[11]距離と気持ち
「ごめん、待たせたな」
「ううん……」
禁煙席の一番角、窓際の端で、息を切らせてきた洸騎を見上げ、モモは首を振った。ファミレスに着いて三十分、お陰で少し心を落ち着かせることが出来た。
「お腹空いてる? ……それとも……『話』が先の方がいい?」
目の前に座った洸騎が上着を脱ぎ、早速尋ねる。
「ちょっと……お腹空いてきたかも……」
モモは以前のように本題を避けて逃げた。本当は空腹なんてちっとも感じられない。
「じゃあ、何頼む? 僕は……」
それでも注文した料理が並んで一口含めば、それなりに食事は進んだ。モモはその間何も喋らなかったが、洸騎が時々話す世間話にうっすらと笑みながら相槌を打った。
「さてと……茉柚子さんから話したって聞いたよ。本当は僕があの時話す予定だったんだけどさ、モモに逃げられちゃったから」
「ご、ごめん」
日曜のショーの後、洸騎に抱き締められた『あの時』──モモは身を小さく屈めて、洸騎の眼を見られないまま謝った。洸騎もまた、困ったように俯いた。
「気にするなよ。あんなこと、突然仕掛けて悪かったと思ってるから……こっちこそ、ごめん」
「……ううん……」
それからしばらく沈黙が続いたが、食後の珈琲と紅茶がやって来て、一息入れた洸騎がようやく口を開く。
「現状は茉柚子さんの言った通りなんだ。モモを巻き込んで悪いとは思ってる……でも──分かるよね?」
「……うん」
洸騎からも聞かされたことによって、これは現実なのだとまざまざと感じられた。けれどやはり気になってしまう──何故『自分』なのか。
「どうしてあたしなんか……あたし位のパフォーマー、きっと日本に沢山いる筈なのに……」
「そんなことないって! モモ程の天才、そうはいないよ! そのプロデューサーもさすが目の付け所が違うよなっ!」
「そうなのかなぁ……」
モモを『その気』にさせようとしているのか、洸騎の興奮した口振りに、モモは顔をしかめた。
「あたしなんてまだまだ……先輩の足元にも及ばないし……」
自分がプロデューサーであったなら。自分などより凪徒を引き抜くだろう。モモは心の片隅でそんなことを思った。──が、
「『先輩』ってモモのパートナーのことだよな。モモはそいつが好きだから、この街に戻りたくないの?」
「え?」
洸騎の微かに張り詰めた声質に驚き、モモは目線を上げ、正面の責めるような眼差しにうろたえた。
「ちがっ──」
「桜とかいうあの兄ちゃん、凄いモテるんだろ? モモも好きなの? だから──」
「あ、あの──」
「いいよ、弁解なんてしなくて。でも戻ってくれば分かる……そんなの一時の錯覚だったって。離れちゃえばきっと忘れるよ。ずっと傍にいるからそう思わされてるだけなんだ。だけど僕はモモを忘れなかった……二年半、幾ら会えなくても。就職して二年、今の職場で下っ端仕事ばかりだったけど、最近設計の勉強をさせてもらってるんだ。中卒だけど、会社は僕の中身を買ってくれた。それに応えたいし、周りの高学歴になんか負けたくない。ちゃんと将来を考えてるつもりなんだ。だから……良いよ、今はあっちの『返事』はしなくて。戻ってきて、僕を良く見て、それからでいい」
「洸ちゃん──」
モモは踏み込まれ荒らされた心の中を、自分自身で組み立て直せる状態でなくなった。──ずっと傍にいるから「好き」だと勘違いしている? そんなこと、あるのだろうか? 確かに先輩の見た目は十人並みを遥かに超えている──だから?
『だぁれが、モモなんて、あんなガキ相手にするか』
その時ふと思い出した。夏の、杏奈がやって来た前夜の凪徒の言葉。途端チクチクと痛み出す、胸の奥底。
「と、とにかく、劇団に移行する話はもう少し良く考えさせて……あたし、今、頭の中がこんがらがっちゃってて……」
──幾ら考えたって、受け入れる道は一つしかないのに……。
モモは再び延ばし延ばしにするだけの答えを吐き出して、ぬるくなった紅茶を飲み干した。自分を育ててくれた施設──ないがしろになんて出来る訳がない。
「クライアントは僕達に一ヶ月の猶予をくれた。数日前の話だから、あと四週間近く時間がある。それまでにゆっくり考えて。良い返事、“みんな”で待ってるよ」
「うん……」
洸騎はモモの辛そうな表情にいたたまれなくなったのか、自分から席を立った。釣られて立ち上がったモモをサーカスの入口まで送り、独り帰ってゆく寒そうに丸められた洸騎の背中を、モモは見えなくなるまで見つめていた──。
★次回更新予定は十月二十六日です。




