黒いウサギ
希望の森小学校。桜並木と住宅街と田んぼが点在する緑豊かな学校。ビルとマンションが立ち並ぶ都心から住居を移し、僕は5月からそこに通うことになった。
その学校には誰でも使える連絡版という昔ながらのコルクでできた掲示板がある。
昇降口を入ってすぐにある掲示板は誰の目に入ることから、そこには各学年のお知らせや学校の行事のプリント、職員室に届けられた忘れ物や落とし物の写真など様々なものピンで留められていた。
僕が使うとしたら給食の献立の確認や、学校内での集合場所に使うくらいだ。
ある日、家に帰ろうとげた箱へ向かった時、連絡版に可愛らしい動物のデフォルメ絵が描かれた柄のメモ用紙が貼られていることに気づいた。そのメモにはこんなことが書かれていた。
『中庭の黒いウサギを探しています。見つけた方は写真をここにお願いします。』
丸みを帯びた手書きの字。漢字とひらがなの崩れたバランス。
貼られたメモには名前は書かれていなかったがこれは明らかに先生たちが書いたものではないことは僕でも分かった。
この連絡版を初めて先生以外が使っているところを見た僕はそれがとても印象強く残っていた。
しかし、家に帰るとそんなことは頭から吹き飛んでいて、お母さんが用意してくれたご飯を食べて、テレビにゲーム。お風呂に入った後には疲れからすぐ寝てしまった。
次の日の朝、いつものように起きて朝食を済ませ、学校へ行く用意をして家を出る。
僕は一人で昇降口に入る。みんなは集団で登校しているが、僕は一人だ。小高い丘の上にあるこの学校からはこちらへ歩いてくる黄色い帽子の列が良く見える。家の中では気楽に飾らずに振舞えるけど学校では別だ。だらしないところは見せられない。しばらくして教室に入る。みんなに挨拶をするが挨拶は返ってきたりこなかったり。僕の席は黒板正面の一番後ろ。ただ先生の教える姿をじっと見て、聞いて重要だと思う所をノートに書きこんでいく。たまに先生は黒板に書いた問題が分かる人を聞いてくるが、僕は分かっていたとしても手をあげることはない。授業では目立たず、騒がず、そんな日々が続いている。
学校生活が始まって3日が経った。僕はまだクラスの誰とも打ち解けられてはいなかった。原因は分かっている。自分の顔のせいだ。
釣り目で目が細い自分の顔はいつも何かを睨みつけているように見える。それでみんなを怖がらせてしまっているのだ。自己紹介の時もみんなの表情を見ていくたび目を逸らされた。これは前の学校にいた時もそうだったので傷つきはしなかった。業間休みの時間もただ椅子に座って、楽しくはしゃぐみんなを見るだけで、誰にも話しかけようとしない姿に、担任の横溝先生にもう少しみんなと積極的に関わりを持ってみたらどうだと言われた。自分だってみんなと遊びたい。だけど混ぜてもらおうと声をかけた瞬間のみんなの表情を見るのが怖くて、どうしても自分から声をかける勇気が出なかった。
そうして今日もまた一日が過ぎていく。放課後、誰もいない6年3組の教室を見て、少し落ち着く自分がいる。今のままではいけないと分かっているのに心は正直だ。どこの教室も人っ子一人いないこの状況は異質に感じるはずなのに、僕はもう慣れてしまっていた。ぐるりと学校内を一周した僕は今日も変わらず自分のげた箱へ向かう。そこでもう一度、僕はあの手書きで書かれた動物柄のメモが目に入った。
『中庭の黒いウサギを探しています。見つけた方は写真をここにお願いします。』
貼られている場所も字も変わらないのに貼られたメモはどうしてか自分の視界に深く入ってくるのだ。
僕は校舎裏で飼われているウサギとニワトリの飼育小屋へ足を伸ばした。5匹のニワトリと4匹のウサギは別々に小屋に入れられている。この子達のエサやりは小学5年生の飼育委員が行っていると聞いた。ニワトリたちは僕の足音に気づいて群がってくるが、ウサギたちは逆に穴の中から一匹も出てこなかった。
「これじゃあ、黒いウサギがいるか分からないな。」
手を叩いても、声をかけてもウサギは一匹出てこなかったので今日は諦めて帰ることにした。
明日の昼休みに訪れよう。きっとお腹を空かせていれば穴から出てくるに違いない。
