薬物依存
薬物依存
「美和さん、指名です」
毎日…当たり前のように龍也がこのお店「will」に顔を出すようになった。
そして、私も龍也が来るのを待つようになっていた。
12時の閉店間際…龍也は駆け込むように来店する日もある。
そんな日は何か有ったのではないかと、他の席で接客していても私は気が気ではない。
「気持ちは分かる…でもそれを良いとは私は言わないわ。美和、自分の仕事をちゃんとしなさい」
そう泉ママから小言を貰ったこともある。
例え龍也が早い時間から来ていたとしても、今では指名のお客さんも増え、以前のように龍也だけの席で気楽に飲んでいることも許されない。
自分が何者であろうと、すべてを許し受け入れてくれる街…この新宿二丁目に骨を埋め、この街に染まることが一番の目的だったはずなのに…今は龍也だけの為に、どこか静かな街で暮らすことを夢見始めていた。
龍也はどう思っているのだろう…。
私を女として見てくれているのだろうか…。
こうして毎日顔を合わせていると言うのに、話す事は昔の仲間の噂や思い出話ばかり。
話が尽きた時…それでも龍也は私に会いに来てくれるのだろうか…。
嬉しさと不安が、日々私を追い詰めていく。
「ようっ」
疲れた顔の龍也がその席で待っていた。
「なんかやけに疲れてない?」
今では暴走族時代の上下関係さえも取り払い、言葉の使い方にも遠慮はなくなっていた。
「寝てねぇんだよ」
「もう…こんなとこ来てないで家で寝なよ」
「ヤクザはよ、遊ぶのも仕事なんだよ」
私の小言に龍也が笑いながら答えた。
龍也と再会し、3ヶ月の時間が過ぎていた。
その3ヶ月で龍也は日に日に疲れていく様に見えた。
おそらく体重も減っているのだろう…。
「ご飯食べてるの」
「この店に来る金を作るのに必死で飯なんか食えねぇよ」
それが冗談だと分かっていても、私の心は少しだけ痛む。
「だったら部屋に来れば良いじゃない」
私なりの本気の誘い。
「ク、ク、ク…チンポの付いてる女と寝るのかよ」
笑いながら言う龍也…。
「何も泊まって行けとは言ってないでしょ」
頬をふくらませながら私も笑った。
笑ったけれど、私の心は傷ついた。
結局、龍也にとって私は弟のままなのだと思い知らされていた。
「すきあらば寝込みを襲うつもりなんだろ」
「もちろんすきが有れば襲うわよ」
龍也との会話は面白い。
何一つ気を使うこともなく、今では遠慮さえ必要ない。
何を言われても頭に来ない…何を言っても叱られることもない…ただでさえストレスの多い日常の中、それほど貴重な存在はないとさえ言える。
私の中の龍也が想像も出来ない速さで膨らみ続けていた。
「美和、出勤の前に私の部屋に寄って」
泉ママからの電話。
初めての事だった。
私は急いで身支度を整え、言われた通り泉ママが住む摩天楼の様な豪華なタワーマンションへと急いだ。
初めて招かれた泉ママの部屋…ほとんどと言っていいほど生活感が無い。
日本人が座るには明らかに大きすぎる革のソファーセット、そのソファーが毛足の長い絨毯の上にポツンと置かれている。
100インチはあろうかと言う壁掛けのテレビ、ダウンライトの間接照明…不必要なものなど何一つ見当たらない…トレンディドラマの中でしかみたことのない様なリビングに足を踏み入れ、私は只々圧倒されていた。
「なにハトが豆鉄砲食らったみたいな顔してるのよ、どこでも良いから座りなさい」
泉ママに言われ、私は我にかえった。
「なんかすごいお部屋でびっくりしちゃって…」
ようやく絞り出した言葉…。
「あなたも進む道を間違わなければすぐにこんな部屋にも住めるわ」
素直にその言葉を信じられる私がいた。
「はい、沢山頑張って一日も早く今のお部屋を卒業します」
「あら、今のマンションはそんなに嫌なの」
泉ママが軽く私を睨む。
失言だった…今の私の部屋は行き場のない私に貸してくれママの所有物なのだ。
「いえ、そうじゃなくて私も頑張って泉ママの様に広いお部屋に住みたいって」
しどろもどろになる私。
「それに古いしね」
「そんな事…」
「でもね、あの部屋を誰かに貸すのはあなたが初めてなのよ…あの小さいコンクリートの箱の中で、私は親分と長い間二人で暮らしていたの」
「えっ、二人で…」
私一人でも狭いあの部屋で、泉ママと親分が二人で暮らしていたなんて…とても私には信じられなかった。
「ヤクザなんてね、一番上まで登りつめなきゃいつだってお金が無いのよ。私と親分が必ず二人でこの新宿の頂点に立つって、塩を舐めながら夢を抱いたお部屋…あなたじゃなきゃ今だってあの部屋は誰にも貸さなかったわ」
そうだったんだ…だから親分は私の部屋を知っていたんだ。
私は感動に震え、マスカラを溶かした黒い涙が一筋頬を伝った。
「そんな大切なお部屋を私なんかに…」
「ダイヤの原石…そんなものを私も磨いてみたい…そう思っただけよ」
嬉しかった。
暴走族時代、喧嘩の弱い私は「ヒヨコ」「チキン」と周りから馬鹿にされ、龍也がトラッドライダースを去った後、私は誰とも関わらずたった一人で自分の心の闇を抱えて生きて来た。
