自然な成りゆきに
僕を百回ビンタしてくれ。
彼が言って、私は胸の奥がぎしりと軋む音を確かに聞いた。
「どエムなの?」
訊ねてみると彼はコーヒーで僅かに湿った唇の端で少しだけ笑って、「違う」と俯いた。一重まぶたの先っぽに付いたまつげが揺れている。短くて、目尻だけがやけに濃いまつげ。
「知ってる」
私は呟くみたいに言葉を投げ捨てて、右手を持ち上げた。暴力で解決するなんてよくないよ。まるで殴られる側のようなことをぼんやり思って、ゆっくりと瞬きをする。
ぬるい空気が、よく手入れした指先に纏わり付く。付けたばかりの暖房がワンルームを中途半端に暖めていた。
ぺちん。
間の抜けた音が鳴る。私は手のひらの乾いた感触と、まるでなんの変化も無い彼の頬を眺める自分の目が、まるで別々の人間のものに感じられた。
小さなテーブルを挟んで向かい合わせに座って、私は少しだけ前に乗り出して。一体何をしているんだろう。
テーブルの上で二つのコーヒーが湯気を立てている。私はブラック、彼は砂糖無しでミルクを少し。こうなってみると、彼好みのコーヒーをせっせとこしらえた数分前の自分が健気で泣けてくる。コーヒーなんて入れるんじゃなかった。せめてこれを飲み終わるくらいまで、待てなかったのだろうか。なんてせっかちな人なの。
私は何度も何度も腕を振った。正確には手首をちょっと動かしている程度だけど。
実家から持ってきた電気ヒーターは、耳慣れた鈍い音を立てている。四畳で三千九百八十円の安いラグは、一ヶ月前に溢してしまったトマトジュースのせいで赤い汚れが染みついている。白になんかしなければよかった。キッチンからは遅い昼食で食べたやきそばの匂いがするし、窓際にはタオルが干してある。自分の部屋ながら、なんて格好が付かない部屋なんだろう。こんな時なのに。
なんだか少し気が乗ってきた私は、段々と力を強めていった。それにあわせて音も大きくなって、手のひらもじんじんし始める。
そうだ冷静に考えれば、そもそも彼が抜き打ちでやってきて、抜き打ちでこんな話をし始めたんだ。知っていれば、完璧な空間で迎え撃ったのに。酷い人だ。
「あの」
ビンタの合間を縫って、彼は口を開いた。
「百回とも左はちょっと」
「なにそれ、イエスキリスト?」
「なんで?」
手を止めて私が眉根を寄せると、彼は目をぱちぱちさせた。深爪気味の丸っこい指で、私に叩かれ続けた左頬を撫でている。その仕草が無性に癪に障って、私は馬鹿にした声を作って肩を竦めた。
「頬を殴られたらもう片方の頬を差し出したから」
しばしの沈黙。ヒーターが立てる音と、私たちの呼吸の音だけが聞こえる。
三回大きく息を吐いた後で、彼は「違うよ」と言った。私は「知ってる」と左手を上げる。
「どっちの頬をどのくらい殴るかは、自然な成り行きにまかせよう」
真剣な声色と真剣な眼差しを私が向けると、彼は唇を噛んだようだった。少しだけ、笑えた。
彼、平原孝一は私の恋人だ。少なくとも後ほんの数分の間はきっと、そう言えるだろう。
大学時代に出会って、今年で九年。大学院を卒業後に臨床心理士として働き出して三年目で付き合いだして、今月で十ヶ月。まさか彼と付き合うことになるとはつい一年程前まで考えたこともなかったが、別れる事になるとも今まで考えたこともなかった。と言うと、嘘になるかもしれない。
自然な成り行きにまかせよう。
これは彼の口癖だった。だから私たちの間にはいつも明確なルールはほとんどなくて、唯一私が立てたこのルールだけがあった。
「別れる時は百回ビンタをする」
これを告げた時孝一は「それは加害者側が殴られるということだよね」と言った。私はこの人は賢いけれど馬鹿なんだと思いながら、「それは自然な成り行きにまかせよう」と笑った。
ね、どっちが殴られるのか、自然に決まったでしょう。
私は心の隅っこでほくそ笑み、左手を振りかぶった。もう手加減をする気は失せていた。
雰囲気が変わったことを察知したらしい孝一が、ぎゅっと目を閉じる。思えばこの人の顔を、こんなにまじまじと見つめるのは久しぶりだった。眉間によった皺も、やけに通った鼻筋も、冬の乾燥に負けたかさついた頬も、まだまだ残っているビンタの数だけ、眺め続けなくてはならないのか。
私は過去にこんなルールを作った自分を呪いたくなって、真に呪うべきはこんなルールを本当に持ち出してきた孝一だと思い直した。
だってこんなの、冗談に決まってるでしょう。付き合ったばかりで、アルコールも入っていて、初めて彼の家に入った日で、初めて寝た日なんだから。色んなものに酔っていたに決まってるでしょう。雰囲気作りに決まってるでしょ、私だって子どもみたいな可愛いことを言ってみたくなったんだよばっかみたい。
