[1]桜と桃 〈M〉
【プロローグ】
「あっ……こ、怖かった……」
テントを駆け抜けて、いつの間にか敷地の境界まで一気に走っていた。胸に抱えた銃を思い出して慌てて手を放し、草の上に鈍い音が響く。
一昨日のようにフェンスにもたれて、桜見物の人の山をぼおっと眺めた。先程あんなことが遭っただなんて、嘘のように思えてしまう麗らかな情景が広がっていた。
しばらくして少女は一つ小さく息を吐いた。あたかも「落ち着きを取り戻さねば」と、自分に言い聞かせるように。それからテントに戻ろうと、銃を拾うため腰を屈める。
「お嬢さん、すみませんが化粧室はどちらになりますか?」
「え? あ、はい、それなら……」
突然頭の上から中年男性の声が聞こえてきて、少女は少し先の黒い革靴に目を留めた。説明しようと背を伸ばしたその時──
「うっ……」
首の後ろに衝撃が走り、目の前に星のような小さな光がチラチラと舞い散った。
──何? これ……──
「すまないね……少しだけお付き合いいただきますよ、『明日葉』」
頭上の声は次第に遠のいてゆく。気を失う寸前彼女が感じたのは、草の青い匂いだった──。
☆ ☆ ☆
──『少女』が襲われたその二日前──
「う──ん~~~春ですねぇ──」
そんなほのぼのとした声に、爽やかな風が一波なびいた。
一度ギュッと瞑った瞼を見開いて、再び薄桃色の視界を眼に入れる。甘さすら感じてしまいそうな暖かな陽差し。
──また「この季節」・「この町」にやって来た──美しい桜並木の続く高台の町。
「お前ね、そんな当たり前のこと、しみじみと言わないでくれる?」
隣に佇むスラリとした長身が、呆れたように片目を細めた。『少女』は楽しそうに彼を見上げる。相変わらずロマンティストではないぼやき──でも嫌いじゃない。
「先輩。あたし達の季節がやって来たんですよ? もう少し喜ばないと」
そう言って同じように片目を細めてみせた。肩にかかるほどの茶色の髪が、サワサワと後ろへそよいだ。
「お前はともかく、俺の季節じゃない。秋生まれなのに一緒にすんな」
「まぁまぁ……いいじゃないですか。ね? “桜”先輩」
「ふん」と機嫌の悪そうに見下ろしていた面を、ツンと元へ戻す。口元をヘの字に曲げながらも、真っ直ぐな視線の涼やかな横顔。いつもはこんなにとっつきにくい表情なのに、ショーが始まればにこやかな誰にでも好かれる美しい青年に変わる。そのギャップがたまらないのかな? と少女は密やかに苦笑した。
「おーいっ、おピンク兄妹~、夕飯の支度始めんぞー」
「くっ、暮さんっ!? 今、何て……?」
いきなり飛び込んできた驚愕の呼び声に、少女はたじろいて後ろを振り向いた。駆け寄る笑顔は「メイク」を落としたてなのか、いつになくさっぱりしている。が、一転少女の驚いた顔に動きを止め──いや……
「暮っ! お前なぁ──っ!!」
──動きが止まったのは、こちらのせいか……。
少女が「先輩」と呼んだ彼、桜 凪徒の怒りの形相が、「暮さん」こと、暮 純一の息の根を止めかねないほどだったからだと気付き、少女はまた別の意味での苦笑いをした。
「そんなに怒るなよ~凪徒! 『桜』に『桃』で、ピンク・コンビなのは間違いないだろうがっ」
「うっさい! そんないかがわしそうな呼び方すんなっ。第一、俺とこいつは──」
「「──兄妹じゃないっっ!!」」
少女と凪徒の否定の言葉が同時に響き渡った。
「おーっ、さすが名コンビだな」
暮のからかう口笛に、少し恥じらうように目を合わせる二人。が、そんな視線を逸らせて「ピエロ」役の暮を羽交い絞めにし、凪徒はキッチンカーに向けて歩き出した。
──兄妹か……。
少女は今一度、名所として名高い桜並木を振り返る。夕暮れを待ち焦がれるように空気がシンと引き締まり、フェンスの向こうの人波も、帰り支度の者・夜桜見物の準備を始める者と、次第に動きの違いが現れ始めていた。
──始まったのは、ここからだった。
三度目の春を迎えるこの場所──彼女の『今』のスタート地点。二年前、始まったんだ──「ブランコ乗り」としての人生と、そして……桜色みたいな淡い恋心。
「おーい! 遅れると飯抜きだぞー、“モモ”!!」
──いつか鮮やかな桃色になれるのかな……?
「はーいっ」
駆け出す背中に、一陣の風が桜吹雪を舞い散らせた。『モモ』と呼ばれた少女──早野 桃瀬の柔らかな髪を優しく掠めながら──。
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★次回更新予定は三月六日です。