次の日がやってきた。今日は学校に一番に到着した。誰もいない学校を歩き、自分の机に荷物を置く。ふと気になって裏口のウサギ小屋を見に行くが、やはり一匹も出てこなかった。
ニワトリだけが元気に首を振りながら朝を告げる鳴き声を響かせていた。
昼休みが始まり、クラスの男子は颯爽と運動場へ駆け出していく。運動場のサッカーのゴールにはかぎりがある。ここでは学年とは別に早いもの順で決まる。それでゴールの取り合いにならない所はこの学校が規律正しく優しい子供が多いと言われる所以かもしれない。ゴールが取れなかった子たちは野球のベースを使ってキックベース。ジャングルジムを使ったドッジボールをしたり色々な遊びで遊んでいた。都会では考えられないような広い土地だからこそ、遊具はいっぱい置いてある。昔、僕が通っていた学校ではありえない光景だった。
僕はそんなクラスの男子たちの背を見送って、裏口のウサギ小屋へ向かった。そこには飼育係の2人が各々の小屋に入り、エサを与えていた。僕はウサギ小屋の様子を外から眺めていた。飼育小屋の扉の上に作られた棚にウサギ用のペレットの袋が置いてある。ウサギ4匹は夢中で目の前に置かれたペレットに噛り付いている。その無邪気で愛くるしい姿にしばらく見とれてしまう。
「あのう。なにか間違っちゃいましたか?」
中にいる飼育係の女の子がおずおずとした様子で外からウサギを見ていた僕に訪ねてくる。
「いや、何もないよ。ただ見ていただけだよ。ごめんね。気にしないで。」
僕がこうして癒されている姿も、はたから見れば愛玩動物を睨みつけているように見えるのだろう。飼育係の女の子がその視線が何か悪い事をしてしまったと思ってしまうほどにだ。そのような誤解はありつつも四匹全てのウサギを見ることが出来たが、黒いウサギはいなかった。一匹は黒い斑点模様ではあったが、体の8割は白い。あれをどう見たって黒いウサギというには無理があった。
僕は勇気を出して女の子に尋ねてみた。
「ここに昔黒いウサギっていたことはあるかい?」
「ううん。見たことがないよ。私1年生の時からこの子達の事ずっと見てきたもん。やっとこの子達の世話が出来てうれしいんだ。」
女の子はペレットを棚にしまいながら楽しそうに答える。やはり、ここには黒いウサギはいないようだ。
僕は隣のニワトリ小屋の様子も確認した。男の子が給食のコッペパンを細かくちぎってはニワトリに投げていた。
「ニワトリが砂を食べちゃうから、きちんと木皿に入れるんだぞ。」
僕がそう言うとパンを色々な方向へ投げていた飼育係の男の子の動きが固まった。
「ご、ごめんなさい。パンを追って走る姿が面白くて、つい…。もうしません。」
軽く注意しただけで何やら泣きそうになっている。一体自分はみんなにどのように映っているのだろう。やはり、覚悟をしていてもこの反応は傷つくものがある。
これ以上ここにいるのは気まずかったので、僕はニワトリ小屋を離れた。そして昇降口に戻り、もう一度あのメモを確認する。
『中庭の黒いウサギを探しています。見つけた方は写真をここにお願いします。』
この学校には黒いウサギは存在しない。そして場所は中庭だ。校舎裏ではない。中庭には数えきれないほどのコイが飼われているが、その他に動物はいない。いつかは忘れたがどこかの誰かがこのコイのいる池に大きな亀を放して騒ぎになったことがあると先生は言っていたが、黒いウサギも山の方から野生のものが下りてきたのかもしれない。ここは田舎だ。タヌキやキツネは道路を歩いているとたまに見かける程度には田舎だ。野ウサギが学校へ迷い込む可能性はなくはない。僕は疑問が晴れないながらもそれで納得させていた。
その日も僕は何事もなく午後の授業を受け、皆が帰るまで自分の机でただ黙々と宿題のプリントと明日の予習をしていた。遅くまで残る先生や見回りをする先生に挨拶をして、今日もまた家路へと帰る。げた箱に着くとあのメモの下に、担任の横溝先生とウサギ小屋の4匹のウサギが写った中庭の写真が貼ってあった。黒いウサギは写ってはいないが、これで満足してくれるだろう。僕はそう思っていた。しかし、その翌日思いがけないことが起こった。
