空の客席
「……篤人とか坪山とかって、今日聞きに来るのかな」
体育館に戻ってきて、吹奏楽部の同い年たちの中で。
滝田聡司は、ぽつりとつぶやいた。
学校祭、二日目。
これからこの体育館で――吹奏楽部はコンサートをやることになっている。
このコンサートは学内外を問わず、来た者全員が聞ける催しになっている。だが、聡司が二人の名前を出した瞬間、周りにいた同学年たちは凍りついていた。
それも当然といえば当然で、この二人はほぼ一ヶ月前、個人的な事情でこの部を去った者たちだからだ。
退部の理由が理由だっただけに、両名への思いは、部員によって様々なものとなってしまっている。特に聡司たちの学年は同い年であっただけに、二人への思いはより、複雑なものとなっていた。
気持ちの整理がまだ、できてない。
だから今も、この話は触れてはいけない傷のようになって、この学年を苛んでいるわけなのだが――
その雰囲気を打ち破って、口を開いたのは、サックスの美原慶だった。
「……さすがに来ないんじゃナイですか。あの二人もスグに顔を見せられるほど、面の皮が厚くはないデしょうし」
辞めて気まずくなっているところに顔を出せるほど、あの二人も図太くはないだろう――
そう言う慶に対して、聡司はうなずいた。むしろそこまでの神経があれば、あの二人はひょっとしたら辞めなかったのかもしれない、とも思う。
そうすればこんなことにはならず、今も仲良く本番前に、じゃれあっていたのかもしれなくて――けれど、そんな風にはならなかった。
それは、なにが原因だったのだろうか。
そうと考えていると、トロンボーンの永田陸が言う。
「来ようが来なかろうが、私はどっちでもいいぞ」
辞めた人間が聞きに来たからといって、こちらの演奏のなにが変わるわけでもない。
そんなことを言う陸に、聡司は本当に半分呆れて、「おまえ本当、マイペースだよなあ……」と苦笑した。
彼女は部活に来たり来なかったりで、辞めた二人ともあまり接点がなかったから、こんなことを言えるのかもしれないが。
しかしそうだとしてもこの判断が、陸自身の性格から出たことは間違いないだろう。
聞きに来ても来なくても、どっちでもいい――それでこちらのなにが変わるわけでもない。
でも、それが案外正解なのかもしれなかった。
そんな風に、相手に判断を委ねることができなかったからこそ、今自分たちはこうして下を向いているのだろうから。
そう思ったからこそ、聡司は言うことにする。
「オレさ」
あのとき問われて返せなかった答えを。
もうたぶん、伝えることもできない言葉を――せめてここにいる同い年たちにと。
「この本番が終わったら、ひょっとしたらここを辞めて、軽音部に行くかもしれない」
「……それは、前々から思ってはいたけど」
それに反応したのは、トランペットの豊浦奏恵だ。
いくらがんばっても思ったような音が出なくて、きのうも肩を落としていた――自分と同じ、迷える同い年。
今日もソロが吹けるかどうか、不安なはずだ。
だが今はその思いを押し止め、彼女は聡司に言う。
「最初は本気じゃないって思ってたよ。けど、こないだ軽音部見に行って思ったんだよね。ああ、あんたは本当に、こっちのが好きなのかもしれないって」
「……ですね」
そう言ったのは、奏恵と同じく軽音部に見学に行った、チューバの春日美里だ。
あの直後には既に、どっちを選んでもいいですよ――とこちらに告げていた彼女は。
このやり取りが始まってから、ほとんど言葉を発することなく、周囲のことを見守っていた。
先に『結論』に辿り着いてしまった、次期部長は。
聡司が『本当にやりたいこと』を口にする瞬間を待っている。
だけど――
「けどさ」
だけどまだ、自分はそこには行ってはいけない気がして。
聡司は本当に、今現在自分が思っていることだけを、正直に口にすることにした。
