです。……はい……私の家は……ロシア貴族の血筋を継承する家系……実際には途中で男系が途切れましたので、ダヴィドフ家から後嗣を迎えて引き延ばされた、名ばかりの伯爵家ではございますが」(註1)
「やはりそうでしたか……。いや、まさかこんな身近に、貴族の血を持つ方がいらしたとは」
感嘆の溜息を吐き出しながら、凪徒は笑みを零した。そして思う。杏奈のモモを見出したあの嗅覚。さすがとしか言えないな、と。
──き、貴族!? ……伯爵?
そしてモモは余りに途轍もない二文字二つに、慄きを隠せないまま口をあんぐり開けてしまった。──それが自分の中にも流れているってこと!?
「あの……何処から話したら良いのか分からないと思いますが、まずはうちの別荘を離れてからの、貴女の軌跡をご説明いただけませんか?」
「は、はい……」
凪徒の申し出に仄かな戸惑いを覗かせた椿は、深い頷きを返し、同じ表情をしたモモを振り返って、繋いだその手をギュッと握り返した──。
[註1]オルロフ家:現実に存在しますが、椿やモモとの繋がりはもちろん架空のお話です。そしてこれこそが、凪徒の気付いた通り、杏奈がモモに拘った原因・理由でした。
★次回更新予定は十二月十五日です。