次の日の朝、連絡版には特に何も変化はなかった。僕はみんなより学校に来るのが早い。だからメモを残した本人がこの写真を見ていなかったのだ。僕が変化に気づいたのは放課後になってからだった。
自分のクラスへ戻るためにふらっと立ち寄った連絡版に横溝先生の写真を隠すように上からまた同じようなメモが貼られていた。
『私は5匹目の黒いウサギを探しています。黒いウサギだけが写っている写真を貼って下さい。』
メモを貼った本人は満足いかなかったようだ。同じような筆跡、1枚目と描かれている動物柄は違うが絵柄は似ているメモ用紙。間違いなく1枚目のメモの主が書いたものだった。これはイタズラでも遊びではない事を知った僕は衝撃を受けた。その筆跡は女子特有の丸く薄めの文字なのに強い意思を感じる字だった。僕は置き忘れた自分の荷物を取りに教室へと戻る。誰もいないと思っていた教室には担任の横溝先生がいた。僕は勇気を出して、先生に写真とメモの事を話した。すでに先生は知っているようだった。先生は窓から遠くを見つめるばかりで、僕が聞いても何も教えてはくれなかった。次の日朝、連絡版には、新しく貼られたメモと四匹のウサギの写真は剥がされていた。
ただ、連絡版に右隅には変わらず、
『中庭の黒いウサギを探しています。見つけた方は写真をここにお願いします。』
と書かれたメモだけが残っていた。
メモが書かれ始めてから1週間。中庭の地面の白詰草が生い茂り、緑と白で彩られたある日。ずっと貼られていたあのメモに変化があった。
それは僕が登校時に連絡版を確認した時だった。右隅に貼ってあったメモの字が誰かによって鉛筆で塗りつぶされていたのだ。元のメモも鉛筆で書かれていたものだから元に戻しようがなかった。そしてその日の朝の会の後、貼ってあったメモは掲示されていたプリントの入れ替えと同時に剥がされた。メッセージが読めなくなってしまってはそうならざる得なかった。
次の日の朝、ポカンと空いたあのメモのあった場所を見て、僕は何故か喪失感を感じていた。あのメモの存在は僕にとって異質でそして特別なものになっていた。無くなってから気づいたのだ。どうしてもっと真剣に考えなかったのだろうと。どうして行動出来なかったのだろうと。誰からも相手にされず、先生が苦肉の策で貼った写真も一刀両断に切り捨てたあの強い意志の対して、何故答えられなかったのだろうと。僕はあのメモの謎を解きたいと強く思った。
僕はその日から黒いウサギを探し始めた。喋りかけるのが怖くてたまらなかったはずの僕はクラスの男子のリーダー的存在に話しかけた。そのリーダーから徐々にクラスの男子に繋がりは増えていった。
最初は警戒されていたが、話してみると思ったよりすんなりと受け入れてくれた。しかし、男子のみんなは全くあのメモについて知ってはいなかった。彼らはボールのある場所と前しか向かない。昇降口に貼ってある手のひら大のメモなど視界には入っていなかった。しかし、彼らは黒いウサギの謎を話すとそれに対してとても興味を持ってくれた。
その次の日の昼休み、中庭に隠された秘密の調査という名目でクラスの男子で中庭を探索することになった。ウサギの置物、ウサギの形をした葉っぱ、ウサギの形をした石など、手あたり次第探したが、一つもウサギに関係するものは出てこなかった。途中ひっくり返した石から出てきた虫にはしゃいでいたり、その虫をコイに与えて騒いでいたりもしたが、皆で楽しく探索ができた。
次の日も彼らは手伝ってくれた。サッカーばかりやっていた彼らには探索という遊びが新鮮に感じたのかもしれない。かく言う僕も無邪気にはしゃぐ彼らを見て、笑っていた。初めてメモを見つけた時では考えられないくらい打ち解けることが出来ていた。教室でも向こうからこちらへ絡むことが増えてきて、それを見た女子たちもおそるおそるであるが僕へ話しかけてきてくれることもあった。
さらに次の日も彼らは中庭探索をしてくれた。中庭に植えられた大きな木に登ったり、もはや本来の目的はもう忘れているようだったが、僕は真面目にウサギにまつわるものを探した。探し物は探していないときにひょっこりと出てくるようなものだ。みんなが中庭で遊んでくれるだけでも見つける可能性は高まる。僕はそう考えた。
