湯船にて
入浴中に湯船のなかでものすごくおもしろい話を思いついた。
この話を読み聞いた人間は、ある者は喜びに打たれ、ある者は興奮に震えあがり、ある者は感涙にむせび泣き、ある者は腹を抱えておおいに笑い、ある者は驚がくに目を見開く。
そうして、世界中のだれもがわき上がる感情を惜しまずに表し共有し、笑い合い、泣き合い、いがみ合うことなく、争いが絶え、手に手を取って語り合う。
人種・国籍・性別・宗教・それら人間を対立させうるすべてを超えた熱い人類愛に目覚めることだろう。
きっと世界が素晴らしいものになるはずだ。
だが、ここには書くものがない。
全裸の私とぬるいお湯だけしか存在しない。
私の内からわいた壮大な物語は、いますぐメモしなければ消え去ってしまいそうだった。
カラダをふいている余裕すらない。悠長なことをしていればあまりにもデリケートなこの記憶は霧散してしまうにちがいない。
カラダをふかずに外に出てペンを握り書き出しても、紙がぬれてしまいインクがにじんで書くことができないだろう。
なんということだ、進退きわまったとはこのことをいうのか。
だが、あきらめることはできない。
私にはこれを世に出すという使命が、責任がある。
この状況を打破すべく、必死で記憶をめぐらせる。
そういえば、フロでなにかを考えついた過去の偉人がいたはずだ。
湯船につかっているときになにかをひらめいて叫びながら全裸で走り回った変なじいさんの有名な話がある。
真似てみればどうにかなるかもしれない。
思いついた瞬間、勢いよく立ち上がり私は叫ぶ。
「ユーリカ!」
声は、浴室内を反響して大きく響き渡る。
私の耳には、浴室内だけでなく家じゅうに、近所に、町中に、日本中に、世界中に響いたように聞こえた。
そんな声の反響もすぐに収まり、浴室内は、揺れる水面のポチャポチャという音だけになった。
静まり返る浴室で湯船に立ち尽くしながら考える。
『ユーリカ』じゃなかったような。
『エウレカ』の気もする。
いや『ヘウレーカ』だったかな。
それ以前に、なんで私はこんな言葉を叫んだのだろう?
ふたたびお湯に肩までつかる。
なにかすごいことを思いついたはずなのに、どうしても思い出すことができない。
思い出せないのも、叫んでしまったのも、きっと眠気のせいだと思う。
浴槽に頭を預けて目をつぶる。
フロから出たら今日はもう寝てしまおう。
うつらうつらとしながら、私は湯船に頭まで沈めた。
頭の質量の分だけ、浴槽からお湯があふれでる。