その私を…泉ママはダイヤの原石と呼んだ。
私はそれだけで天にも登る喜びを感じていた。
「今日、あなたに来てもらったのはね…」
その喜びに浸っている私を、泉ママは奈落の底へ突き落とすほどの重大な事を話し始めた。
「龍也くんのことだけど、何か不健康な事をやっている素振りはない?」
「不健康…ですか?」
私は泉ママに聞かれた事が分からなかった。
「本当にこの子は…どこまで初心なんだか」
泉ママの呟きに、私は下を向くことしか出来ない。
「あんた薬物は…?例えば覚醒剤とか」
私は泉ママの問い掛けに、しっかりと目を見つめたまま首を横に振った。
「まあ、そうでしょうね。じゃあ薬をやってる知り合いは?」
そう聞かれ、私は記憶の中のいくつかの顔を、頭の中に浮かべた。
「暴走族の時に何人か…」
私は素直に答えた。
泉ママが「よしよし」とでも言う様に何度も頷いた。
「その人達って、何か共通点が無かった?」
「共通点…」
「そうよ、同じ様なところ…顔とか匂いとか肌の色とか…そういう人達を見て何か感じる事はなかった?」
言われて見れば…。
「みんな急に痩せちゃって、頬がコケてきて…」
泉ママが大きく頷いて話の先を急がせた。
「目の下に隈が出来て…」
「それで…」
「独特の匂い…みんながネタくさいって…」
「分かってるじゃない」
茶化すような口振りでも、泉ママの目は真剣だ。
「龍也くんはそこに当てはまる事はない?」
泉ママに言われ、私はハッとする。
確かに龍也は近頃体重も減り、いつも疲れたように目の下にも隈を作っている。
でも…龍也に限って…。
「それは誤解です」
私は毅然として言った。
「どうしてそう言えるの?」
泉ママが問い返す。
「龍也は薬物が大嫌いなんです」
「どうしてそう思うの?」
「どうしてって…」
どうして泉ママはそんな事を言い出したのだろう…。
もしかすると、私と龍也が仲良くなり過ぎることに懸念を抱いてるのだろうか。
「薬物が嫌いって、龍也くんからはっきり聞いたの?」
そうだ、私は「薬をやる奴は絶対に許さない」と龍也からはっきりと聞いたことがある。
「はい、聞きました」
「いつ、どこで?」
もう良いじゃ無いか…私は心の中でそう思っていた。
「暴走族の時…私が所属してた大きなチームが二つに割れて、大きな抗争になったのは前に話しましたよね」
「聞いたわ」
アンニュイな感じで泉ママが言った。
「その抗争の原因が覚醒剤だったんです」
「教えて」
「グループのリーダーだった人が、覚醒剤とかシンナーを売っていて、それを知った龍也が止めさせようと説得して…」
「相手が言う事を聞かなかったのね」
「そうです」
どうだ…と言わんばかりに、私は胸を張って泉ママに返事をした。
「でも、それは10年も前の話でしょ?」
「そうですけど…」
泉ママはどうしてこんなにも執拗なのだろう…。
「ねえ美和、人は変わるわ…今の龍也くんが絶対に覚醒剤をやってないって言い切れる?」
即答出来なかった。
泉ママに言われ、もしや…と言う気持ちがあったから…。
それにしても…どうしてって泉ママはそんな事に拘るのだろう。
龍也はヤクザだ。
法律の裏をかい潜り、裏社会で生きてる人間が何をしようと勝手じゃないか…と言う思いが私にはあった。
例え龍也が覚醒剤をやっていたとしても、お店に来るタチの悪い酔っ払いより、余程マシではないかと思う私もいた。
「龍也は…覚醒剤なんて絶対にやりません」
それでも、私の口からこぼれ落ちたのは龍也を擁護する言葉だけ。
「信じたい気持ちは分かるわ…でもね、人の頭の中は壊れてしまった後では手遅れなのよ」
なんと言う言い方だろう…。
いくら泉ママでも…。
「ひどい…龍也は壊れてなんかいません」
私は抗議の言葉を口にした。
その言葉に、泉ママは大きく首を横に振った。
「あなたは薬の怖さを知らないからそう思うのよ」
「薬の怖さ…」
「私がどれだけの間ヤクザの女をして来たと思う?いいえ、何年この新宿で生きて来たと思う?数え切れないほどの薬物依存者と、数え切れないほどの薬物による廃人を見て来たのよ」
「でも龍也は…」
「やってるわ!」
みなまでは言わせない…と言う泉ママの声…。
それは叱責にも近い。
それでも私は怯まない。
「やってません!龍也は絶対に覚醒剤なんかやるような人間じゃ有りません」
私の必死の抵抗に泉ママの顔が曇った。
「どれだけたくさんの人を見て来たか知りませんけど、いくら何でも酷すぎます…確かに龍也は近頃疲れた顔をしてるけど、それだけで龍也が覚醒剤中毒かどうかなんて分からないじゃないですか」
どうか違って欲しい…そう願う私の心が言わせわせた言葉だった。
「分かるのよ」
「えっ」
「美和…」
泉ママはそう言って、ハンカチを握りしめていた私の手をとった。
そして私の目を見つめ、とても悲しい声で言った。
「分かりすぎるくらいよく分かってしまうの…私が長い間薬物依存者だったから…そして、今も薬物依存で苦しんでいるのよ」
泉ママの瞳の潤いが表面張力を失い、頬を伝って私の指先にポツリと落ちた。
私は怯えた目で、泉ママの顔を見ていた。