週末から雨の日がしばらく続いた。サッカーも探索もできない男子たちは文房具で遊んでいた。僕はそれを遠目から見ていた。彼らが遊びで使う文房具を持っていなかったからだ。今日の5時間目は体育。僕は早めに体育館へと向かうことにした。
体育館へ向かう途中、連絡版の前を通る。なんとそこには再びあのメモが所定の位置に貼り出されていた。文面も一言一句同じである。
『中庭の黒いウサギを探しています。見つけた方は写真をここにお願いします。』
僕はそれを見た瞬間鳥肌が立った。このメモの女の子はまだ諦めていなかったのだと。同時にまだ間に合うのだという喜びが僕の心の中で湧き上がっていた。しかし、その思いをかき消される出来事が起こる。その日の体育の時間中、父さんが事故にあったと家族から連絡があったのだ。僕は学校から急いで病院へと向かった。手術室から出てきたお父さんは包帯が巻かれ、チューブに囲まれて痛々しい状態だった。医師から呼び出され、気が気でなかったが、大怪我を負ったものの命の危険はないと言われた。僕はへたれこんで、お母さんは涙を流していた。次の日、僕は学校を休んだ。お父さんもお母さんも心配で学校どころではなかった。
お父さんは事故当日は気を失っていたが、翌日お見舞いにくると意識を取り戻していた。心配させないようにあっけらかんと振舞うお父さんから話を聞くと右足の複雑骨折が一番の大怪我らしい。午後からは事故について警察の事情聴取も行われた。幸い父はドライブレコーダーを車に付けていたらしく、相手の信号無視は立証できそうだった。信号無視した相手は違う病院で治療をしているらしい。相手も命に別状はないそうであとの細かいことは保険屋さんと警察にお任せすることになった。お母さんもお父さんが目覚めたことに安心していつも通りの世話焼きに戻った。お父さんのことはいいから学校へ行きなさいと口酸っぱく言われ、僕は次の日から学校に行くことにした。
次の日、学校に着いた僕は連絡版に貼られたあのメモの異変に気が付いた。また貼られ直されたメモは一部が欠落し、くしゃくしゃになっていた。一体だれがこんなことをするのだろうか。僕の中では黒いウサギの謎よりもこのメモをぐしゃぐしゃにした犯人の対しての怒りの方が大きく膨らんでいた。朝の会が終わり、再度連絡版を見に行くとやはり、あのメモは古いお知らせと一緒に剥がされていた。
その日のお昼休み。僕はいつも通りクラスの男子たちに探検の声をかけるが、彼らはもう中庭では満足できず、敷地内の山や竹林で探検すると言い始めた。何やら秘密基地を作るらしい。業間休みのときにいい場所を彼らは見つけたらしい。僕は自分のわがままで彼らの遊びを邪魔することは出来なかった。
「完成したら見せて。」
僕が言えるのはこの一言だけだった。
「すっげーの作ってやるから驚くなよな。」
「よっし、いこーぜ!」
彼らは今日も元気よく教室を飛び出していく。こうしてまた僕は一人で黒いウサギを探すことになった。
今日の昼休みも何も手がかりは見つけられなかった。もう中庭は調べつくしたといっても過言ではなかった。本当に黒いウサギはいるのか、僕はあのメモの事を信じて疑わなかったが、これだけ探して見つからない実状から心はもう折れかけていた。しかし、もう諦めよう、自分を納得させようと思ったその日の放課後。事態は大きく進展した。
僕は人が少なくなった放課後の学校で連絡版に何かを貼り付ける女の子が目に入った。
あれは同じ6年3組の大川由衣さんだった。小柄で臆病な性格で体が弱い彼女があのメモの主だったのだ。僕はおそるおそる彼女に近づいて彼女に話しかけた。
「そのメモ、君が貼っていたんだね。」
彼女は驚いた様子だったが、逃げはしなかった。自分の顔について知っている同じクラスだからこそ、最近クラスに馴染めるようになったからこそ、僕は勇気を持って話しかけることができた。
僕の問いかけに彼女は静かに頷いた。
僕は気弱な彼女に合わせるように精一杯柔らかな口調で話す。
