恋とジャックローズ
長かった一日を終え、閑散とした裏通りを歩いていく。換気扇からごうごうと吹き出る風は生ぬるく、古びた油の匂いがした。新調したパンプスは、まだ硬く、一歩進むごとにゴリゴリと踵が削れていく感覚がする。
「鰹節ならぬ踵節……なんつって」
ふひっと我ながら気持ちの悪い笑みが溢れ、疲労困憊の四文字が頭に浮かんだ。いや、肉体的というより精神的に疲れた。
新人歓迎会と称された飲み会で、ヨイショされる新人たちと見栄を張る上司たち。その間に挟まれた私は、上司のグラスに気を配り、食べやすい料理を適量注文して、空いた皿を机の端に重ねるという作業を繰り返していた。お酒を楽しむ余裕も、料理も味わう余裕もなく、一軒目を終えた。二軒目に行くという話も出ていたが、たまったもんじゃないと酒に弱い後輩に紛れてそそくさと退散させてもらった。
「篠山先輩、今日もかっこよかったな……」
入社当時から私を気にかけてくれている篠山先輩。ルックス良し、仕事もできて、性格も良い。バリバリと仕事をこなす姿もさることながら、時折ネクタイが曲がっていたり、小さな寝癖がついている抜けた一面もずるい。ギャップ萌えとはこれか、と悶えたくらいである。
そんな篠山先輩に惚れている私だが、先輩の左手の薬指には年季の入った指輪がはめられている。つまり私は人様の旦那様に恋しているわけで、そんなの世間的に見ていけないことだし、叶うわけがないと思いながらも、好きという気持ちを捨てきれずにいた。
駅まであと少しというところで、先週まで売地と立て看板があった狭い敷地に、銀色のトレーラーハウスのようなものがポツンと佇んでいるのが目に入った。たどたどしい字で「ようこそ」と書かれた緑色のネオンが禍々しく輝いている。小さな窓からは、棚にぎっしり並んだお酒が見える。バーだろうか。普段なら絶対に入らないが、ヒリヒリ痛む踵を休めたい、美味しいお酒が飲みたい、自分のペースで邪魔されず楽しみたい。むくむくと湧いてきた欲望に逆らえず、恐る恐る扉を開けた。
「いらっしゃい」
私を出迎えたのは、綺麗な女の人だった。真っ白な肌に、サラサラなブロンドヘア。独特な雰囲気があるなあと思いながら、促されたカウンター席に座る。私以外に客はおらず、ゆったりとしたジャズ音楽だけが店内に響いている。
「モヒートと白カビのドライサラミと生ハムの盛り合わせをお願いします」
「はい」
細長く白い指が流れるようにお酒を作っていく。コトリと置かれたモヒートに口をつける。
「美味しい」
スッキリと爽やかな甘さが口に広がる。それは今まで飲んだどのモヒートよりも美味しかった。思わず目を見開きながらお酒を見つめていると、女の人はこちらを見てクスリと笑った。
ドライサラミと生ハムを肴に、テキーラサンライズ、ダージリンクーラー、ピーチブロッサムと様々なカクテルを味わっていくが、どれも過去一番美味しかった。程よく酔いも回り、そろそろ最後の一杯にしようかとメニューを吟味していると、ずっと無言だった女の人がじっとこちらを見つめてきた。
「わ、私の顔に何かついていますか?」
「ううん。ねえ、最後の一杯、私のおすすめ飲んでみない?サービスするから」
照明に照らされて、紅く濡れた唇がやけに色っぽい。「ねっ」と首を傾げた拍子に肩を滑り落ちていったブロンドの髪が流星群みたいだなあと思った。こちらを見つめる青い瞳から目が離せず、気づいたら首を縦に振っていた。
「お待たせ」
差し出されたのは、レモンが沈んだしゅわしゅわと炭酸が弾けるカクテルだった。口に含むと、ほんのりカカオの風味がする。
「さっぱりする」
「カカオフィズっていうカクテルなの。カクテル言葉は、恋する胸の痛み」
「え?」
「あなた、恋、してるでしょう」
何もかもを見透かしたように笑う女の人に、どきりと心臓が跳ねる。
「ど、どうしてわかるんですか?」
「さあ、どうしてだろう。しかも、その恋を諦めようともしてるでしょ」
バーカウンターから出てきた女の人は、ゆったりとした所作で私の隣に座った。その手には、唇と同じ色をした真っ赤なカクテルが握られている。ふんわりと香ってきたエキゾチックな香りに、嗅ぎ慣れない香水だなとぼんやりと思う。