ばちん。
さっきまでよりも鋭い音が響いて、彼の頭もぐらりと揺れる。利き手じゃなくても案外上手く殴れるものだな。
「痛い」
「痛くしたから」
何か問題でも。私が睨み付けると彼は正座していた足を崩して背を丸めた。上目遣いに私を見て、何か言いたげに乾いた唇を噛みしめている。それに気付かなかったふりをして、私はビンタを繰り返した。孝一は今度は黙って受け入れる。
あれ、しまった今何回目だったっけ。
「こういうとこ、好きな気がしてたけどそうでもなかったや」
赤くなっていく孝一の右頬と自分の左手を交互に眺めて私は呟く。まあいいか。これで五十回っていうことで。
「こういうとこってなに」
「ベッドでの冗談を本気にして持ち出してくるとこ」
「……冗談だったのか」
「冗談じゃないよ」
私の返答に、彼は顔を顰めた。普段なら「どっちなんだよ」と文句を言ってくる所だろうに、なんだかかわいそう。
ふと不思議に感じた。私にも非がある筈なのに、どうしてこの人は一方的に殴られているんだろう。すっぱりと別れるためだろうか。そう考えたら、結局腹が立った。私がごねるとでも思ったの? ごねられるなら、ビンタされる方がマシ?
「冗談だけど、冗談じゃなかった。わからないだろうね、孝一には」
百回ビンタなんて、本当にやりたい訳ないじゃない。
今度は右手を上げる。
「残り半分ね」
私が言うと、孝一は焦ったように両手を前へ突き出した。
「待った。今ので六十七回の筈だ」
「……あ、そう」
大きく息を吸って盛大に吐き出す。やっぱり嫌いだ、こういうとこ。好きだった、筈なのになあ。
なんとなく右手をそのまま振るう気にはなれなくて、私はマグカップを手に取った。冷めたコーヒーがやけに苦い。そうだこれ、前に同僚からお土産で貰ったコーヒーだ。美味しく飲まないなんて、勿体ないことをした。ごめんねスズキくん。
「飲みなよ、それ」
一口しか減っていない孝一の分のコーヒーに私は心底同情して、顎でカップを指した。
孝一は少し狼狽えたけど、やがてカップを傾けた。見慣れた紺色のニットの上で、のど仏が上下する。ああ私、別にこの人の顔が特に好きなわけではなかったなあと不意に思う。
「ビンタしろ、なんて言われて動揺しちゃってたけどさ」
「うん」
「まだ聞いてなかったよね」
「なにを」
「どうして別れるのか」
カップがテーブルを叩く。私を映す孝一の瞳に怯えが僅かに浮かんでいる。散々――正確には六十七回だったっけ――殴られた後だからだろうか。自分から言い出したくせに。いや、この場合、私が言い出したことになるのか。どうでもいいけれど。
孝一は押し黙っていて、私は頬杖をついて彼の顔を覗き込んだ。
「私に気に入らないところがあった? まあそりゃああって当然だけど、我慢できなくなるくらい駄目なとこって、なに?」
額に手を押し当てて、孝一は微かにため息を吐いた。
「いや、駄目というか」
「いいよ、言って。実は顔が好きじゃない?」
「朱里は美人だよ」
「そりゃどうも。じゃあ性格?」
「よく出来た人だと思うよ」
「ふうん」
私はまるで取り調べのようだと、愉快になってきていた。さっさと吐いて、楽になっちまえよ。
「知ってるよ、なんでか。私、わかるもの」
私が笑みを浮かべると、彼はあからさまに動揺した様子で目を泳がせた。
「出来たんでしょ、違う女」
孝一は私の言葉に下を向いた。カップの中のコーヒーと睨めっこをして、動かない。
「どんな人?」
「……会社の後輩」
「もう付き合ってるの? 二股?」
「それは違う」
本当だ、と声を大きくする孝一がやけに必死で、そんな所だけ取り繕ってどうするんだろうと私は口内で悪態をつく。部屋はどんどん暑くなってゆくのに、私の脳とみぞおちはみるみる冷たくなってゆく。
「どう違うわけ」
「……彼氏に振られたって、相談を受けてたんだ。初めはあくまで仕事として、部下の精神的なケアのつもりだった。でも何度も話を聞いている内に同情心が芽生えてきて、それでその、」
私は鼻で笑った。
「やっちゃった?」
「……止めてくれ。愛情が生まれたんだ。お互いに」
「ようするに、やっちゃったんでしょ?」
孝一は再び黙り込んだ。嘘がつけない人だなあ。それって、貴方の良いところなのかもしれないけれど、二十七にもなってまともに嘘もつけないのはどうかと思うよ。大人には嘘が必要不可欠だもの。正直って、人を傷つけるから。知らなかった?