「どうして黒いウサギを探しているの?」
「まいちゃんが嘘をついていないことを証明したかったの。」
「まいちゃん?」
「私のお姉ちゃん。双子の。」
彼女は泣きそうな顔で、このメモのことについて、まいちゃんのことについて話してくれた。
大川真衣。たしか6年1組の名簿を見た時にその名前はあったような気がする。大川姉妹はどちらも体が弱く、妹である由衣ちゃんより姉の真衣ちゃんの方が酷く常に病気がちだったこと。5年生の時は二人で飼育係に立候補するほど動物が好きだったこと。真衣ちゃんは去年の今頃から容態が安定せず、学校で何度も倒れては保健室で休む事を繰り返しながらも本人の強い希望で登校を続けていたこと。登校できた日にはいつも、ウサギのエサやりを欠かさずやっていたこと。
楽しそうに真衣ちゃんについて話していたが、話がメモのことに進むにつれて由衣ちゃんの表情が暗くなっていった。
女子の中には病弱なことを使って男子に構ってもらっていると不満を持つ子がいたこと。女子に人気だった男子が真衣ちゃんのことを好きだったこと。確かに由衣ちゃんは僕の好みなどを無視してもかわいい子だと思う。双子の真衣ちゃん双子だからきっと同じようにかわいい子なのだと思う。
「ある日、真衣ちゃんが私に言ったの。私、5匹目のウサギ見つけちゃった。中庭にね、体は真っ黒で目はオレンジの可愛いウサギさん。もし見つけられたらお願い何でも一個聞いてあげるって。私はそれを友達の子にも言っちゃったの。」
ここまでいうと由衣ちゃんは泣き出してしまった。僕はどうしていいか慌てて何とかしようとした。何かないかと考えたとき、僕の鞄にはちょうど病院で貰った飴が入っていたので、それを内緒だよと言って食べさせた。甘いものを食べた彼女は少し落ち着きを取り戻してくれた。ゆっくりと、息を詰まらせながらも話してくれた内容はこういうものだった。
クラス中に広まった真衣ちゃんの黒いウサギの情報は当然クラスの男子の耳にも入った。男子はそれを聞いて真衣ちゃんに気に入られたい一心で、この前の僕らがしたような探索をするようになった。業間休みも昼休みも彼らは探索をしていたようだ。それでもウサギは見つからなかった。由衣ちゃんが言うには途中からはウサギについては男子は忘れていたそうだが。そのクラスの男子の中でしばらく中庭で遊ぶことがブームになった。裏の山から木の枝を取ってきてはチャンバラをやっていたらしい。いつしか中庭で遊ぶようになった男子の変化から、真衣ちゃんを気に入らなかった女子グループは真衣ちゃんに対してこんなことを言い始めたそうだ。
「真衣ちゃんっていっつも保健室にいるよね。そこから男子を見るためにあんな嘘をつくとかキモイよね。どれだけ独占すれば気が済むんだろう。」
「あの子構ってちゃんでしょ。病弱なんてどうせ大したことなくて大袈裟にやってるんでしょ。」
「ちょっとかわいくて男子に気に入られているからって調子乗りすぎだよね。」
そして、真衣ちゃんには知らずのうちに女子グループから孤立させられるようになった。その孤立状態を何とかしようと由衣ちゃんは真衣ちゃんを支えていた。しかし元々体が弱かった真衣ちゃんは精神的にも追い詰められ、支えも虚しく彼女はとうとう体調を崩し学校に来れないようになってしまった。真衣ちゃんが学校に来れなくなってから、由衣ちゃんの孤立状態は少しずつ収まってきた。そしてある時、由衣ちゃんは真衣ちゃんに対しての嫌がらせの原因を作ったのは自分があの話を広めたことだと知ったとき、彼女は再びどん底に突き落とされた。それでも彼女は残りの一年欠かさず学校に来ていた。どうして学校に来れたのか僕が聞くと彼女は上ずった声でこう言った。
「原因を知った日にね。私はウサギの様子を毎日教えてあげることを真衣ちゃんと約束したの。私がね、真衣ちゃんにしてあげられること…。それくらいしかなかった。熱で苦しそうなときもウサギさんの話をしたら喜んでくれたから。」