「今でも、どっちに行くか本当に迷ってるんだよ。どっちがやりたいかすぐ決めろって言われても、自分でもよくわかんなくてさ。だからオレ――今日二つの本番をやって、それでどっちに行くか決めようって、思ってるんだ」
「……なにそれ。……あ、えーっと、それってもしかして、あたしのソロを成功させてみせろってこと?」
「いや、そうじゃねえんだ」
そうじゃねえんだ――と、首を傾げる奏恵に、聡司は繰り返す。
奏恵のソロが上手くいったら吹奏楽部に残る――なんて。
そんな風に彼女に全てを託すような真似は、したくなかったから。
そんな自分が往く道を選ぶ責任を、誰かに押し付けるような真似をしたから――
ここにいるべきだった人間がいなくなるような、あんなことが起こったのだろうから。
「だからさ――」
だからもう、そんなことは二度と繰り返さないために。
聡司は奏恵に、これまで誰も言ってこなかったであろう――あることを言うことにした。
それこそが、自分の望みを押し付けることなのではないか、と。
そんな疑念と、頭の片隅で戦いながら。
「たぶんオレは、おまえのソロが成功しようがしまいが、取る道は変わらないんだ。
いや、そりゃもちろん成功してほしいんだけど、それでオレが吹奏楽部を選ぶ決定的な理由には、断じてならないんだよ。
オレは、オレがやって、やっぱりやりたいと思った方に行く。ただ、それだけなんだ」
ワガママ、と後輩には言われるかもしれない。
無責任、と同い年たちに言われてもしょうがないかもしれない。
けれど引き換えにこれは、今日の演奏に臨むときに、ある一定以上の効果があるはずだった。
それは――
「だからおまえは、自由に吹いていい。オレの行く道とか部活としてのコンサートの成功とか、そんなの考えなくていいんだぞ」
豊浦奏恵から、余計な枷を外すこと。
なにかを気にして、どこかでかけてしまっている、彼女への自分自身のブレーキを取り除くこと。
これから自分を含め、全員が本気でやろうとしていることについて――お互いになにかを気にかけたまま臨むなんてことは、真っ平御免だったのだ。
だから、それで成功しようが失敗しようが――それは、おまえの責任なんかじゃなくて。
自分が下した判断なんだと、改めて言っておきたかった。
それはただ、彼女の本当に望んでいる音を引き出すため。
あのとき『彼』にかけてやれなかった言葉を――聡司は代わりに、奏恵に対してかけることにした。
今ここでは、色んな考えが浮かんできて、迷ってばかりだけど。
曲をやっているときくらい、そういうしがらみに囚われず、自由になるために。
するとこちら言い分を黙って聞いていた奏恵は、以前のように呆れた口調で、こちらに対して言ってくる。
「……そーいうこと言われると、逆になんとかしてやろうって思うのが、トランペットなんだけどね」
「ふっ――ははは! そうか。じゃあ、それでいいや」
「なんなのよ。……まったくもう」
全然筋が通ってない、馬鹿じゃないの、あんた――と言いつつ。
目を逸らした奏恵の顔には、先ほどまではまるでなかった笑みが浮かんでいた。
あるいはそれは本当に、こちらの馬鹿さ加減に呆れきったからこその、苦笑いだったかもしれないが。
すると――今度はそれに、慶がニシシと笑う。
「ホッホウ。あの難攻不落の豊浦城塞を落とすとは。おヌシもなかなかヤるではないデスか」
「そんなんじゃねーよ、バーカ」
と、そんな風に、軽口を叩けるくらいの雰囲気が戻ってきたのは――
やはりあれから、自分たちがそれぞれの答えを求めて、あがいてきたからだと思う。
それを言うべきだった人物は、もうここには来ないのだろうけど。
「……これでよかったんだよな、篤人」
それでもこの先の舞台で、自分たちにとって最良の選択を見つけ出すため。
誰もいない客席に向かって、聡司は小さく、そうつぶやいていた。