「浮気の定義を議論し始めるのは不毛だから置いておくけど、私の中では十二分に浮気だし、なんなら二股だけど? それ」
「……悪かった」
「そんなに良い子なの、そのコーハイは」
「いや、あんまり。ただ」
言いかけて、彼は口を閉ざした。色の悪い唇が、なんだか汚いものに思えた。この唇が続けようとした言葉を、私は瞬時に予想出来る。結局貴方も、同じな訳か。
「ほっとけない?」
私が首を傾げると、孝一はうなだれるようにして首肯した。その頬を半ば反射的にビンタする。今までで一番、小気味よい音がした。
「これはノーカンだから。六十八回目から再開するね」
そうして私はまた彼の頬を殴った。手のひらと目の奥が酷く熱い。憎しみが、お腹の底から沸き上がってくる感覚に涙がにじむ。知ってる癖に。私がそれを一番嫌がるの、知ってる癖に。
大体、振られたばかりの女の相談に乗って男女の関係に発展するなんて、私の時と全く同じではないか。この人、その方法でしか女を口説けないの?
ぱちんぱちんと鳴る音をどこか遠くに聞きながら、私は彼との始まりを思い出した。ちょうど去年の今頃、クリスマスを間近に控えた十二月。
恋人の頬を殴り続けると、走馬燈のように思い出が蘇るのか。知らなかったなあ。
私が自嘲して笑うのを、彼は不気味そうに見た。
大学時代のサークル仲間で定期的に開かれる飲み会に、その日私はたまたま顔を出していた。皆それぞれ仕事が忙しいようでいつも集まりは決してよくない。だからあまり話したことのないメンバーとも隣になって、それが孝一だった。
彼とは学部も学科も趣味も出身も、なんら共通点はない。おそらくお互いに、名前くらいしか知らない存在だった。
私はとにかくお酒が飲みたい気分で、なぜなら男に振られたばかりだったから。
彼が何と言い出したのかはよく覚えていない。確か「大丈夫?」だか「何かあったの?」だかそんな普遍的な台詞。
私は何杯目かわからないビールを飲み干して、隣に座っているよく知らない男を見据えて口を開いた。
「私って、たまに魚とか焦がすし、卵割って中身捨てて殻をボールに入れたことあるし、考え事してて新幹線で下りそびれてとんでもないところまで行ったことあるんだけど」
「はあ」
ほとんどアルコールを摂取していないらしい彼は素面に近く、私を怪訝そうに見返していた。
「どう思う?」
「ドジ、とか?」
「あー惜しい!」
ちょっと違うんだよなあ。私は唇を尖らせて、泡の消えてしまっている彼のビールを横取りした。
「ぬるい。新しいの注文して」
「人の取っておいてそれはないだろ」
呆れた表情で彼は私からグラスを奪い返し、店員を呼んだ。冷たい水をお願いしようとする彼を遮り、芋焼酎をロックで頼む。芝居じみた仕草で肩を竦める彼を無視して私はテーブルの上の枝豆に手を伸ばした。
「じゃあ、酔っ払うとよく知らない人にも絡む。これはどうだ」
「だから、なんなの、それ」
「どう思う?」
「面倒くさい」
「辛辣! 違う!」
私はケタケタ笑って、彼の眉間の皺をじっと眺めた。
「ほら、間抜けで、どうしようもない感じだよ」
「天然?」
「そんないいものではない。例えばさ、すぐ道に迷ったりとかする子どもどう思う? 心配でしょ?」
「ああ……ほっとけない、かな」
「正解!」
枝豆の殻で彼の鼻先を指してから、運ばれてきた焼酎のグラスを受け取る。揺らすとからりと音がして、透明な液体の中で氷がきらきら光った。
「私、それなりにほっとけない所もあると思わない?」
「まあ」
私は至極満足して、それから肩を落として頭を垂れた。「忙しい人だな」と呆れた声が頭上から降ってくる。
「ええっと、平田くん、だっけ」
「平原孝一」
「冗談だよ。聞いて平原くん。私つい二週間前に男に振られたんだけど、私を振る男って、みんな口を揃えて言うんだよね。他に好きな相手がいる、もしくは出来たんだって。それでまあ、その相手っていうのが、ほっとけない可愛い子なんだって。なに? ほっとけないって。じゃあ私は、ほっとける女だからほっとかれてるってこと?」
