新しいベースライン
「では、さっそく弾いてみよう」
「はい先生!」
軽音部のエレキベース担当である石岡徹の言葉に、春日美里はうなずいた。
いつもなら美里は、吹奏楽部でベースと同じく低音楽器であるチューバを担当している。
しかし今回は、「やってみたいから」ということで軽音部の見学に来たのだ。
自分とは似て非なるものに興味を持つのはいいことだろう――そう思って彼女を連れてきた滝田聡司は、その様子をドラムの席から眺めていた。
「じゃあ、これがピックだ。人差し指と親指で持つ」
「ふむふむ」
「で、弾く」
「ふむふむ……って、結構力要りますね、これ」
少しやってみて、美里が意外そうにそう言った。
ベースの弦を弾く際に、指の力が弦の張りに負けてしまってうまく弾けないようだった。
そういうことなら、と美里は次に強めにピックを動かす。だが今度はやりすぎて、隣の弦まで弾いてしまっていた。
「むー。うまくできません……」
ぼやきながらも繰り返しているうちに、それでも彼女は少し加減を掴んできたようだ。
動きがスムーズになっていく。つっかえつっかえだった音の断片が、つながりはじめた。
それを見た徹は、「うむ、じゃあ次は左手で弦を押さえてみよう」と言った。
「ネックの部分が金属で仕切られてるだろう。その間、弾いてる部分寄りのところを押さえる」
「はい」
「で、弾く」
「はい」
そう返事して、美里が一番太い弦を押さえて弾くと、ベィン、と音がした。
弦楽器は、弾く弦の長さが短いほど高い音が出る。
なので美里が押さえたことによって、そこからは先ほどまでより高い音が出た。続けて違う弦を押さえて弾いたりして、彼女は遊びだす。
だがそのうち、美里はうー、とうなりだした。
「左手でこの弦を押さえてるから、右手もこの弦を弾いて……ち、違う。こっちじゃない。えーと、下から二番目の弦を……」
どうやら、右手と左手が連動しなくて困っているらしい。
左手で押さえた弦を、右手が弾いてくれず。
右手で強く弾こうとすれば今度は左手の握りが甘くなる。
そんな風に苦戦している美里に、聡司は呼びかけた。
「おーい春日、大丈夫かー」
「み、右と左が……っ。一緒には動きませんっ!」
「あれ。おまえの楽器って、両手使わないんだっけ」
美里が吹奏楽部で普段やっている楽器を思い浮かべて、聡司は言った。基本的に打楽器は両腕を使うのだ。あまりその辺を考えていなかった。
あのバカでかい金属の塊を、こいつはどうやって吹いてたっけ。
そう思っていると、美里は言ってきた。
「チューバは基本、吹いてる口以外は右手しか動かしません! 左手は添えるだけ、なのです!」
「あー。じゃあ両手で違う動きするのとかは慣れてないのか。どうしても右手有利なんだな」
どうりで、さっきから弾くほうのが強いわけだ。
そこはやっぱり、ドラムと同じく訓練なんだろうなあ、と聡司は徹を見た。普通にこなしてるように見えたが、こうして美里を見ているとそれなりに練習しないとダメなんだろうなということがわかる。
だよなあ、別にサボってるわけじゃねえんだぜこいつらも――と、聡司はキーボードの助っ人のことを思い浮かべた。
これではまだ呼びかけの材料としては薄いだろうが、話の種くらいにはなるだろう。
そう思っていると、美里の様子を見ていた徹は言った。
「まあ、そんなもんでいいだろう。試しにアンプつないでみよう」
「ほえぇぇぇ。こんなんで大丈夫ですか?」
「問題ない」
あるだろう――と聡司は心の中で突っ込んだが、まあ今回は超初心者をバリバリ弾けるようにしなくちゃいけないとか、そういうことではないのだ。
ある程度わかったら、次へ次へ。
できなくて嫌になる前に、新しいことにチャレンジする。そのくらいの感覚でいい。
徹がベースとアンプをつなぐ。ゴツン、という電子楽器独特の音がした。
美里が先ほどと同じように弾き始め、そしてすぐに動きを止める。
「うわあ。なんだかさっきとは全然違います」
「アンプつないだからな」
「音が大きくなったから、あんまり右手で強くやらなくてもいいのかも……」
そう言って、美里は少し右手の力を抜いて弾き始めた。たどたどしいのは相変わらずだが、少しやりやすくなったように見える。
するとすぐさま、徹が一冊の本を持ってきた。大きくエレキベースの写真が入っているそれは、教本だ。
彼はその本を開き、美里に見せる。
「じゃあ、これ弾いてみようか」
「えーと、2、3? うん?」
「おい石岡。春日はTAB譜わかんねえから教えてやってくれ」
「そうなのか」
弦楽器特有の楽譜の説明をし、美里が納得したところで。
改めて彼女は、まじまじと楽譜を見た。
「えーと、5、0、3……1」
「ゆっくりでいいぞ」
「ごーごー、さんさん、なななな、ごーごー」
「なんか、なにかの呪文みてえだな」
数字を口に出してるだけなのだが。
そんな調子で美里は最後までやりきった。さすがに疲れたのか、ぐったりとため息をついている。
弦を押さえていた左手をさすって、彼女は言った。
「うーん、指の先が痛くなりますね」
「それは慣れだ。そのうちタコができて痛くなくなる」
「そうですか……」
徹の返答に、美里はまた小さく息をついた。
左の指先を動かして見つつ、申し訳なさそうに口を開く。
「なんか、思ったより大変でした。弦楽器だったらもう少し楽に音の上げ下げができると思ってたんですが……そうではなかったですね。難しいものです」
「慣れだ」
「打楽器のオレからしたら、おまえら管楽器が口で音程変えてるののほうがよっぽど意味わかんねーよ」
「まあそっか、そうですよね……」
結局は、なんでもそうですよね――と、美里は少し、苦笑気味に笑った。
「わかりました。本当だったら今度学校祭でやる『シング・シング・シング』のベースラインも一緒に考えたかったんですが、やっぱり自分だけで――」
「ん、やるぞ?」
「え?」
セリフをさえぎって徹がそう言ってきたので、美里はきょとんとして彼を見た。
そんな彼女に、徹は言う。
「ベースラインを適当に考えるのなら得意だ。別になんとでもなるぞ」
「え、あ、ほんとですか!?」
「お、マジか」
吹奏楽部の楽譜通りの演奏は、聡司もどうしたものかと思っていたのだ。
これが軽音部のやつが考えたベースラインに変われば、演奏自体も変わってくるはずだ。
美里が大急ぎで自分の楽譜を持ってきて、徹に見せる。
しかしそれにざっと目を走らせた彼は、顔をしかめた。
「……コードが書いてない」
「え、あ、はい。普通チューバの楽譜にコードは書いてないです」
「俺はTAB譜とコードしか読めん」
「ああもう春日。そいつにどこが何コードか教えてやってくれよ。そしたら考えてくれるよ」
「あ、そうなのですか」
はじめのコードはこれでですねー、と美里が徹に言うのを見て、やれやれと聡司は肩をすくめた。やっぱり連れてきてよかった。
なんでもやってみるものだ。
そう思いながら、聡司は新しいベースラインができあがっていくのを眺めていた。
《参考文献》
島村楽器株式会社「エレキベース入門」