僕は彼女の涙につられないように涙をこらえて彼女の話を聞いた。彼女の話を聞き終えた頃には夕日が赤く射していた。教室に備え付けてあったティッシュを渡し、泣いてスッキリした彼女をげた箱まで送った。僕は彼女が帰った少し後から帰った。一緒に帰るのも気まずいし、僕が泣かせたと思われたくもなかった。僕が教室から出るときのゴミ箱にはさっきよりいっぱいのティッシュと潰された空箱が捨てられていた。
由衣ちゃんがメモを貼りだし始めたのは、6年生になってクラスが変わったこと。真衣ちゃんの体調も良くなってきたことで、また医者から登校の許可がでたからだった。しかし、真衣ちゃんの体調が良くてもまた前のようなことが起こっては意味がない。当然、真衣ちゃんも学校へは行きたがらなかった。
だから由衣ちゃんは真衣ちゃんが見た黒いウサギを見つけ出して、嘘をではないことを証明するとともに黒いウサギを見つけた時の約束通り、真衣ちゃんに学校に来るようにお願いすれば円満に解決すると考えたのだ。あのメモが鉛筆で塗りつぶされていたり、破られていたのは去年の出来事を知っている女子グループの仕業だった。その妨害は4匹のウサギの写真が貼られた後から始まったらしく、最初はメモを勝手に連絡版から取るだけだったらしいが、メモが無くなっているのは事故ではなくて故意であることを私に分からせるために、あえて塗りつぶしたり、破いた状態にしたんだと思うと由衣ちゃんは言っていた。僕が何も変化がないと思っていた裏にはメモの貼り合いと剥がし合いが繰り広げられていたことになる。それに僕は全く気付いていなかった。
僕は遅い時間ながらも帰りにお父さんのいる病院に寄った。お父さんは病院の窓から夕焼け空を見ていた。
「お父さん。外の風景なんて見て楽しい?」
「おお、見舞いに来てくれたか。でもちょっと遅いんじゃないか?」
お父さんは僕の顔を見ると嬉しそうに笑う。
「この時間はいつもなら仕事の時間だからなぁ。見たいテレビもないし、部屋ん中は何も変わらないだろ?流れる雲と鳥くらいしか見るものないんだよ。ぼけっと外を眺める俺を心配するならもっと早く会いに来いよ。」
家ではお母さんに飯とか風呂しか言わない唐変木な頑固者で仕事一本のお父さんがこんなことを言うなんて珍しかった。
「なんだお前。目が赤いぞ?泣いたのか?何か学校であったのか?」
いつもそう言う事に鈍いお父さんが俺の顔を見てそんなことを言い始める。
「ちょっとね。気づかなきゃいけないことがあったんだ。」
僕は言葉を濁してそう答えた。
お父さんは腕を組みながら俺に向けてしみじみと頷く。
「でもお前は気づいたんだろう?間に合うってんなら責任を持って取り組め。俺は気づいたことを見なかった振りをするやつに育てたつもりはねぇ。そいつぁ気づかなかったやつよりたちが悪い。」
「うん。分かってるよ。だから当分お見舞いには来ないから。お父さん。」
「ああ。分かった。だがお母さんに何もせずにゲームしてたなんて聞いたらただじゃ済まさんからな。」
「じゃあ、そろそろ行くよ。」
僕は病室を後にする。僕の中でしっかりと決意が固まった。次の日学校に行ってもう一度本気で黒いウサギ探しをしようと。
次の日の昼休み。僕は由衣ちゃんに放課後黒いウサギ探しをしようと持ちかけた。彼女はその提案にかなり悩んでいたようだったが、頷いてくれた。放課後を選んだのは業間や昼休みに動くと、よく思わない女子グループに目を付けられてしまう可能性があったからだ。それに今日は5限で終わる時間割、放課後の方がいっぱい時間が取れることもある。僕らは中庭のコイの池の前で16時00分集合で約束した。
約束の時間。彼女は池のコイを静かに見ていた。人影が見えるとここのコイはエサがもらえると思って寄ってくる。手を叩けばバシャバシャと跳ねまわったりもする。今日は雲がなくて日差しが強い。心地よくて半そで1枚でも良いくらいにあったかい。外に出るには最高の天気だ。
「おまたせ。じゃあ探そうか。」
「うん。」
「そうだな、由衣ちゃんはあっちの花壇の方を探してみて。僕は大きめの石が転がっているこっちを探すよ。」
「わかった。」
二手にわかれ探して1時間くらい経った。僕は全ての石をひっくり返しは色々な方向からから見てウサギに見えないか確かめた。彼女も花壇の側面に使われているレンガの模様をぐるりと見て回ったが、ウサギらしいものは見当たらない。