幕なし語る私に彼は呆気に取られたようで黙っていたけれど、やがて温いビールを一気に煽った。
「付き合うよ」
どうやら一緒に酔っ払ってくれるらしい。その言葉に私はまた口角を大きく上げて、目を細めた。塩だれの掛かったキャベツを箸で摘まんで、バリバリと咀嚼する。
ほっとけない。まるで呪縛だ。世の中の人間は、二つに別けられるのだ。ほっとかれる人と、ほっとかれない人に。
思えば物心ついた頃から、両親でさえ私をほって弟ばかり見ていた。染みついたものって、とれないものだな。
「世の中さ、綺麗なだけじゃ生きていけないし、優しいだけじゃ愛されないし、強いだけじゃ守って貰えないんだよ。難しいなあ人生って」
容姿を磨いて、勉強して手に職を付けて、強く優しく生きていけば、幸せになれるのだと思っていた。でも気が付いたら私はずっと独り身で、好きな男一人落とせない。上手くやれば、良い子でいれば、良い成績を残せば、綺麗になれば、みんな私を見てくれると思ってたのに。
頬がうだるように熱い。流し込んだ焼酎が喉を焼く。
「無理にほっとけないような人間にならなくてもいいんじゃないかな」
彼はどうやら酒に弱いようだった。一杯のビールですっかり赤くなった顔をしている。
「そうだったら、いいんだけど」
なんだか毒気の抜かれた私は、肺から息を絞り出した。言いたいことは沢山あったのに、不思議とどうでもよくなってしまった。
それから私たちは二人で飲みに行くようになり、しばらくして恋人になった。面白いくらい自然に、どちらともなく付き合いだしたのだ。これが彼の言う自然な成り行きなのだろうかとその時は、身を任せてみるのも悪くないと思った。
私はふと手を止めた。孝一の頬が赤く染まっている。指先でそっと撫でてみると、彼は怪訝そうに私の表情を伺った。あ、その顔、嫌いじゃないや。
自然な成り行きに。
私と別れるのも、彼にとって自然な成り行きなのだろうか。自然って、なんなの。最後に教えてよ。
私は全部を嚥下して、一言「お幸せに」と言った。すると、されるがままだった孝一が唐突に私を睨む。その忌々しげな視線に、私は驚いて身が竦んでしまった。何で私が、睨まれなきゃならないの。
「どうでもいいのかよ」
彼は憮然として声色に苛立ちを混ぜ込んだ。
「どうでもいいなんて言ってないじゃない」
一体なんだというのだろう。私は今、彼に浮気を打ち明けられたばかりの筈なのに、どうして怒られているんだ。
「何も訊かずにビンタしただろ」
「聞いたじゃん、どエムなのかって」
「そんなことじゃない」
孝一はカップの中のコーヒーに視線を落とした。彼が言いたいことは、何となくわかる。私が別れ話をあっさりと受け入れたことが、気に入らないのだ。きっと。
私は彼の真似をして、もうほとんど入っていないカップの中の黒色を見つめた。黒いマグカップの中の黒いコーヒーは、底なし沼みたいに私の心を吸い込んでゆく。
「だってじゃあ、どうしろっていうの」
震えてしまった私の声を聞いて、彼が面を上げる気配がした。
「泣いて縋れって言うの。私がそんな事、出来る女だとでも思ってるの。ただでさえ惨めなのに、もっと惨めになれっていうの。出来ない。私には出来ない。一度負けたら、もうなにも、したくない。一年近くも付き合ったのに、それくらいもわかんない?」
私は頑張ったんだ。この体型を維持するのに、どれくらい努力してると思う? この肌のために、毎朝毎晩、どれだけ時間を掛けてると思う? このヘアメイクに、いくら掛かってるか分かる? 今の職業に就くためにどれだけ勉強したか、いい人であるためにどれくらい我慢したのか、貴方に、想像出来るっていうの。聞き分けが良いって、良い事じゃなかったの?
