ボタンひとつでダウンさ
「……まったく、なんでボクがこんなことしなくちゃいけないんだ」
軽音部の、部室の真ん中で。
助っ人キーボードの岩瀬真也は、同じく助っ人ドラムの滝田聡司の隣でそうぼやいていた。
先日、聡司が無理矢理練習に引っ張ってきて以来、ずっとこの調子である。
まあ文句を言いつつちゃんとやっているだけ、来もしなかった今までよりずっとマシなのだろうが――
「……結局、あんまり現状変わってないじゃないか滝田。この間おまえ、もうちょっとこいつらが熱心になったらボクを呼ぶと言ったろう。あれはどうなったんだ。ボクだって暇じゃないんだぞ。そりゃピアノ弾くのは楽しいけど、こいつらがこれじゃプラマイゼロだ。どうしてくれる。これについてほんと、どうしてくれる」
「うわぁ。うざいなあ……」
「なんか言ったか!?」
右隣から延々と続いてくる真也の恨み言に、聡司は半笑いを浮かべながら素直な感想を口にしていた。
キーボードとドラム。
お互いにその場から動けない楽器なだけに、距離を取ろうにも取ることができない。
ピアノを弾きだせばそれも収まるのだが、終わるとこうなる。まったく、ギターもベースも大体できてるんだから、練習態度にまで文句を言わなくてもいいのにと聡司は思っているのだが、真也としてはそうもいかないらしい。
どうしたものか。首をひねっていると、今度はそのギターの担当、結城紘斗がてててっと走り寄ってきてこちらに言ってきた。
「ねーねー岩瀬ー。そういやさっき思ったんだけど、岩瀬はいっつもピアノの音でキーボードやってるじゃん。他の音色に変えたりはしないの?」
「……他の音色?」
いったいなにを言っているのか、といった調子で、真也はきょとんとした。
意外なことに、本当になにを言われているのかわからないらしい。
それまでの機嫌の悪さが全部吹き飛んで、毒気を抜かれたようになっている。こういうのって、案外本人にはわからないもんなのかな――そう思いながら、傍で聞いていた聡司の方が紘斗の問いに答えた。
「ピアノじゃなくてエレクトーンとかオルガンとか、そっちの音でもやってみたらいいんじゃないかってことだろ」
「そうそう! 例えばさー、さっきの曲だったらこっちの音のが合ってると思うんだよね!」
そう言うが早いか、紘斗はキーボードの『ブラス』と書いてあるボタンを押した。
馴染みが薄いので聡司もよくわからないのだが、どうやらそこで出てくる音色を変えるらしい。
鍵盤を叩いてみると、やはり出てきたのはピアノの音ではない。さっきより、太くてノイズ交じりの音になった。
そしてピアノの音でしかやってこなかった真也は、あっけにとられた顔でキーボードを眺めている。
「ね? こっちのがさっきの曲には合ってるんじゃないかな」
「む、むう……」
頭を上げて笑顔でそう言ってくる紘斗に、真也は目を泳がせながらそう答えていた。
確かにそう思うが、素直に賛成することができない――そんな様子だ。
曲に対して、不真面目だと思っていた紘斗がこんなことを言ってきたのが信じられないのかもしれない。もしくはずっとピアノしかやってこなかったから、他の楽器の音を出すのに違和感もがあるというのもあるだろう。
それは推測することしかできないが――
「だな。こっちの方が曲には合ってると思うぞオレも」
とりあえず自分がそう思ったのは確かだったので、聡司は紘斗にそう返事をしていた。
「……!」
真也がなにか言いたそうな目でこちらをチラチラ見てくるが、気づいてないフリをする。
だって、こっちのがいいのだ。おまえのちっちゃい意地など気にしていられるか。
そう思って、文句を言われ続けたお返しにと笑いをこらえながら、聡司は紘斗に言った。
「そーいや、吹奏楽にはキーボードってほとんど入らないから忘れてたけど、こういうこともできるんだなー。いいなあ、ボタンひとつで音色変えられて」
「俺たちもエフェクターで変えられるよ! ゴリゴリ音色歪ませてやる!」
「いいなー。ドラムもやりたいなー」
シンバルとか変えてみたら違うのかなー。でも金ないなー。
そんなことを言いながら、聡司は真也の方をチラリと見た。
素直になれない優等生は、あさっての方を向き冷や汗をダラダラ流しながら、しかしそれでもなんとか「ま、まあ、そうか……」と口にしてくる。
「……まあ、じゃあ、仕方ないな。せっかくだから、ちょっとやってみるか」
「そうだよね! あ、でも最初はピアノのがいいかも? 途中から変えてみたらどうだろう!」
「え、ちょ、おま……っ」
紘斗の突然の思いつきに、真也がうろたえる。
だが「じゃあここから!」と楽譜を指さされて、そのまま反射的に楽器を弾き出さざるを得ない。
「いや、ここで切り替えをするとなると、直前のこのフレーズが弾けなくなって……って、うあー! クッソ! 間に合わねー!?」
「あはは。これじゃ厳しいかな。やめとく?」
「くっそ、なんとかしてやってやる、この野郎!!」
「あはは、なんか岩瀬おかしいねー」
「そして焚きつけた自覚もないおまえも、なかなかにおかしいと思うぞオレは」
「えー?」
これまでやってきた完璧なフレーズ運びが崩れてしまって、真也の演奏の計画は、根本的な立て直しを余儀なくされていた。
やはり細かい指運びの間に音色の切り替えが入ると、どうしても物理的に間に合わないところが出てくるらしい。
だとすると、それまで楽譜通りに弾いていた部分を簡略化するか、なんとかしてなにかの手段で音色を切り替えるか、どちらかなのだろうが――
「ま……こいつにゃ、かえってこの方がよかったのかな」
とりあえず、こっちへの文句がなくなったのを確認して、聡司は苦笑いしながら真也を見た。
楽譜と現状をにらめっこして、キーボードの優等生はあーでもないこうでもないと悪戦苦闘している。
それまでできていたものができなくなるのが、どうしても気に入らないらしいが――
「ああもう、じゃあこうすればうまくいくか!? クッソ、こうか!?」
しかし新しい境地に挑んでいく彼は、聡司にはどこか、楽しそうに見えた。