「僕はコイの池の石垣を調べるよ。由衣ちゃんはクローバー地帯をお願い。」
「うん。」
僕はコイの周りの石の形、石と石の隙間でウサギの形が出来ないか探していた。由衣ちゃんは下を向いて、草がウサギの形になっていないか、土の部分がウサギの形になってないか確認している。
僕らは全く会話などせず、黙々と黒いウサギを探していた。そして30分経とうとしたころ、僕はドサッと何かが倒れる音を聞いて池を見下ろしていた顔をあげた。
僕の目にはクローバー畑で倒れている由衣ちゃんが映っていた。
僕は急いで由衣ちゃんを保健室へ連れて行った。保健の先生はすでに帰ってしまっていたが、幸い保健室は開いていた。僕はベッドの彼女を寝かせて、額に手を当てる。明らかに体温が高かった。僕はハンカチを水で濡らし、絞って彼女を額に当てた。もしかしたら熱中症かもしれない。僕はいそいで学校の自販機でスポーツドリンクを3本ほど買ってきた。両脇に買ってきたスポーツドリンクのペットボトルを挟み、苦しそうにする由衣ちゃんに声をかける。
「大丈夫?お母さんに電話しようか?」
その問いかけに彼女は頑なに首を横に振った。
「それじゃあ…先生……怒られちゃう。なにも…悪く…ないのに。」
由衣ちゃんはこんな状態になりながらも僕の事を心配している。
彼女は苦しそうに笑みを浮かべながらゆっくりと僕の手を握る。その手は小さくて熱くて握り返したら壊れそうな気がした。
「えへへ。まるで私…。真衣ちゃんみたい。横になっていたら…マシになるから。ここにいてね…」
そういって彼女は目を閉じる。
僕は後悔でいっぱいだった。彼女は真衣ちゃんにほどではなくても体は弱いと知っていたではないか。なんで一時間探したときに木陰で休憩させなかったのか。なんで探しながら声を掛け合わなかったのか。そもそも誘った時のあの悩んでいたのはあの時からすでに体調が良くなかったのではないか。今思えば引っかかることがボロボロと出てくる。
「ごめんね。」
僕は一言そう呟き、由衣ちゃんが握ってくれている手を解き、2つ隣の職員室へ駆け出す。
「大川さんが倒れました。親御さんに連絡してください!」
僕はドアを勢いよく開けて、職員室に響く大声で言った。
たまたま職員室には女の石田先生と担任の横溝先生が残っていた。大川さんの看病を石田先生に頼み。横溝先生と僕で親御さんの双方に連絡をした。まだ仕事中なのだろうか、お父さんの方は繋がらなかった。幸いお母さんの方にはすぐ繋がった。お母さんに倒れたことを告げるとやっぱりそうなったかという反応だった。こちらへすぐに向かいますといい電話は切れた。
僕はそのまま横溝先生に何があったかを話した。
今日のこと、このメモが貼られた日から今日までにあったこと、去年の大川真衣ちゃんのことも全てを話した。それを聞いた横溝先生は頭を抱えていた。
「宮野君、君はなんてことをしてくれんだ。君は教育実習生という立場というものを分かっていないのかね。私達は厚意で君たちをここへ学ばせてあげているんですよ。問題を起こすなんて言語道断です。今後君の大学からは教育実習生を取らないことになるかもしれません。君がしたことでどれだけの人に迷惑がかかるか考えたことはありますか!」
6年3組の担任の横溝先生は顔を真っ赤にして僕に怒鳴り散らす。これは正論だ。まだ教師になれていない半人前の僕をここは教師としての経験の場を与えてくれているのだ。
「たしかに私は君にもっと生徒と積極的に交友を図るようにと言いました。最近はクラスの男子たちとも上手くやっているみたいで安心していましたが、これはなんですか!限度というものがあるでしょう!深く入り込みすぎです。大川姉妹のこれはとうに教育実習生のあなたの扱える範囲ではないことは分かっていたことでしょう。どう転んでも問題にしかならない。何故無理に関わろうとしたのですか!」
「大川由衣ちゃんが倒れたことに関しては僕の責任です。自分の保護観察が不十分が起こした失敗です。しかし、僕はただ、彼女が黒いウサギを見つけたいという願いを手伝っただけです。大川さんのご両親には私から謝らさせて頂きます。」