お姉ちゃんはしっかり者で良かったって、言ってたのに。自分の事を自分で出来ると、偉いって褒められたのに。我慢して弟に譲ったら、良い子だって言われたのに。なのになんで、今更になって、可愛げがないなんて言葉に変わるんだろう。
どうでもよくなんかない。どうでもいい訳がない。でも私は結局自分が可愛くて、孝一を失うことよりも、自分が今まで抱えてきたものを捨てる方がただただ怖い。諦める方が、よっぽど楽だから。
「私より、その人の方がいいんでしょ。なら、仕方ないよ。私よりその人と居た方が孝一は幸せなら、それでいい」
「本気で言ってる?」
「知るかよ」
吐き捨てて、私は顔を上げた。
「知るかよってなんだよ」
「私すごく頑張ったつもりなんだけど」
面倒な事も、嫌な事も、全部我慢して尽くしたつもり。何度言っても靴を揃えて脱がないところとか、聞いてないのに生返事をするところとか、中身の残っているペットボトルを冷蔵庫に戻さないところとか、ああもうどうして、こんな下らないことしか出てこないんだろう。
どんなに疲れていたって、私は彼を精一杯にもてなした。料理も家事もメールの返信だってマメにしたし、いつだって完璧な彼女でいようとした。
すっかり口を閉ざしてしまったけれど、そういう所に疲れたんだと孝一の目は言っている気がした。じゃあ私が疲れない女なら、浮気しなかったってこと? ならそのなんとかさんって女との愛情とやらも、下らないね。だって愛が芽生えたんじゃなくて、疲れたからその女に逃げたって事じゃない。
私はありったけの感情を視線に込めた。やっぱり、百回ビンタなんて受け入れなければよかった。叩く度に自分の立ち位置が不安定になってゆくから。
息苦しい。この世の中は生きづらい。
本当は知ってたのだ。彼を追い詰めたのは私だ。
必死でいい彼女を演じる私を、彼はいつも気遣ってくれた。仕事柄ストレスを溜め込みやすい私の話を根気よく聞いて、私をよく褒めてくれた。なのに私は、少しずつ様子がおかしくなっていた孝一に、何も聞かずにただ無言で責め続けたのだ。美味しいご飯を作ったり、彼の部屋を掃除したり、いいコーヒーを振る舞ったりすることで。
目の前に居る孝一の顔がぼやけて、私はワンルームが現実味を失った気がした。
長い沈黙。私の意識は夢の中にいるようにふわふわしていた。
「弟がさ」
「――え?」
頓狂な声を上げる孝一から私はラグの染みに目線を映した。うっすらと残ったその赤色は何度拭いたって消えやしなかったけれど、マグカップの中のコーヒーを溢せばきっと黒くなって、しばらくすれば赤色の事なんて忘れる。染みとはいえ、すっかり生活の一部に馴染んでいるのに。取れなくったって、濃い色で塗りつぶせばそれで。
「結婚するんだって」
「あ、ああ。おめでとう」
そうだねおめでたいね。私は心の中で呟いた。
これじゃあ私が、どうしようもなく嫌な奴みたいだ。
孝一を浮気したくなるくらいに疲れさせて、別れ話でさえ期待された反応が出来ず、百回もビンタをして、弟の結婚も素直に祝えない。なんて情の薄い人なんだろう。
喉の奥から、コーヒーの苦い香りが上がってくる気がした。
「結婚、したかったの?」
「……弟と同じこと、聞かないでよ」
私はすっと息を吸ってまた手のひらを振りかぶった。
正式な婚約が済んだ秋口に行われた両家顔合わせの会食の席で、母は私に「朱里もはやく結婚出来たらいいねえ」と笑った。その言葉に頷いた私に弟は心底意外そうに言ったのだ。
「朱里って結婚したかったんだ?」
すると呆気に取られて何も言えない私をどう思ったのか、斜め前に座っている可愛い婚約者が弟に目配せをした。弟はそれを受けて妙にこざっぱりした髪を掻き、更に追い打ちを掛けたのだ。
「結婚とか、興味なさそうだったから」
私は何も言い返せずにただ苦笑いをした。あの時は聞けなかったけれど、ねえそれは、私が一人で生きていきそうだと思ってたってこと?