「だって、叶わないんです。もう、奥さんもいる方ですし」
程よく回ってきた酔いが心地よく、ぽろりと誰にも相談してこなかった想いが溢れてしまう。
「それで?」
「え?」
「奥さんがいるからなに?」
きょとんとする女の人に、思わず口に含んだカクテルを吹き出しそうになる。
「問題大ありですよ、慰謝料請求されちゃいますって」
「え、そうなの?ちょっとまってね、私のほ……じゃなかった、私の住んでいる所とここ、ルール違いすぎるのよね」
そう言って彼女が取り出したのは見たことがないくらい端末だった。スマートフォンにしては薄くて大きすぎるし、タブレットにしては小さい。それとしばらく睨めっこしていた女の人は、やがて顔を上げて大きなため息をつき、呆れたような顔をした。
「こんなルールがあるなんて。好きなら好きでいいじゃない」
ふんっと鼻を鳴らした女の人は明らかに度数の高そうなカクテルをぐいっと呷った。
「私もそう思うんですけどねえ。まあでも、いい加減諦めていい人探そうかなと」
「いい人って、探して出会うものじゃないでしょう。出会うべくして出会うものなの。私が今の旦那と出会ったのも、こんな広い宇宙の何億という生命体の中から、奇跡的に出会えたんだから」
「生命体って」
独特な言い回しに思わず吹き出すと同時に、もっと話を聞いてみたいという願望がむくむくと湧いてくる。
「このカクテルを飲み終えるまで、私とお話ししてくれませんか。ぜひお話聞いてみたいです」
「あら、いいわよ。このカクテルがなくなるまでね」
綺麗なウインクを披露してくれた女の人とゆっくり語り合う。いつまでも話していたくなるほど楽しくて、最後の一杯を舐めるようにゆっくりと味わって飲んだ。最後の一口を飲み終える頃には一時間が経過していた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、楽しかったわ。センパイのこと、私にはルールとかよくわからないけど、応援してるわ」
「はい!アドバイスいただいた通り、好きという気持ちを無理に捨てるのはやめます。人の旦那さんを好きになったのは良くないことだけど、好きという気持ち自体は悪いものじゃないとわかったので。これからは、先輩よりも好きだと思えるようないい人と出会えるのを心待ちにして頑張ります」
「うん、いいね」
すっきりとした気持ちでジャケットに袖を通す。踵の痛みも引いてスキップできそうなくらい気持ちが軽くなった。お会計を終えると、レシートと一緒に星型の小さなキーホルダーを手渡された。
「今日、あなたという素敵なヒトに出会えたお礼」
「ありがとうございます」
キラキラと光るそれをカバンにつける。それを見届けた女の人はゆっくりとお店のドアを開けてくれた。
「また、来てもいいですか」
一歩外に出てから振り返ると、女の人は困ったように笑った。
「奇跡を信じるしかないわね」
「なんですか、それ」
「ほら、そこ足元悪いから前見て歩きなさいな」
「はあい」
ぺこりとお辞儀をしてから、私は女の人に背を向けた。数歩歩いた時、熱い風が一瞬背中を押した。振り返ってみると、そこはただの空き地で、売地と書かれた看板だけが斜めに突き刺さっていた。
先程までのバーはどこにいってしまったんだろうかとか、さっきまでの出来事は夢だったのかとか、そんなこと
は思わなかった。考えてしまったら、さっきまでの楽しかった時間が難しいものにすり替わってしまうような気がしたから。今はただ、楽しい時間だったなという余韻で胸が満たされていれば、それでいいのだ。
駅までの道のりで、女の人が飲んでいたカクテルはなんだったのかと調べる。調べると案外簡単に出てきた。
「へえ。ジャックローズ。恐れを知らない元気な冒険家、かあ」
そっと空を見上げる。街灯のせいで、小さな星々までは見えないけれど、それでも大きな星たちがキラキラと輝いている。
「また、会えるといいな」
軽くなった足取りで駅の中へと入っていく。カバンにつけられた星が小さく揺れて輝いた。