「君が謝っても相手は納得せんのだよ。謝るのは私と校長です。いいかね。君の教育実習期間は残っているが明日からは来なくて良い。謹慎です。大学へは私がご連絡いたします。もう君は帰りなさい。」
「大変お世話になりました。失礼します。」
僕は職員室の入口で深々と礼をして職員室のドアをゆっくり閉めた。
僕は由衣ちゃんのいる保健室へ戻った。このまま帰るわけにはいかない。
僕は由衣ちゃんにここにいてと言われた。もう謹慎処分は下った。僕の教育実習は失敗に終わった。
なら僕は自分が思った通り行動するだけだ。
コンコンコン。僕はドアをノックする。
「宮野です。石田さん入っても大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫ですよ。」
石田先生の声を聞いてから保健室へ入る。
「ちょうどよかったわ。少し席を外すわね。」
「ええ。わかりました。」
石田さんは少し小走りで保健室を出て行った。
由衣ちゃんはまだベットで横になっていた。赤らんだ顔はさっきよりもマシになってきているようだった。僕は由衣ちゃんのベットの横にあった丸椅子に座る。
ゆっくり座ったつもりだったが丸椅子は大きく軋む音を立てた。
「先生…どこ行ってたの?」
「ごめん。起こしちゃった。ちょっと怒られにいってたんだよ。」
「先生は悪くないのに…」
「いいや、ウサギさんばっかり探してて由衣ちゃんに無理させたことは僕の責任だから。」
「私はそれが嬉しかったのに。」
由衣ちゃんはゆっくりと体を起こす。
「あっ……。」
その時由衣ちゃんは窓を見て固まった。
その声につられて僕も由衣ちゃんが見た窓の外の景色を見た。
保健室から見える中庭は玄関から見るよりも小さく見えた。池に夕日が当たり、いつもよりオレンジ色に見える。綺麗な景色だった。
「ウサギだ…」
僕はそうポツリと言葉をこぼす。
僕と由衣ちゃんは校舎の一画の白い壁を見つめていた。
校舎についている屋根のデザインと中庭の大樹によって描かれた黒い体躯。風見鶏の丸い輪のデザインから綺麗に刳りだされた燃えるような夕焼け色の丸い目。
それは間違いなく、真衣ちゃんが言っていた黒いウサギだった。
「こんなの他のみんな見つけられるわけないじゃん。真衣のバカ。」
由衣ちゃんはそう叫んだ後ダムが決壊したように大声泣き出した。つられて僕も声を出して泣いてしまった。
「ありがとう。先生。ありがとう。うわーん」
保健室には一人の少女の泣き声と一人の声にならない声で泣く青年の声が響いていた。
ピーンポーンパーンポーン
出席簿を片手に担当クラスである教室前に立つ。学校のチャイムが校内に一斉に流れると同時に教室のドアをスライドさせる。
「はい、みんな。朝の会を始めるよ。席について。」
生徒たちはドアのスライド音と連動するかのように、急いで自分の席へ座っていく。
「皆さん。おはようございます。今日からこのクラスを担当する宮野 義徳といいます。とても目つきが悪いですが決して怒っているわけではありません。みなさん1年間よろしくお願いします。実は僕は去年、ここで教育実習生をやっていました。もしかしたら僕のことを知っている人がいるかもしれませんね。あ、そうそう皆さんは6年生ですが、実はこの希望の森小学校には幸せを呼ぶ中庭の黒いウサギという伝説があるのはご存知でしょうか。この中庭で四つ葉のクローバーより探すのが難しい、この中庭の黒いウサギを見つけることが出来たらとてもいいことが起きるといわれています。実は僕はこの幸せを呼ぶ中庭の黒いウサギを見つけたことで今こうして教師になれたと言っても過言ではないんです。皆さんは卒業まで12か月もあります。皆さんの誰かが見つけられることを僕は期待しています。気になって探したけど卒業までに見つけられなかった人は幸せを呼ぶ中庭の黒いウサギ写真を見せてあげますね。じゃあまずはみんな自己紹介をやってもらいましょう。皆さんも僕に知っておいてもらいことを是非アピールしてください。ほんの少しの勇気が大きく未来を変えていくんですよ。」