ごめん、という形に動いた孝一の唇を塞ぐような気持ちで、私は彼の顔をひっぱたく。私が結婚したかったら、結婚してくれたの? 浮気せずに。
目の合わない彼と向かい合っていると、馬鹿げたことを考えて悔しくなる。そんな事、ないと分かっているのに。
ぱちん。
これで九十九回目。
最後の一撃を繰り出そうとして私は右手が震えるのを抑えた。鼓動が五月蠅くて吐息が熱い。せめて彼の記憶に残る私が綺麗であって欲しい気がして、その手で前髪を整える。
瞬間、けたたましい着信ベルの音が鳴り響いた。私の右手はぴたりと止まって、孝一と視線が交差する。
「出たら?」
私はマグカップを持ち上げて、コーヒーを飲み干した。ばつの悪そうな孝一が戸惑っている。出なよ、別れ話の間でさえマナーモードにもしない携帯電話なんでしょう。
マナーモードにされたらそれはそれで苛立つ癖に棚に上げて、そっと嘆息した。
ベルの音は鳴り止まない。それどころか、どんどん大きくなっていくようで私はコーヒーが不味くなる。
「出るか、切るかどっちかにして」
声を低くすると孝一はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。ぴかぴか光る画面を見やって、顔を顰めたのち嫌に子どもっぽい目つきで私の顔色を伺う。私はその反応で理解してしまった。
この人たちは、私という人間を舐めすぎているのではないか。
「出なよ。例のコーハイなんでしょ、相手」
ベルはやっぱり鳴り止まなくて、彼は私から発される圧力に耐えかねたのか通話ボタンを押した。そっぽを向いて携帯電話を耳に当てる。ひそひそと何度か頷いて、それからにわかに静かになる。と思うと、急に間抜けな声を出した。
「本気で言ってる?」
さっきも聞いた台詞だな。私は冷えた心で彼の青ざめていく様子を眺めた。
しばらくして、孝一は呆然と携帯電話を下ろした。部屋の空気が変わってしまうのを感じて私は、一体どんな表情を浮かべれば良いのか分からなくなる。
「……より、戻したって」
孝一は信じられない、と眉尻を下げた。最近合う回数が減っていたから、眉毛がすっかり伸びてしまっている。彼はあまりお洒落に関心が無いらしく、私が眉を整えてあげていた。
「なに、これもしかしてタチの悪いドッキリ?」
私が言うと彼は唇を噛んだ。その面持ちがあんまりにも泣き出しそうで、私は笑ってしまった。
「コーハイさん、元彼とやり直すんだ」
「そうらしい」
「孝一は私と別れるのにね」
どうするんだろう、この人。私はついほんの少し前まで私と別れるためにビンタまでされていた彼を想って、また笑いがこみ上げた。
胃が痙攣しているみたいに笑い続けて、笑いすぎて涙がにじむ。なんて見事なタイミングなんだろう。奇跡だよ。持ってるなあ孝一くん。
私は身を乗り出して、左手で彼の頭を固定した。最後の一発をお見舞いすると、頬が潰れて酷く不細工な顔になる。可笑しくてたまらない。
また笑うと、腕にぶつかって彼のマグカップが倒れた。中に残っていたコーヒーが流れて、テーブルからこぼれ落ちる。ラグの白色を焦げ茶色が浸食した。ああ私ってほんと、ほっとけないなあ。
私は慌てて立ち上がり、キッチンに台ふきを取りにゆく。急いで拭くけれど、当然ながら色が薄くなるだけで取れそうもない。あーあ。呟いて孝一を見ると、彼は未だに唖然としたまま。
さてこれから、どうしようか。
別れたばかりの私たちがこれからどうなるのかは、自然な成り行きに任せるしかない。憎たらしかったはずの口癖に一人で頷いて、私は新しいラグを買いに行く算段を立てることにした。